第五話 赤鬼
九蔵は、アケロン川の岸から十数メートルほどの浅瀬に水柱を上げて落下した。
水深は胸が浸かる位までと浅かったが、ヘドロが堆積していたので奇跡的に両手足の軽い打撲ほどで済んだ。
だが、ヘドロに足を飲まれ引き抜くだけでも結構時間を食ってしまった。
九蔵は、先ほど見た、ヤツメワニの存在が気にかかっていた。
水に落ちても素早く陸に上がれば水棲生物の強襲からは逃れられると思っていたが、ヘドロに埋まりもたついていれば、水面から出るホップ音で魚を寄せてしまう。
九蔵は生前に趣味にしていた疑似餌を使った肉食魚釣りを思い出していた。
水面に浮かせた疑似餌を生き生きと泳がせ、魚が食いつきたくなる様どんなアクションを加えるか苦心したが、それはまさに、今、自分が水中でもがく姿と酷似していた。
肉食の魚類というのは、自身の体長の三分の一くらいの獲物なら平気で飲み込むことができる。
ヤツメワニが爬虫類か魚類なのかは、わからないが、どっちにしろこの状況で自分はこれ以上にない格好の餌である。
よもや、生前では自分が魚の餌になることなど考えてもいなかったので、つくづく地獄とは皮肉の効いた世界だと思った。
しかし、危機的状況で断片的記憶がよみがえると言うことは、これから先、また何かをきっかけに生前のことを思い出すかもしれないと言う希望が湧いてきた。
九蔵の背後で、ザバと水の撥ねる音がした。魚特有のもじりという行動音であるが振り向いたとき、既に魚影は無かった。
しかし、釣り人であれば水面に浮いてくる泡付けの大きさを見れば大体の魚の大きさは把握できる。
その、水泡の粒と量からして少なくとも六メートル以上と九蔵は判断した。
「ひっ!」
情けない声が口をついて出た。
背中に悪寒が走り、両手足を使い岸に向かって必死に水を掻いた。
水深が腰ぐらいの高さになり、もう大丈夫だと安心した瞬間、左前腕に激痛が走った。
「ぎゃあああああああ!」
九蔵は絶叫した。
岸のあたりを見ると、赤い髪の女は追跡の手を止め、追われていた少女も何事かと九蔵を見ていた。
腕が万力で締め上げられねじ切る様な回転が加わった。泥色の水に赤黒い血の色が滲んだ。
九蔵は、切れる、もうダメだ死んだと思って目をつぶったが、そうはならなかった。
「あれ?」
と思い痛みに耐え、左腕を引き上げると体長一メートル弱のアリゲーターガーに似たおそらくヤツメワニの子と思われるものが腕にぶら下がっていた。
九蔵は、素早く右手で幼体の首を絞め、腕の肉が裂けるのも無視して無理矢理引きはがすと、それを赤髪の女の方に放り投げ、女の子の前に立ち塞がった。
泳ぎながらかなり水を飲んでしまい、傷口からは絶え間なく血が流れ、消耗して何も喋れなかったが川から上がれたことで再び覇気を取り戻しつつあった。
女の前に放り出されたヤツメワニの幼体は、仰向けになり、キュッキュッと哀れっぽく規則的な鳴き声を出した。
女はそれを無言で見つめていた。
すると、湾処一帯に細波が立ち始め、水面が一斉に泡だったかと思うと大小様々なヤツメワニ達が陸目がけて躍り上がってきた。
九蔵はその光景にゾッとしたが、計算の内でもあった。
もし、ヤツメワニが魚類ではなく、ワニ寄りの性質を持っているなら子供が助けを呼べば雄も雌も関係なく子を救うため殺到するという豆知識が甦っていたのだ。
これで勝負がつけばと思ったが、女は全く動じる様子もなかった。
右手を前に差し出すと、手の平から黒い小さな火が灯った。
女がそれに軽く息を吹きかけると炎は渦状にねじれながら周りの空気を巻き込んで大きな火柱となった。
黒い火は意志を持ったかのようにうねりだし、目の前のヤツメワニの大群目がけ進み始め回転を増すと、一気に二十メートルほどの炎の竜巻となり押し寄せた先頭集団を飲み込んでしまった。
タンパク質の焼け焦げる臭いと、肉が爆ぜる音が辺りに拡がり、炎の余熱で九蔵は、眉が焦げ熱せられた空気で肺を焼きそうになった。
ヤツメワニ達も本能的に危機を感じたのか炭化した仲間の死骸に背を向け霧散した。
幼体もいつの間にか身体を起こし一目散に逃げていった。
