白き宗教都市メンフィス
それから二日後の夜明け前。白みがかった空とトルコブルーの王宮の壁に囲まれた厩舎前の広場で、ハワラをメンフィスに送る一行は、厩舎番の少年から馬を受け取っていた。
ラムセスは王宮に、500頭近い馬を収納できる巨大な厩舎を作っている。だが当時、馬はエジプトに持ち込まれてから歴史が浅く、その用途はほとんど戦車を引く軍用であり、乗馬の文化はまだ浸透していなかった。辛うじて、貴族の息子達だけが乗馬の訓練を受けた程度である。
平民にはむしろロバの方が馴染みが深かった。ゆえに馬具は乏しく、鞍は毛布を被せる程度で、あぶみもない。
ハワラも馬には馴染みがなく、ロバに乗るのがやっとだった。自分の身長を余裕で追い抜く大きな動物を目の前に引っ張ってこられ、その上、これに乗って移動しろと言われたハワラは、ぶんぶんと首を振って拒否する。
カエムワセト達は馬の機動力を好み旅の移動手段として愛用したが、これはまだ珍しい例である。
だが、あまりに当たり前に馬を使っていたカエムワセト達は、そういった事情をすっかり失念していた。
仕方がないので、ハワラはアーデスが一緒に乗せることで落着する。
ハワラを引っ張り上げて自分の前に座らせると、アーデスは緊張でカチコチになっている少年の頭をポンポンとたたいた。
「安心しろ。落ちても砂の上だ。大して痛かねえさ」
本当に安心させる気があるのかと問いたくなる言葉がけだったが、ハワラはそれに「はい」と返事をし、必死の形相で馬の首筋にしがみついた。馬が嫌がって首を振った。ハワラが驚いて少女のような悲鳴を上げる。
アーデスは笑って、たてがみを握るよう言った。馬のたてがみの付け根は脂肪が多く、引っ張っても大して痛くないからだとも説明する。
ハワラは冷や汗をかきつつ何度も頷きながら、身体を起こして手近なたてがみを握った。
次にアーデスは手綱を操作し、愛馬に荷物を乗せているライラに近寄って声をかけた。
「おう、小隊長さんよ。優秀な副官は上手にお留守番できそうか?」
言い回しに明らかな皮肉を感じ取ったライラは、アーデスを軽く睨むと「大丈夫よ」と答える。
「今度は訓練メニューもきっちり書いておいたし、今度帰った時に腕が落ちてたら、素っ裸にして鹿の頭を被せた状態で戦車に乗せて走らせて、部下全員の練習の標的にするって脅しておいたから」
荷物の紐をぎゅっと結びながら口にしたライラのお仕置き内容をうっかり想像してしまったアーデスは、その光景の気持ち悪さに「おえっ」と口を押さえた。
「お前、よくそんなえげつない脅し文句を思いつけるな。女って怖い」
非難がましい眼差しを向けて来るアーデスに、ライラはフンと鼻を鳴らす。
「仕方ないでしょ。隊長として、隊力の維持には責任があるんだもの」
そう言って、慣れた調子でひらりと馬に飛び乗った。手綱を寄せ、これから世話になる馬の首を「よしよし」と叩く。
「いっそのことあいつを小隊長にしてもらって、お前はカエムワセト専属の護衛隊長にでもなったらどうだ」
思い付きではなく、以前から何度か浮かんでいた案である。余計なお世話かもしれないと今まで口にはしないではおいたが、いくら無能なアホボンとはいえ一人の人間である副官の男を一生の恥から救ってやるには、ライラを適所に移すのが一番であろう。
半分は冗談で言った提案だったが、意外にもライラは真摯な顔で頷いた。
「そうね。私も殿下の親衛隊創設についてはやぶさかではないわ」
「まじかよ」
親衛隊結成。
カエムワセト第一主義の女兵士が、とうとう専属の軍隊を作ってしまうのか。
ぽかんと口を開けたアーデスに、ライラは膨れる。
「なによ、あんたがやれって言ったんでしょ」
ぷいと横を向くと、ハワラと同じく乗馬は初めてであろう魔術師の少女の姿を探した。
