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託された一本の矢

 空から現れた巨大な蛇の存在は、前庭で闘っている援軍も気付いた。ずっと神殿に押し入るように囲んでいた蛇達が急に動きを止め、回れ右をして散り散りに去り始めたからである。敷地内で変異していた蛇達も姿を元に戻し、戦意を喪失したように岩の隙間や草むらに身を潜めた。加えて、上空から吹きつけて来る不自然なほどに冷たい強風である。

 見上げると月を飲み込みそうなほどに巨大な黒蛇が夜空に浮いていたのだから、兵士達の慄きようは凄まじかった。


「やべえ。総大将が来やがった」


 アーデスは強風に目を細めながら、身体をうねらせ真っ直ぐこちらに向かってくる巨大な蛇を見上げた。

 ラムセスもアーデスの隣で、同じように空を仰ぎ見た。


「あれがアペピか。まさか生きてるうちに、この目で拝めるとはな」


 アペピは、冥界を通る死者の魂を襲う悪霊でもあった。故に、死者の書にはアペピから身を守る方法も記されている。


 現世でアペピと対峙する事になろうなどとは夢にも思っていなかったラムセス達は、しばし茫然と、真っ赤な月をはめ込んだような瞳を持つ巨大な黒蛇の恐ろしくも美しい姿に半ば見惚れていた。

