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7/22

皇太子の苦悩



 翌朝。朝一番で再度の謁見を終えたカエムワセトを、アメンヘルケプシェフが呼びとめた。

 大柱の影のしま模様が延々と続く廊下で、義理の兄弟は立ち話を始める。

 兄のアメンヘルケプシェフはまず、弟の無事の帰還を喜び、灼熱の砂漠の中で修復作業にあたっていた労をねぎらった。そして、つい先ほど大臣の一人から聞いた報告内容について、弟に確認する。


「ところでカエムワセト。農夫を本業に専念させろと父上に意見したらしいな」


 弟は、さしでがましいとは思ったのですが――と前置きしてから、先程父王にも語った、天体と自然の現象について語る。


「一昨日、セペデト(シリウス)が空に現れました。――が、テーベからの報告では、トキの群れの到着が例年より遅れているそうです。今年の増水は期待できないかもしれません」


「なるほどな。今年は不作の恐れあり、か」


 エジプトの農業は、ナイル川の洪水が運んでくる肥沃な土によって成り立っている灌漑農業である。毎年、夏になるとナイル川が増水し、畑の土を新しいものにごっそり入れ替えてくれるのだ。よって治水事業の充実は、エジプトにとって国力の維持と発展に無くてはならない国家事業だった。これが、『エジプトはナイルの賜物』と言われる所以である。

 また、天文学は古代の国々にとって、季節を知り、自然の変化にいち早く対応し、農業や神事の指標とする重要な学問だった。

 天体の動きと自然の変化。これらを正しく読み取る事により、エジプトのみならず古代の国々は、繁栄を叶えたのである。

 トキは増水とともに毎年、北へ渡ってくる。それが遅れているということはつまり、今年の増水量は少ないと判断できるのだ。


「ですから、この時期に農夫を狩り出すのは得策ではありません。もしもの飢饉に備えて農作物の確保と国庫の安定に重点を置くのが賢明でしょう」


「なるへどな。それで、肝心の父上は素直に呑んだのか?」


 アメンヘルケプシェフが訊ねた。

 ファラオが首を縦に振らなければ、弟の明察も役に立たない。

 それに対し弟は、あくまで真面目な口調で兄の問いに答える。


「最初はしぶっておられましたが、誠心誠意説明させて頂きましたので、分ってくださいました。明日には勅令を出すそうです」


 とたん、アメンヘルケプシェフが吹き出した。

 カエムワセトは、その至極穏やかで実直な人柄を思わせる外見に似合わず、神殿の書物から少なからずの心理学を学び、心理術を心得ていた。今、彼の柔和な笑顔には、その “人たらし”の片鱗が覗いていた。


「誠心誠意か。どう説得したのか知らないが、お前は母上の次に父上を転がすのが上手い。その秀でた交渉術、いつか伝授してくれよ」


「共同統治者である兄上は、ご苦労が耐えませんね。心中、お察しします」


 幼い頃より交流が深く、それ故に、多くの兄弟達の中でも特別に仲の良い二人は、困った父親をネタに冗談を交えた会話で笑いあった。


「俺としては頭がいたいよ。国民からしてみればカリスマ性のある賢帝らしいが、ファラオの皮を一枚剥いてしまえば、でかいブロック遊びと女が大好きなただの変人でしかないからな」


 冗談めかしてはいるが、実のところ、アメンヘルケプシェフの心境は言葉以上に切実だった。

 アメンヘルケプシェフがラムセスと似ているのは、姿だけ。有能であることは確かなのだが、中身はむしろ、父王とは正反対の気質の持ち主であった。つまりは、この上なく “常識人”に近いと言える。そんな人間が何もかも規格外のファラオに付いて政務を学ぶのは、ストレス以外の何物でもなかった。


「そういえば昨日も、ライラが帰ってきたと大変喜んでおられたな。あと、なんといったか、あの風変わりな・・・。ほら、あそこに居る」


 アメンヘルケプシェフが大柱の間を抜け廊下の外に出て、中庭の奥を流れる水路に足を浸して遊んでいる一人の少女を指差した。

 彼女の肌は、遠目でもその白さが際立っていた。


 カエムワセトも兄に続いて太陽の下に出た。

 日差しが鋭さを帯び始める中、長い金色の髪の少女は、昨夜着ていた薄緑のドレスの裾が濡れるのもかまわず、ご機嫌に水路の水を足で蹴って遊んでいた。口が小さく動いているように見える。歌っているのかもしれない。


「リラ、です」


 カエムワセトが短く少女の名前だけ伝えた。

 アメンヘルケプシェフはリラをしばらく眺めていたが、やがて唸って顎を擦る。


「父上は・・・まさかあの娘まで嫁に迎えるとは言わんだろうな」


「それは、御心配にはおよばないと思いますが」


 束縛を嫌う魔術師を、後宮に縛れるはずがない事くらい、ラムセスも承知しているだろう。ラムセスは少女から熟女、はたまた親族まで守備範囲広く女を好むが、女性の意志を無視してまで手に入れたがる鬼畜ではない。