「リラ。私の馬に――あら?」
アーデスがハワラを乗せたように、ライラもリラを前に乗せてやろうと思っていたのだが、リラは厩舎の少年の助けを借りる事無く実に身軽な所作で馬にまたがると、手綱を操る事もなく、既に馬上に居るカエムワセトに馬を寄せていった。
「ねえ、今あの子、馬に何か喋ってた?」
ライラは朝の挨拶をにこやかに交わしている二人を茫然と眺めながら、馬に乗った直後、リラがしていた奇妙な行動をアーデスに確かめる。
「あー・・・『私を落とさずメンフィスまで走ってくれたら、飼葉お腹いっぱいあげるよ』とかじゃねえ?」
リラの声色と口調を真似て言ったアーデスに、ライラは至極嫌そうに顔をしかめた。
「似てない上に気持ち悪いから止めてよ。ていうか、人が馬とそんなコミュニケーション取れるわけないじゃないの」
「へーへー。さようでございますね」
アーデスは乾いた笑いを洩らした。
「では、出発しようか。馬に不慣れな者もいるから、急がずいこう」
振り向いて言ったカエムワセトのその全身は、ゆっくりと登ってきた朝陽に照らされていた。
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メンフィスはかつて首都として機能していたエジプトの大都市の一つである。その全長はナイル川支流に沿って五キロに及び、ナイル川から延ばされた水路は街の隅々まで縦横無尽に行き渡り、そこに住まう人々を潤していた。華やかなぺル・ラムセスとはまた違い、石灰岩と漆喰の白を基調とした荘厳な建造物が数多く立ち並ぶこの街は、宗教都市の名にふさわしい風格がある。
ギザのピラミッドとスフィンクス像を左手にしばらく進むと、白く輝く防壁を備えた都市が見えた。街の奥には、先日までカエムワセトが修復作業に勤しんでいたサッカラのピラミッド群が霞んでいる。
「着いたよ。メンフィスだ」
白亜の都を目前に、カエムワセトが眩しそうに目を細めた。
途中何度もオアシスで休憩をとりつつ、ゆっくりと馬を進めてきたため、一行が巨大なレリーフが描かれた防壁とその前に鎮座するラムセス二世の巨像を潜ったのは、夕刻のことである。
街に入り、馬から降ろされた途端、ぐしゃりと膝をついて脱力したハワラに、アーデスが「良く頑張ったじゃねえか」と笑った。
メンフィスの人々が、ロバでなく馬に乗って街に入ってきた旅人の姿を珍しそうに眺めながらすれ違ってゆく。
遠くで、「アニキ!馬っすよ馬!」という楽しげな子供の声に続き、「早く歩け!」という怒号も聞こえた。
「で、どうすんだワセト。さっそく神殿に殴りこみに行くのかい?」
不敵な笑みを浮かべて訊いてきたアーデスに、カエムワセトが「いや、殴りこむわけでは・・・」と苦笑った。
そして、疲労困憊のハワラの様子を見ると、「神殿はまた明日にしよう」と伝える。
ハワラの家はプタハ神殿の更に南側にあるとのことだった。運河を渡る必要はあるが、北の方角から街に入った彼らにとっては王宮が最も近い。
カエムワセトは、仲間達を連れて母と弟が住む王宮に向かう事を決めた。
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渡し船から馬を降ろすと、遠くの方から賑やかな声が聞こえた。
「あー!アニキ、あの馬さっき街で見たやつっすよ」
「うまうまうるせーわ!俺は蹄のある動物が大嫌いなんだよ!」
「止まんじゃねえガキども!」
少年と思われる二人が、エジプトの警察であるメジャイにロープで繋がれた状態で引っ張られている――というよりも、しょっ引かれていた。
「どっかで聞いた声だな」
馬を珍しがる少年の声は、さほど遠くない昔に聞いた気がする。アーデスが顎に手を当てて首をひねった。