女は呆然とへたり込んでいる九蔵を金色の瞳で見つめ、ゆっくりと口を開いた。
「で? なんなの」
落ち着いた声だった。
「あの、子供をいじめるのはよくないかなあ、何て思ったりなんかして」
九蔵は弱気になり下手に出てみた。何か触れてはいけないモノに手を出してしまった気がしたからだ。
「ふーん、亡者が私に意見ねえ」
「いえ、意見というか提案というかですね」
九蔵は、言いながら改めて女を見た。
燃えさかる様な赤髪は、毛先を極太ロッドで巻いた様な、ふんわりとした良い感じのラブリーカールで柔らかそうな透明感のある頭頂部の髪からは、やはり二本の角が突き出ていた。
服装も、ビキニスタイルで、溢れんばかりの乳房を申し訳程度の狭い布地が包み、腰にパレオを巻いていた。鬼と言ってイメージする典型的スタイルであり赤鬼といったところだろうか。
「言いたいことがそれだけなら、殺すわよ」
女は担いでいたメイスを降ろした。その何気ない所作にも何か威厳の様なモノが漂っていた。
「あの、まだ審理前なんで・・・」
九蔵は言ったが無視された。ワニをけしかけて止められないとしても審理前といえば獄卒が手を出してくることはないというのが本当の切り札だったのだが完全に目算は外れていた。
「なにやってんだ、バカヤロウ!!」
九蔵は側頭部にいきなり衝撃を感じ吹っ飛びながら二秒ほど意識が飛んだ。
ミミミがロケットの様に飛んできてこめかみにドロップキックを放ったのだ。
「ぐあああ、ミミミどうして」
「それはこっちのセリフじゃボケ!」
ニウも、息を切らせながら小走りでやってきた。
「九蔵さん、何してるんですか! この方をどなたと心得てるんですか?」
九蔵は、水戸黄門みたいなセリフだなと思いながらも考えを巡らせた。
「多分、赤鬼さんですか?」
「お前やっぱしね!」
ミミミが腹を抉るパンチを食らわした。
九蔵は、四つ這いになり呻いたが、ミミミの力なら一瞬で亡者の身体を粉砕することは容易であり自分の失態に対してのミミミなりの配慮だと言うことが拳の加減で伝わってきた。
「九蔵さん、この方は統括地獄を管理する本部長さんの火鞠さんです。粗相の無い様にお願いしますね」
「いや、もう遅いだろ」
ミミミはニウに突っ込んだ。
「九蔵さん、なにをしでかしたんですか? わたしも謝るんで言ってください」
ニウは言った。
「その、俺は、その女の子を助けようと思って」
「たのんでないもん!」
女の子は元気よく言った。
「ええー!」
「九蔵さん、この子は児童相談所から逃げ出して火鞠さんが連れ戻しに来ただけなんですよ」
「児童相談所ってここ賽の河原じゃないのか」
「一体いつの時代の話をしてるんですか。そんなの千年前に廃止ですよ」
ニウの話によると、いかなる理由であっても死んだ子供を無差別に罪人とするのは違法性があり地獄でも比較的早い内に改正された法案の一つで、現在は児童相談所などで更生プログラムを受けさせるのが普通らしい。しかし、その更生プログラムも電話営業の様な仕事で毎月、成績やノルマがもうけられている。一ヶ月、営業成績を積み上げ、月という鬼がやってきては、月末には白紙にされる。
そして、翌月一日からまた、成績という石を積み上げ月末には壊されるという繰り返しでは結局やってることは賽の河原ではないかと九蔵は思った。
火鞠は九蔵達の不毛なやりとりに業を煮やしたのか、
「ニウ、ミミミ下がって」
と一言言った。
「あ、はい」
「失礼しました」
意外にも、ニウとミミミはあっけなく引き下がってしまった。
管理者が直々に手を下すのであれば亡者の一匹どうとでもなるのであろうかと九蔵は考え、逆転の糸口を探ったが今この状況を打破できるカードは一枚もなかった。
火鞠が再び手の平を前に出すと、小さいが先程とは比べものにならないほど密度の凝縮された黒炎が球状になって現れた。
「焼尽の鬼火」
それを、見たミミミが呟いた。
九蔵は、そうか、あれが鬼火というモノかと他人事の様に感心していたが、次の瞬間、自分の足下を軸に円柱状の炎があがり、轟音と共にその身を包まれた。