「それならいい。最近は側室や弟妹が増えるたびに大臣の顔色が悪くなるからな」


 カエムワセトは返答に困った。

 現在、ラムセスの子供は息子と娘を合わせるとその数は二桁の後半に突入している。しかも記録更新中だ。

 普通ならば本当に全員自分の子なのかと疑って不思議ない数字である。

 しかし、ファラオの懐は、その称号が恥じ入ってしまうほどに大きく、底知れぬほど深かった。


『気にすんなよ。俺の子として育てりゃ俺の子だろ。いいねえ、子供!大好きだ!』


 このままでは王家の血筋が危ぶまれると危惧し、『恐れながら――』と、手打ち覚悟で進言した大臣にも、彼は豪快に笑ってそう答えたという。


 王族の血もへったくれもない。

 大臣は泣いた。


 だがこれには、ラムセスなりの考えがあっての発言で、ヤケになっている訳でも現状を放棄している訳でもなかった。

 軍人王を先祖に持つラムセスにとって重要なのは、諸外国の勢力からエジプトを守れる優秀で信用に足る人間を次の王座および要職に就かせる事であって、血筋の維持ではなかったのである。

 ラムセスにとって、子供は駒。要は多ければ多いほど良かった。

 よってリラを嫁に迎えようと迎えまいと、弟妹はこれからも増え続けるはずだ。大臣の心労は今後も続く事だろう。


「信じられん。ヌバに平気で触っているぞ」


 その無数に居る子供達の最初に生まれたという理由だけで、大臣達と共に父の珍プレーに振り回される羽目になったアメンヘルケプシェフは、魔術師の少女が水遊びを止めて、中庭の木陰で寝ていた雄ライオンを撫ではじめた様子を見て驚いた。


 ヌバはラムセスのライオンである。よく躾けられ人慣れしたこのライオンが人間を襲う事はまず無いが、大型肉食獣のヌバを恐がる者は多い。鍛えられた軍人でさえ、ヌバが居る故に中庭を避けて遠回りするくらいだ。

 虫一匹でも大騒ぎしそうな可憐な少女が、犬猫を愛でるように雄ライオンに接している光景は、なかなかに衝撃的だった。


「彼女は魔術師ですからね。私達の常識は通用しません。ここにも、ワニに導かれて来たそうです」

「そうか、猛獣使いか」


 しばしの間、沈黙が落ちる。

 カエムワセトは自分が、リラを猛獣使いだと彼に誤解させる発言をしたのだろうかと、先の台詞を頭の中で再生した。しかしそうではなく、猛獣使いという発想は、兄が持つ特徴的な思考パターンが導き出した “回答”なのだと気付く。


「失念していました。兄上もライラと同じ排非科学派でしたね」


 宮中でも有名な世俗主義者を引き合いに出されてしまい、アメンヘルケプシェフは慌てて弁明する。


「別に、あいつのように神や精霊などの精神面を無視するつもりはないぞ。物質主義なだけだ。信仰や奇跡のみでは、治世は成り立たんからな」


 堂々と物質主義者を名乗るのも如何なものかと思われるが、ライラと同じ人種として扱われるよりは幾分マシだった。

 だが、弟が困ったように微笑んだ瞬間、アメンヘルケプシェフは最後の一言が失言だったことに気付き、後悔した。


「そんな顔をするな。俺はお前に感謝しているんだ。エジプトはお前の知識の恩恵を存分に受けている事を忘れるな」


 天文学や地質学のみならず、神学にも造詣が深いカエムワセトを、民は『神官の王子』と呼び慕っていた。カエムワセトは、まさにアメンヘルケプシェフがあてにしていない信仰や奇跡といった分野で、治世に貢献している人種だった。


「今のところ私がお役に立てるのは、文官の域がやっとですから」


 本来なら、大いに武勲をたてて父王や皇太子を助けたいところだが、カエムワセトは武人としての才に恵まれなかった。早世した兄が生きていれば、武官として、どれだけ父や皇太子の助けになっただろうと考えない日は無い。


「お前ほど優秀な文官はそういない。プレヒルウォンメフの件についても、もういい加減、自分を許してやれ。お前は十三の身空で旅にまで出たじゃないか」


 弟の苦悩を知る兄は、声色を優しく続けた。


「それに『イアル野』という所は、不安とは無縁の楽園だという話だ。案外あいつ、楽しくやってるかもしれんぞ」


 天国をしめす、『イアル野』。枯れる事の無い国土。たわわに果実を実らせた木々。水は川の底が見えるくらい澄み渡り、神々に見守られながら多くの生き物が暮らしているという。そこには、病も、飢饉も、戦争も存在しない。