 とうとう、アペピが地面にその巨体を降ろす。

 着地音は全くなく、代わりにひと際大きな風がアペピの腹の下から吹き荒れた。その強風を受けて、それまで我を忘れていた兵士達が目を覚ましたように一斉に逃げだす。


「【わたしの許しなく眷族達を操っておる愚者はどこにおる】」


 ラムセスとアーデスの前に降り立ったアペピは、目の前の二人の人間に問うた。

 地の底から湧き立つようなその声に、兵達の何人かが身体を震わせる。

 ラムセスはアペピの質問には答えず、腕を組んで漆黒の悪霊を見上げると、隣の戦友に悠長に話しかけた。


「やべえな。流石にこいつには勝てる気がせん」

「右に同じだ」

 と、アーデスが答える。


 アペピは自分の腹の下に散乱している蛇の死骸と、神殿の敷地内で転がっている変異した蛇の死体をぐるりと見回すと、唸るような声を出した。


「【随分と殺してくれたものだ。貴様たちにも、罰を与えねばなるまい】」


「退却させるか」

「だな」


 いよいよ身の危険を感じた二人は、勝ち目のない闘いから兵を逃がす選択をする。

 だが、屋上から軽い足音を立てて地面に着地したリラが、両手を掲げ、門前にある二体のホルス神の座像を魔術で動かした。

 5mはあるかと思われる巨大な石像は、その体に積もった砂を落としながらゆっくりと腰を持ち上げ、立位となる。

 次の瞬間、ラムセスとアーデスの体の周りにばちばちと火花が散り、その火花は先程リラが動かしたホルス神の石像に触手を伸ばすように繋がった。


「な、なんじゃこりゃあ!」


「コラ!リラ!説明しろ!」


 いきなり見えない縄で拘束されたような感覚を覚えた二人は仰天し、アーデスが自分達とホルス神の石像を火花で繋げた張本人である魔術師の少女を問い糺す。


「その石像を自分だと思って動かすんだよ。二人の考えたように動くから、それでしばらく時間をかせいで。私もすぐに戻るから」


 そう言ってリラは踵を返すと、神殿内部へと走って行った。

 勝手に石像とシンクロさせられた中年の二人は、各々恨みごとを口にする。


「なんちゅー無茶な要求をするんだ・・・!いくらファラオでも出来ることと出来ない事がだなあ・・・!」


「石像使って大御所と戦えってかよ!人使いが荒すぎるぜお譲ちゃん」


 辛うじて踏みとどまっていた数人の兵士達が、身体の周辺で火花を散らし続けるファラオと傭兵に、不安いっぱいな顔で近付いてきた。


「へ、陛下・・・大丈夫ですか?」


 槍兵の一人が恐る恐るラムセスに問うた。

 突如、ラムセスがやけっぱちに叫ぶ。


「ええいっ!やってやろうじゃねえか!お前ら、援護しろ!」


 周囲から、「えええっ!?」という声が上がった。その声は、驚きと言うよりは、『そんなの嫌だ』という訴えに近い。


「ほ、本当にこいつと戦うんですか?」


 確認してくる兵の声は、殆ど泣き声になっていた。

 ラムセスは自由にならない身体で後方の兵達に振り返ると、「うるせえ!てめえらも軍人なら腹括りやがれ!」と叱咤する。


「大体だな。相手が人間だろうが、蛇の総大将だろうが、嫁と子供を守るのが旦那の仕事じゃねえか!違うかよ!?」


 そう言うと、ラムセスは鉛のように重く自由の効かなくなった腕の一本をぐぐぐと持ち上げた。

 すると、二体のホルス神の石像のうち一体も、その動きに同調して腕を持ち上げる。

 周囲から「おおぉっ!」という歓声が起こった。


「しっかり見やがれカエムワセト。これが、親父の、生き様だー!」


 大きく右腕をふりかぶったラムセスとホルスの石像は、その固く握った拳をアペピの側頭部に叩き込む。

 殴り倒されたアペピの身体は、暴風を引き起こし地面に倒れた。


―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・


 残念ながら、神殿の最深部にいるカエムワセトが父の勇姿を見れる事はなかった。

 数名の兵士と共に屋上に到達したライラ達も、そこに居るはずだったカエムワセトの姿を探し、うろうろと彷徨う。


「殿下達はどこ?」


「空っぽっスね」


 屋上にあるのは、明々と燃える松明と、ロープで縛られた乾いた葦の束。そして、炭となった蛇の死骸だけである。

 だが、手すりの向こう側に見えた光景に、兵士の一人が「なんだありゃ!」と声を上げた。

 同じ光景を目の当たりにしたジェトは、目を見開いて鳥肌を立たせる。

 そこでは、数十メートル級の大蛇と、二体の石像が闘っていた。周りを右往左往している人間は、その二つに比べたらネズミ程度の大きさにしか見えない。


「あれ、蛇の魔物か?なんかものすげえヤバい感じがするぞ」


 蛇が動き回るたびに突風が吹き荒れ、冷たく湿った風がジェトの体にまとわりつく。まるで、深夜の濁流の川に落ちた気分った。


「大きさが全然違うっすよ。別のヤツじゃないですか?」


 ハワラが手すりによじ登り、目の前の様子を眺めて言った。


「別の奴って、別の蛇かよ」

「多分」


 二人はその後、無言でたっぷり数秒間、互いの顔を見合わせた。

 だが、結局現状を把握しきれなかったジェトは、カカルの頭を両手で掴むと「なんで別の蛇がいるんだよ!?」と苛立ちに任せて乱暴に揺さぶった。

 カカルは目を回しそうになりながら、「オイラが知るはずないでしょお!」と言い返す。


「アペピ・・・」


 混乱している二人の横で、ライラが茫然と呟いた。

 ジェトとカカルはぴたりと喧嘩をやめ、ライラに顔を向ける。


「子供の頃、殿下と神殿の書物で見た事があるの。赤い目に、体に斑点がある大きな蛇の絵。ラーの象徴である雄猫と闘っていた」


 今、自分達の目の前にいる大蛇は、まさにライラが描写した通りの姿をしている。


「嘘だろ」


「俺ら、どうなっちまうんだ・・・」


 一緒に屋上に登って来た兵士達が口々に言った。


「こうなったら、最後の手段だわ」


 ライラは決意にぎゅっと眉を吊り上げると、松明の一つを手に取り、屋上にまとめてあった葦の束に投げ入れようとする。


「やめろ!神殿に放火なんて何考えてんだっ!」


 慌てたジェトがライラの手を掴み、炎の投下を止めさせようと踏ん張った。


「止めるな!私はマアト(秩序の神)の倫理規範を犯してでも現世を生き抜くって決めてんのよ!」


「神前でめったなこと言っちゃ駄目っすよ!」


 暴れるライラを、ジェトとカカルが必死で止めにかかった。

 兵士たちは、おろおろとそれを見守るばかりである。


 下では石造を操ってアペピの頭部を地面に押さえ付けているアーデスが、屋上から聞こえてくるライラたちの諍いに呆れていた。


「あいつらのやり取りを聞いてると戦意が削がれるわ・・・!」


―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・


 兵達が各所へ散った事を確認すると、カエムワセトは祭壇の中で光の呪文を映し出す杖と向き合った。

 目の前に映されている呪文は、これまでで最も長い。


「準備は良いかい?ハワラ」


 最後にもう一度、ハワラに確認する。

 ハワラは覚悟を決めた様子で、「いつでも」と頷いた。

 カエムワセトは大きく息を吸いこむと、詠唱を始める。


「『この部屋に居るあなたよ。生まれながらに叡智で満たされ、傷を癒す奇跡の手と言葉を持ち、時を管理する無二の神よ。私はそなたの恩恵を損分に賜った。そして今、私は慈悲深きあなたの最後の奇跡を望んでいる。主を失いしこの空虚な神域に、再び神の息吹を取り戻したまえ。その化身と引き換えに、神が宿りし象を返したまえ。ホルスはきませり。ホルスはきませり。――ホルスはきませり!」