メジャイはカエムワセト達の姿を見つけると、嫌がる犬を無理やり引っ張る飼い主のように、少年二人を引きずって来て礼をした。
「街の神殿で盗みを働いた者達です。捕えて神殿の牢に閉じ込めたのですが、恥ずかしながら逃げられまして」
「ほんでこっちでまた捕まえたのかよ」
痛いだの離せだの、ぎゃいぎゃい騒いでいる少年の盗人二人を見やりながらアーデスは「ご苦労さん」と言葉短くメジャイを労った。
少年二人はハワラとさして歳が違わないように見えた。賑やかで小柄な方は、眼がくりくりした愛嬌のある面ざしをしており、人懐こい子犬のようである。対して、もう一人は少し年上で、見るからに生意気そうだった。フクロウのような鋭い目つきで、強面のアーデスにでさえ物怖じせず睨みつけて来る。
「どうせまた、墓泥棒でもしようとしていたのでしょう。――今度こそ命は無いと思えよ」
神殿や墓での泥棒行為は重罪である。それを両方ともなると、死刑は免れないだろう。
墓泥棒と聞いた年長の方の少年は、ギリッと眉を逆立てて「違うわボケ!」とメジャイにくってかかった。
「俺は墓泥棒はしねえ主義なんだよ!西側には逃げてきただけだ!」
「ほんとっすよー。オイラ達、墓はこれまで一度も荒らした事ないっすー」
一方、年下の少年は、うるうるした瞳をメジャイに向けて詰め寄ると、しおらしい態度で減刑を訴えた。つい先ほどまで自分の立場を理解していないほど自由勝手に振る舞っていた態度の変わりように、メジャイは身体をのけ反らせてシッシと払う。
「神殿も墓も似たようなもんだろ」
どちらで盗みを働いても罪の重さは大して変わらない。民家に盗みに入った場合、その刑は賠償やムチウチが多いが、国家や神の領域で盗みを働いた場合それは重罪とみなされ、よくて四肢の切断である。
アーデスの言葉に、年長者の少年が「はっ!」と吐き捨てた。
「これだから貴族様はよ。墓の供物や副葬品は、死人のもんだ。けど神殿の供物は神官の腹を無駄に膨らますだけだろうが」
農民が供物として納めた農作物を、神殿は職人や神官、王宮の職員の手当として分け与える。一方、農作物を納めた農民が供物の恩恵を受けることは殆ど無い。
腹に脂肪を溜めた神官が、腹をすかせた子供が供物棚から転げ落ちたナツメヤシの実を拾って口に入れただけで目くじらを立てる様は、民衆に神殿への不信感を植え付けるだけだった。
「義賊気取ってんじゃねえぞコソ泥ども!」
メジャイが縄を引っ張り上げて、少年二人を更に縛り上げた。より一層くい込んできた麻縄に、少年たちはめいめい「いだだだだ!」と悲鳴を上げる。
そこで、カエムワセトが「メジャイ」と声をかけた。
「嘘は言っていないよ。少なくとも、こっちの彼は神殿でしか罪を犯していない」
カエムワセトはそう言って、視線で年長者の少年を示した。
思わぬところで助け船を出された年長者の少年は、驚いてカエムワセトを見た。
「それは・・・・どうして」
メジャイは呆気にとられた様子でカエムワセトに問う。
「目を見れば分る。彼は虚言を嫌う人物のようだ」
メジャイは「・・・はあ」としか返しようがなかった。しかし、アーデスとライラがメジャイに目配せして肯定の意味で頷いた事で、メジャイはカエムワセトの言葉を信じざるを得なくなる。
メジャイに罪状を確認すると、神殿での犯罪も殆ど未遂とのことだった。ファイアンス製の壺に手を伸ばしていたところを、神官に見つかって拘束されたのだという。
それならば減刑も有りうるかもしれない、とカエムワセトはメジャイに言及した。
しぶしぶ納得したメジャイは、少年二人をひとまず王宮の牢屋に入れるため、カエムワセト一行に挨拶すると「行くぞ」と少年達を繋ぐ縄を引っ張った。
「おい、あんた」
すれ違いざま、年長の方の少年が、カエムワセトに声をかける。
「俺らは盗賊だ。今回の罪が軽くなろうと、結局は殺される」