「それに比べてこっちときたら、ヒッタイトとのいざこざが収まる気配もない状況で次はアッシリアにリビアだ。この殺伐とした時勢、必ずしも生き残った者が勝ちとは限らんのではないかとつい考えてしまうのが、悲しいところだな」


 アメンヘルケプシェフはそう言って石段に腰をかけると、天を見上げ眩しそうに目を細めてから、一つため息をついた。


 八年前。エジプトは、北方系民俗が統べるヒッタイト国と大規模に衝突した。これが、カデシュの戦いである。

 元々、ヒッタイトは長年にわたって争いを繰り返してきた国であり、お互いに多くの兵士の命と国力を費やし、いまだ関係はくすぶったままだった。

 ちなみに、アッシリアは、メソポタミアの北部を占める地域。チグリス川とユーフラテス川の上流地域を中心に栄えている国である。リビアは東側の砂漠地帯だった。どちらも近年、勢力を伸ばして来ているという。

 大陸に四肢を広げる国は、戦火にさらされるのが常である。国土を広げては奪われる。その繰り返しだった。


「俺がカデシュで最後に見た光景は、紛れもない地獄だった。草原が敵味方双方の血で染まり、地面は戦死者で埋め尽くされて見えない。だだっ広い平原に、負傷兵や馬の叫び声が不気味に響き渡って・・・凄惨としか言いようがなかった。あんな戦はもう御免だ」


「私はまだ幼かったので、戦いの惨状を目の当たりにはしていませんが、その惨さは想像できます。エジプトは二万の兵の半分以上を失ったのですから」


 ラムセス二世も、カデシュの闘い以降は大きな国土拡大は行っていない。それは、いつ何時再開するかもしれないヒッタイトとの衝突と、徐々に脅威を増してきているアッシリアやリビアに備えているが故というのが建て前だ。だが、家臣及び国民からしてみれば、『戦争などもう真っ平』というのが本音だった。そして口には出さないが、ラムセスの腹の内もそうなのろうと、息子達は思っている。


「十五の俺には相当刺激が強かった。お陰で未だに夢に見る。だから今後、ど派手な武力衝突だけは、どんな手を使ってでも阻止したいんだ」


 十五歳の非力な少年から、二十三歳の大人へと成長したアメンヘルケプシェフには、それを主張する権利も、力も得た。

 最後のくだりで表情を引き締めた皇太子の横顔は、王座を継ぐ器を十分に備えた男のそれだった。見る者を引きこむ磁力と、人を従わせる力がある。そして何よりも、エジプトを守り抜くという強い意志が感じられた。


「私も及ばずながらお手伝いいたします」


 頷いて言ったカエムワセトに、アメンヘルケプシェフは次期国王の顔から一人の優しい兄の顔へと戻り、弟でもあり無二の親友でもある男を見上げた。


「お前は優しすぎるから心配だ。そのくせ変なとこで頑固だからな。頼むから殺されたりせんでくれよ」


 弟は笑って「ご忠告、痛み入ります」とお辞儀した。


 もうすぐ会議の時間になる。そうなると、皇太子は夜遅くまで、書類の山と年寄りの小言と父王からのプレッシャーと戦い続けなければならない。なんだかんだ言っても、あの父王は希にみる賢帝なのだ。

 驚くほど大きな器と才量を持つ男の働く姿は、尊敬に値するものでありながら、“手本”として背中を追う者にはあまりにもハードルの高い存在であることだろう。


 兄は、父のようにはなれない。


 カエムワセトは思う。

 記憶している限り、カエムワセトは、父が憂いているところを耳にした事がない。勿論、あの破天荒で無邪気で自信に満ち溢れている人間にも憂いがないわけではない。真に心を許し、且つ頼れると判断した者にしか表出しないのだろう。


 否。できない、のか。


 強さと脆さは表裏一体だと、カエムワセトは父を見るといつも感じる。

 優しく心が萎れやすい兄は、父のような強靭な王にはなれないだろうが、優しさとしなやかさを兼ね備えた義王になるはずだ。

 特別強靭でなくともしなやかさがあれば、少々の暴風には耐えられる。この街を囲んで守っている、ヤシの木のように。

 そのために、自分ができることは、兄の心を揺さぶる不安の風を少しでも和らげてやる事である。

 ただし、虚言を使った慰めだけは言わないでおこうとも、決めている。


 ふと、リラの姿が目に入った。リラは、自分よりも四倍以上体重がありそうなヌバとじゃれあい、楽しげな笑い声を上げている。その姿は、とても幸福そうだった。


「リラがああやって生きているのですから、生きてこそ得られる幸福もきっとあるのですよ」


 自分達よりもはるかに広く深い世界に住まう魔術師。争いと人との慣れ合いを嫌う者が、こうやって現世にとどまっているのが、現世に幸福を見出している何よりの証なのではないか。

 カエムワセトの言葉に、アメンヘルケプシェフは「なるほど」と頷き、笑った。


「お前にトトの書を手放させた娘なだけに、説得力はあるな」

 

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