 祭殿に自立している杖は、カエムワセトの詠唱が始まると、ガタガタと音を立てて揺れ出した。その揺れは、カエムワセトの口から呪文が紡ぎ出されるごとに大きくなった。そして、詠唱が終わりを迎えた時、杖はこれまでで最も大きく輝き、祭壇から姿を消した。

 杖の代わりに祭壇に姿を現したのは、3年前の火事でその身をプタハ神殿に移設されていた、かつてのこの至聖所の主。ホルス神の像だった。

 ホルス神像が姿を現すと、ただちにカエムワセトがその像の胸元に両手を触れた。

 次の瞬間、ホルス神像が白い輝きを放ち、辺りは一瞬で何も無い真っ白な空間に変わった。だがよく見ると、壁やレリーフの凹凸は存在していて、全ての色と影だけが取り除かれた状態になっている事が分る。

 カエムワセトは肩で息をしながら、ややふらついた足取りで白一色となった神殿を見回した。


「上手くいった。――ハワラ!?」


 カエムワセトは傍で倒れているハワラを慌てて抱き起こした。息があるのを確認して、気絶しているだけだと分り胸をなでおろす。


「カエムワセト!アペピが来たよ!」


 ほっとしたのもつかの間。リラが、最も恐れていた存在の来襲を告げに来た。

 続けて、頭上で兵士達の叫び声が聞こえる。

 兵士達とあぶり出された蛇の魔物が闘っている声だった。


「リラ。ハワラを頼むよ」


 カエムワセトはラムセスから貸し与えられた剣の柄をぎゅっと握りしめると、リラにハワラを託し、自分は二階へと急いだ。


―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・


「やだ、なにこれ」


「兄貴ー!神殿が・・・神殿が光ってますぅ!」


 屋上にいたライラ達は、突然神殿が白い光を帯びた事に驚く。

 だが、どおん!という轟音と共にホルス神の石像が神殿に激突した事で、そちらに気を取られた面々は、屋上の手すりの上から下を覗き込んだ。


 巨大な石像とはいえど、アペピと並べば大人と子供ほどの体格の差がある。しかも、石像を意思で動かすなど初めての経験であるラムセスとアーデスは、苦戦を強いられていた。

 アペピの尻尾で張り飛ばされたラムセスが操る石像は、操縦者ともども神殿の壁に激突した。

 運よく石像と神殿の壁の間の隙間に転倒し、圧死を免れたラムセスだったが、片脚を挟まれてしまい身動きが取れなくなる。


「やべえ!動けん!」


 石像を動かそうと試みるも、ラムセスと石像を繋ぐ火花は神殿との衝突を最後に消えていた。


「ラムセス!」


 駆けつけたアーデスが兵士と共に助け出そうとするも、石像は重く、引っ張りだせない。

 アペピが機会を逃さず、口を開けて襲ってきた。

 ラムセス達は死を覚悟する。

 その時、地面から巨大な影が現れ出でた。それは、ラムセス達とアペピの間に立ちはだかった。


「【まだ早い。お主がこちらに来るのはまだ先だ】」


 巨大な影は、ラムセスに黄金色の瞳を向けると、腹に響く低い声でそう言った。


「まさか・・・アヌビス神かよ」


 アペピを凌ぐ巨体の上に二つの直立した突起を見つけたアーデスが、信じられない面もちで呟く。


「【わが父オシリスの(めい)により参上した。今宵、この者を冥界へ送ることまかりならぬ】」


「【わたしは蛇の王ぞ!配下を悉く殺められ、黙しておれと言うのか!】」


 アペピが怒りを顕わに牙をむくと、これまでで一番の暴風が吹き荒れた。

 屋上のライラ達は、飛ばされないよう必死に手すりにしがみつく。


 アヌビス神がその手に持っていた杖を振るい、アペピを張り飛ばした。高く飛ばされたアペピは大麦畑に落下する。アヌビス神は飛び上がり、アペピが身を起こす前に、倒れたその身体の上にどおん!と着地した。そして両脚と杖の先でアペピを抑えつけながら、共に地中に沈んで行く。

