第四話 アケロン川急流地帯
九蔵は、勢いよく背中から地面に落ち、肺の辺りを強く打ちつけたので息ができなくなって、しばらく呻いていた。
しかし、落ちた場所はぬかるみで外傷はなかった。
どうやら、ミミミが一走りしている間に山間部を抜け平地に出ていたようだった。
仰向けで、胸を押さえ呻いていた九蔵は、空がドス黒いことに気がついた。
その色は、成層圏に天蓋をかぶせたかの様な圧迫感を伴っていた。
それでも地獄界が暗闇にならないのは、浮遊するガス状雲に地表から発するマグマの光が薄く照り返しているからだろうと九蔵は思った。
そのようなことを考えているうちに呼吸が戻りつつあった九蔵は、おめきながらも立ち上がると、目の前に広大な水面が拡がっていた。
それは、川幅が一キロはあろうかという大河だった。
ぬかるみは、河岸にできたゴミが浮いた水たまりで藻が腐った様な匂いを放していた。
人間の姿に戻ったミミミがやってきて、
「まさか、お前みたいなクソ亡者を背中に乗せるとは最悪な日だわホント」
と言った。
しばらくして、ピンク色の体毛をしたやけに睫の長いバッファロー型のニウが追いついて人間の姿に戻った。
「やっと、つきましたねーアケロン川」
とニウが言った。
「アケロン川って?」
「あ、九蔵さんには、三途の川って言った方がわかりやすいかもデスね」
ニウが言った。
「ウソだろこのアマゾン川みたいなのが?」
九蔵がイメージしていた三途の川というのは、向こう岸に声が届くくらいの日本的な清流だと思っていたので、こんな汚濁した悪臭を放つ川がこの世とあの世の境界とは考えたくなかった。
ただ、川のスケールからしてアケロン川と言うと確かにしっくり来るような気がした。
九蔵は、川べりに近づいてみた。コーヒー色に濁った水が緩やかに流れていたが、それは岸に近いところが大量の滞留物やヘドロの沈殿でワンドになっているだけで沖合に出るほど強力な瀬になりパワフルな急流地帯となっていた。
改めて辺りを見回してみると河原で鍋を洗うもの小便をするもの、ゴミを捨てて行く者などがいて結構生活感が漂っていた。
地獄は、常に水が少なく生活用水に使える三途の川もといアケロン川は貴重な水源らしかった。
しかし、貴重な水源という割には、汚物とビニル樹脂が混ざり合ったようなゴミが大量に浮き、羊に似た動物の死骸も流れていて、そのまわりにびっしりまとわりついた藻が悲壮感をかき立てていた。
先程から、ぐっしょり濡れた死に装束が泥水で茶ばみ、皮膚に重くまとわりついて不快だった。
九蔵は、やはり自分は死んだのだと実感した。
不意に水面が撥ね、死骸が巨大な口にさらわれていった。一瞬だが古代魚の様な背びれが目に映った。
その水棲生物の全体の大きさを考えると少なくとも七、八メーターある様に思えた。
九蔵は嫌な予感がした。
「もしかして、ここ歩いて渡るとかですか」
「そうだな、頑張れよ!」
ミミミは九蔵の肩を叩いて笑った。軽く叩かれただけで肩胛骨が砕けそうな衝撃を受けた。
「アケロン川でバタフライですか! あはは、たのしそー」
ニウも楽しそうに笑った。
「あの、ちょっと、やばそうな生き物もいるし、真ん中とか深くないですか?」
九蔵は、緊張で敬語調になっていた。
「娑婆でも有名ですけどアケロン川にはさまざまな悪竜がいて亡者を食べるんですよ。たぶん、真ん中あたりは最深部で三十メーターとかですよ」
「絶対無理、俺泳げないんだって」
「だっはっは、冗談冗談。お前なんか泳いで渡ったら、向こうつくころにゃ、ウツボナマズにハラワタくり抜かれてグッズグズだよ。グッズグズ」
「それって、さっきの生き物?」
「さっきのはぁ、三途ワニですよー」
「ワニ?」
「はい、昔の名残で学名は三途ってついてますけど、この辺の亡者はヤツメワニと呼んでますね。ヤツメって言っても目は悪くて、八つの目みたいに見えるセンサーで音や臭いを感知して二キロ先からでも獲物を嗅ぎ付けてくるんです。ここらへんに住んでる亡者が怖れている生物の一つですよ」
「あんなのが、ゴロゴロいるのか」
「地獄は、人間界から比べると攻撃性生物の宝庫ですからねー」
確かに地獄の気候というのは、高温多湿で亜熱帯の様だし、そこに住む生物もジャングルにいるような生態系をかたどっていてもなんら不思議ではないのだ。
さらに、最近では工場排水から不法投棄物など様々なものが混じりあい水棲生物に多大な影響を与え、劣悪な環境は淘汰された者をさらに凶悪な暴君へと進化させていった。
「まあ、安心しろ九蔵! 十王の査定受けるまでは責め苦なんて受けないんだからビビる事はないって」