「お前ら、盗賊だったのか!」
目をむいて怒鳴ったメジャイの声は裏返っていた。
「言わなきゃいいのに・・・!」
縄を引かれて歩きながら、小さいほうの少年が天を仰いで嘆いた。
再び厳しさを取り戻したメジャイの縄に引っ張られながら、少年たちの後ろ姿が夜道に小さくなってゆく。王宮の裏口から牢屋に連れて行かれるのだろう。
「さて、と。俺らも行くかね」
アーデスの言葉に、カエムワセトが「ああ」と顔を上げた。
満点の星空の下、丘の上には多数の松明に明明と照らされたメンフィス王宮が、後方にサッカラのピラミッド群の影を背負い、そびえ立っていた。
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番兵から息子の来訪を聞かされたイシスネフェルトは、入り口を入ってすぐの広間でカエムワセト達を出迎えた。後ろには、乳母に抱かれた弟メルエンプタハがひかえていた。
「まさかまた、こんなに早く会えるなんて。一体どうなさったの?」
イシスネフェルトはその柔らかな手で、夜風にさらされすっかり冷え切った、自分よりも身体の大きな息子の顔を両手で包んだ。
カエムワセトはイシスネフェルトに初見であるハワラとリラを友人として紹介し、ハワラの母親の葬儀に呼ばれて来たと伝えた。
イシスネフェルトはハワラの境遇を聞くと、形の良い眉尻を下げて息子の友人の不幸を悼んだ。
イシスネフェルトはネフェルタリほどの聡明さは持ち合わせていないが、慈愛に溢れた女神のような印象を対面する者に与える人物である。
ネフェルタリとほぼ同時期にラムセスの妻になった彼女は、メンフィスの正妃としてラムセスに愛されていた。
余談ではあるが、彼女の長女、ビントアナトもラムセスに嫁いでいる。
自他共に認めるファザコンのビントアナトは、物心ついた頃から「お父様のように美しく、お父様のように勇猛果敢で、お父様のように大胆不敵で、お父様のように懐の深い男性としか結婚しません」と豪語していたのだが、本当にお父様と結婚してしまった。
ぺル・ラムセスで側室の一人におさまった彼女は、実娘の称号を傘にきて、毎日嬉しそうにラムセス二世を追いかけまわしている。
イシスネフェルトは今年一歳になるメルエンプタハをカエムワセトの腕に抱かせると、リラと挨拶を交わし、アーデスやライラに慰労の言葉をかけた。
カエムワセトはその間、しきりに顔に手を伸ばしてくる弟をあやしながら、乳母から歳の離れた弟の成長について報告を受けていた。
好奇心旺盛なこの弟は、寝返りを習得してから度々、突如乳母の視界から消えて驚かせていたが、最近は伝い歩きを始めたので余計に目が離せないのだという。
最後に会った時に比べいくらかやつれた様子の乳母の報告は、ボヤキに近いものがあった。
「カエムワセト様と比べて、メルエンプタハ様は本当にやんちゃでいらっしゃいますわ」
若い頃にカエムワセトの乳母としても尽力した彼女は、そう締めくくって疲れた笑いを浮かべた。
「まずは湯で汗を流していらっしゃい。その間に夕食を用意させましょう」
カエムワセトから幼い息子を受け取ったイシスネフェルトは、女官に沐浴と人数分の部屋の用意に加え夕食の準備を指示すると、乳母と共に奥に消えた。
礼と共にイシスネフェルトを見送ったカエムワセトは、街に着いてから殆ど喋らないハワラを見やった。
「ハワラ、大丈夫か?」
身体を固くして俯いていたハワラは、カエムワセトに声をかけられると飛び上がり、「はい大丈夫です!」と無駄に大きな返事を返す。
「馬の旅は体に堪えたろ?今日は王宮で休んで、明日君の家へ行こう」
カエムワセトはにこやかにハワラに言った。
アーデスとライラはカエムワセトの後方で、警戒した眼差しをハワラに向けていた。