 アペピは暴風と叫び声を上げながら、己を押さえ付けるアヌビスと一緒に大地の底に消ていった。


「すげえもん見ちまったな・・・・」


 神と悪の化身の闘いを目の当たりにしたアーデス達は、呆けたように立ちつくしている。


「いいから早く助けろ!痛いんだよ!!」


 アヌビスに救われた本人であるラムセスは、脚を圧迫してくる石像から逃れる事に必死だった。



 暴風が治まっても、ライラ達は体が震えて動けなかった。

 だが神殿の白い輝きが消えていない事に気付き、本来の闘いがまだ終わっていない事を思い出す。

 この神殿の変化は、カエムワセトが起こしているに違いないと察したライラは、震える足をぴしゃりと叩き気合を入れると、登って来た階段に走った。

 後ろからジェトとカカルが呼ぶ声がしたが、振り返っている余裕はなかった。

 ライラは強い胸騒ぎを感じていた。

 

―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・


カエムワセトが2階へ上がると、そこでは兵士達と大蛇の魔物が闘っていた。

 弓兵が次々と矢を放つが、魔物は素早い動きで壁や天井を這いまわり、ことごとくかわしてゆく。

 今まで魔物を何度も影から弾きだしても一向に捕まらなかった理由を、カエムワセトは目の当たりにした。

 槍を持っていた兵士の一人が蛇に噛みつかれ、しばらく壁を引きずりまわされた後、他の兵士達の上に叩き落とされた。

 噛まれた兵士に駆け寄り助け起こしたカエムワセトは、辛うじて息のある兵士の傷を素早く確認すると、他の兵に至聖所にいるリラの元へ連れて行くよう命じた。


「負傷者は下へ!重症者は魔術師の元へ届けろ!」


 指示を出したカエムワセトは、足元に落ちていた弓を拾うと、隣にいた弓兵の矢筒から矢を一本引き抜き魔物に向けて矢を放った。

 魔物は大口を開けてると、カエムワセトが放った矢をばくりと飲み込む。


「食った・・・」


「嘘だろ」


 兵士達が青ざめた。

 カエムワセトも驚いたが、自分の放った矢が清められていない普通のものだった事に気付くまでにさほど時間は要さなかった。

 聖水で清められているものは、自分達が用意した武器のみである。援軍が所持しているのは、普通のものだ。

 カエムワセトは聖水の祝福を受けた武器を探そうと視線を巡らせた。しかし、この混戦の中ではどの武器が聖水の恩恵を受けているのか判別がつかない。


「殿下!剣を使って下さい!」


 後ろから聞こえた声に、カエムワセトは驚いて振り返った。

 そこには、目を覚ましたハワラが階段に手を付きながら登ってくる姿があった。

 リラが負傷兵の治療にあたっている間に上がって来たらしい。


「ハワラ!戻れ!」


 魔物がその金色に光る両目でハワラをとらえた事に気付いたカエムワセトは、魔物の動きに注意しながらハワラの元へ急いだ。

 魔物が大きく口を開き、その奥にある闇の中から、細い何かが伸びてきた。

 先程飲み込んだ矢だった。魔物が口から矢を放とうとしているのは明白である。


 カエムワセトが後ろ手にハワラを守ったのと、魔物の口から矢が放たれたのは、ほぼ同時だった。

 矢尻がカエムワセトの腹部に命中しようとしたその時、飛び込んできたライラが、カエムワセトと矢の間に体を滑り込ませた。

 そしてライラは、背中に矢を受けた。

 

 ライラに矢を中てた魔物がにやりと笑ったその隙に、数人の兵士が矢と槍を放ち、その幾つかが蛇の胴体に命中する。

 命中したいくつかは聖水の祝福を受けたものだったらしく、魔物は悲鳴を上げると壁を伝い、刺さった槍や弓をふるい落としながら、下の礼拝堂へ逃げて行った。

 兵達はそれを追いかける。

 

 突然目の前に飛び込んできた赤い物体の正体が直ぐには分らなかったカエムワセトは、その赤い物体に自分に届くはずだった矢が刺さっていることに気付く。そして、その物体が自分の忠臣の一人だと知った時、カエムワセトは表情を凍りつかせた。