「え、そうなの・・・」
「あ、そうだ、なんかバタバタしてて九蔵さんに、言うの忘れてましたね」
ニウの説明によると本来、人間が死んだ後魂はすぐ三途の川に転送されてくるはずだが、まれに異世界に飛ばされたり九蔵の様に座標がずれて餓鬼道などに紛れてしまう者がいるらしい。先ほど餓鬼に襲われたのも、白骨峠という冥土の入り口で、ちょうど餓鬼道と地獄道の国境線のようなところに位置し、紛れ込んだ亡者を餓鬼がさらって食べる狩り場なのだという。
十王の審理を受け刑期を決める前の亡者が餓鬼に食われるのは避けたいというので、ニウやミミミ達獄卒に国境警備や救助隊を兼任させているとのことらしい。
「じゃあ、向こう岸に渡るのは」
「ほら、あれですよ」
ニウが指さしたのは、見事な橋脚で構成された長大吊り橋だった。
九蔵は、あまりにも川が広大で気を取られ、橋の存在に気付かなかったのだ。
あんな大きな建造物に気付かないとは、いささか自分を間抜けだと思った。
橋は近づくとかなり巨大で、橋脚一対にしても高さが百メートルを軽く超えていた。
アケロン川に掛かるその様は、身を横たえる巨大な竜を思わせた。
さらに驚いたのは、30メーターほど幅がある橋の上に、亡者の列が隙間もないほどにひしめき合い長蛇の列を作っていた。
なぜか、アケロン川の岸に生活感が漂っているのも、橋を渡るのを待ちきれず、あぶれた亡者が周辺で暮らし始めているというのが原因だった。
「九蔵さん、地獄でまた会えるといいですね」
「ま、今度あったら、私が直々にぶっちめてやるから覚悟しとけよ」
「いや、それはちょっと・・・」
会話の内容は全然嬉しくなかったが、今のところ知り合いがニウやミミミしかいないので会えなくなるのは心許なかった。
九蔵は、ニウから手続きの必要書類を受け取り行列の最後尾に並んだ。
何だか、生前にもこんな列に並んでいた様な既視感に襲われたがそれが、コミケの行列だと言うことまでは思い出せなかった。
他の亡者もよく平気で待っているなと感心したがその理由は何となく知れた。
亡者の列に混じってイベントコンパニオンのような体にぴったりフィットした露出度の高い服を身につけた、やたらエロい格好の娘が冷えたドリンクを配ったり話し相手になってまわっていた。
どうやら、その娘らは噂に聞く奪衣婆ともしょうずかのばばとも言われる存在で、昔は亡者の衣服をはぎ取るのが仕事らしかったが、そんなことは昔の話で、今は地獄案内などをやる受付の役割が強いらしかった。
確かに十代の容姿を持つグラマラスな奪衣娘達を眺めるのは目の保養になったしそんな娘に自分の衣服をはぎ取られても消して悪い気はしないだろう。
しかし、九蔵は、遅々として進まぬ行列に苛立ちを覚えながら、欄干に凭れ川面をぼんやり見つめながら渡橋を待った。
ふと河原を見ると、五歳くらいの女の子が河原を走っていた。
冥界に来て子供を見るのは初めてだったのでいたたまれない気持ちになった。
その子供の後ろを、燃えさかる様な赤髪の女が、中世の騎士が扱う厳ついメイスを担いでゆっくりと迫っていた。女の子は必死に逃げていたが石に躓いて転んでしまった。
九蔵は、賽の河原で親より死んだ子供が鬼に撲たれるという民間信仰を思い出した。
子供が叩かれて泣く姿を想像した九蔵は激しい怒りに駆られた。
子供が死ぬということは虐待や事故に巻き込まれるケースが多いのに、それが罪だと地獄でさらに責めを負うなど許せることではないと思ったからだ。
だが、ここであの少女を助けようにも自分にはどうすることもできないのではと思った。
現に、橋の上から女の子が追われている姿を何人かの亡者は気付いているようだったが別段変わった様子もなくそれをぼんやりと眺めている者がほとんどだった。
先ほどニウを助けようとして自分が危機に陥ったこともあり九蔵は慎重になっていた。
しかし、子供が襲われていても他人事を装い傍観を決め込んでいる亡者たちと自分は同じなのだと思うとやるせない気持ちになった。
生前の自分はどうだったのか思い出せないが少なくともここにいる地獄に薄情な輩と自分は違ったはずだと言い聞かせ九蔵は意を決し、
「幼児虐待、俺、許せねー!」
と何故か韻を踏みながら叫び、欄干からダイブした。
しかし刹那的な衝動に駆られてことを起こしたことをすぐ後悔することとなった。
というのも橋の高さは想像以上に高く高層ビルに例えれば二十階くらいの高さで重力は等加速度的に速さを増し曇天を逆さにしたようなアケロン川の陰鬱な水面に九蔵の身体を無慈悲に吸い込んでいった。