「ライラ!矢を――」


 慌ててライラの背中を確かめようとしたが、「大丈夫です!」と両腕を掴んで押しとどめられた。


「幸い、それほど深くありません。どうぞ行って下さい。早く、奴を仕留めなければ」


 ライラは背中の痛みに耐えながら、カエムワセトを階段へと押しやる。

 腹心の部下の強い思いを感じとったカエムワセトは、怒りの色を瞳に宿すと、ぐっと耐えるように歯を食いしばった。


 リラがハワラを追いかけて階段を駆け上がってきた。


「リラ、ハワラ。ライラを頼む」


 二人に手負いの忠臣を託したカエムワセトは、ラムセスの剣を抜き、階段を駆け下りた。


 カエムワセトの姿が階段の向こうに消えた途端、ライラが前に崩れて激しく咳き込んだ。

 その口から、鮮血が飛沫となって飛び散った。


「ライラさん!」


 ハワラが慌ててライラに手を伸ばす。だが矢を抜くわけにもいかず、結局何もできないと分ったハワラは、伸ばした手を引っ込めて悔しそうに顔を伏せた。


「――っくしょう!肺をやられた」


 ライラが両肘で体を支えながら呻く。

 そこに、屋上からの階段を下りてきたジェトとカカルが駆け付けた。


「ライラ!お前――!」


「何があったんす!?」


 背中に矢が刺さったライラの姿を見て、二人は仰天して目を見開いた。

 ライラは四つん這いになった姿勢で、ジェトを見上げる。


「ジェト。あんた、弓は引けるわね」


 ジェトはうろたえながら「一応」と答えた。


「これ持って、殿下を援護しに行きなさい」


 ライラは右肩にかけていた自分の弓を取ると、ジェトに託す。

 とりあえず弓を受け取ったジェトだったが、「矢がねえだろ」と困り顔で言い返した。

 ライラの矢筒は、再び空になっている。辺りを見回しても、槍や弓は落ちているが、肝心の矢が見つからない。あっても、折れて使用不可能なものばかりだった。


「あるわよ。一本だけど」


 ジェトはすぐに、ライラの言葉の意味するところを理解した。

 自分の背中の矢を使えと言っているライラに、ジェトはだじろぐ。


「馬鹿!かなり深く刺さってんのに、不用意に抜いたりしたら――」

「抜かなくてもそのうち死ぬわよ。リラ。お願い」


 自分の身を案じて躊躇する仲間の言葉を遮ったライラは、魔術師の少女に背中の矢を抜くよう頼んだ。

 リラは「うん」と頷くと、ライラの前に跪き、背中に刺さっている矢を包み込むように掌を向かい合わせた。

 矢がゆっくりとライラの背中から抜けていき、空中で静止する。

 リラの魔術が効いているのか、矢が抜ける最中もライラは痛みに呻く事なく、出血も起こらなかった。

 リラは矢を手に取り、ジェトに渡した。


「矢に魔術をかけたよ。この矢は一度あいつの体を覚えているから、刺されば二度と抜けない」


「じゃあ、今までみてえには逃げれねえんだな!」


 その素早さと頑丈さで散々手こずらされたジェトは、光明を得たように瞳を輝かせた。

 しかし、次にリラが告げた「でも、討ち損じれば次に覚えたライラの体に返ってくる」というペナルティの大きさに、「はあっ?」と目をむく。


「仕方ないよ。それが魔術なんだ」


 あくまで冷静な態度を崩そうとしないリラに、ジェトは反発心を覚えた。しかし、ライラの「ぐだぐだ言うな!」という叱責の声にびくりと身体を震わせ、自分に後を任せた弓兵の顔を見る。その口元には、吐いたばかりの鮮やかな血がついていた。


「余計なことは考えず、とにかく奴を狙って矢を放つのよ。いいわね」


 そう言うとライラは、ジェトに「行け!」と怒声を浴びせる。

 その声を合図にして、まるで魔法にかかったように、ジェトはダッと走りだした。


「ちくしょう。あれが、軍人てやつかよ!」


 この時、ジェトは初めて、自分には持ち得ない類の強さを、エジプト軍セト師団小隊長ライラから見せられた気がした。


 白一色だった神殿は、徐々に本来の色と影を取り戻しつつあった。


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