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花が咲くとき

作者: 星乃紅茶

 それは、闇のなかできらめく一枚の花びら。

 つややかな生命の色彩……幾重にも重なって、花開く。

 ぼくが出逢ったのは、まさにそんな少女だった。


「はい、先生に恋人、いらっしゃるんですか」

 これが授業参観なら花マルがもらえそうな挙手とともに立ち上がったのは、まだ幼さを残した顔立ちの少女であった。

「……は?」

 天霧あまぎりは、間の抜けた声をあげ、ぽかんとしてその少女を見た。

  高校生だろうか。大きな目でまっすぐに天霧を見ていた。柔らかそうな長い黒髪が肩にかかっている。

「あ……いや、今はいませんが」

 天霧は正直に答えた。しかし、こんなときに妙な質問をするものだ。

 ここは、期待の新人画家、天霧高弘たかひろの記者会見の会場なのだ。出版社の会議室である。

 全くの無名でありながら、疾風のごとく現れた天霧は、まだ数点しか作品を発表していない。しかし、それらの絵には繊細かつ独創的、見る者の心を惹きつけ、捕らえてしまう本物の『美』があった。久しぶりの期待の新人ということで、会場は記者やカメラマンでいっぱいだった。

 少女は、その中からヒョコ、とばかりに突然顔を出したのだ。一般の入室は許されていないはずである。誰だ、あれ。どこから入ったんだ。記者たちがざわめきはじめる。

 注目の的になっているのを知ってか知らずか、少女は天霧の答えを聞き、とびきりの笑顔を見せた。

「じゅあ、あたし、立候補してもいいですか?」

「おい、そこの! どこから入ったんだ!」

 どう見ても関係者外の少女の存在に気付いた警備員が、声を張りあげた。記者たちをかきわけ、少女に近付こうとしている。皆が一瞬、そちらに気を取られた。

「……お、おい」

 誰かが驚きの声をあげた。

 天霧も、会場に詰め掛けた記者たちと同じく、呆然としたまま周囲に視線を彷徨わせた。

 少女の姿が、消えていた。

 目を逸らせた一瞬の間に、まるで宙に掻き消えたようにいなくなっていたのだ。

「……いったい……」

 天霧は額に手をあてて呟いた。そして、ふと背後を振り返った。

 そこには、天霧の処女作である絵が一枚、装飾の施されたイーゼルに飾られていた。描かれているのは、暗い闇のなかに光を浴びて微笑む少女である。甘く可憐に咲き誇る大輪の、それでいて儚げな少女だった。

 絵のなかの少女の面影は、さきほどの少女と酷似しているのだった。



「高校生くらいの女の子ォ?」

 天霧の学生時代の友人である長谷川はせがわは、商売道具である一眼レフを入れたカメラバッグを足元に置き、天霧の問いに答えた。

「俺さぁ、会場唯一の出入り口の近くに立ったんだけど、それらしい姿、見てないぜ」

「……そうか」

 天霧は大きく息をついた。

 出版社のビルの屋上は、夜景を見るには最高の場所である。首都高を走る車のヘッドライトの流れは、まるで光の洪水だ。

「ようよう、そんなにその娘は可愛かったのかよぉ」

「テテテ、痛いな。そんなんじゃないよ。ただ、すこし気になっただけ――」

「よぉしッ、よく分かった!」

 突然、ガシッ、とばかりに肩をつかまれ、天霧は目を見開いた。

「オクテで自分からは告白もできねぇおまえが、めずらしく女の子に興味を持ったんだ。この俺が、必ず、その娘を捜し出してやるぞおぉぉぉぉッ」

 天霧の首をガクガクさせ、吠えるように言ってこぶしを握り締め、長谷川はすごい勢いで屋上から降りていった。

「あいつ、これだけの情報でどうやって捜すつもりだろう。まぁ、あとで戻ってくるなり電話なりあるだろうけど……ん?」

 背後の人の気配に、天霧は振り向いた。次の瞬間。

「――うわっ! き……君は」

「えへへ、こんばんは。さっきはお騒がせしちゃって……ほんとにごめんなさい」

 間違いない。さきほどの記者会見のときの少女だ。目の前に、忽然こつぜんと姿を消したはずの少女が立っていたのだ。

「あ……いや」

 やはり、どこかで逢ったことがある気がする。なによりも、自分が描いた絵のなかの少女と似ている。細部はもちろん違う。しかし、全体の印象が、表情が、雰囲気が……あまりにも酷似していた。まるで、目の前の少女をモデルに描いたかのように。

「君……は、いったい誰なんだ」

 その言葉が届いたのか、少女は一瞬、痛いほど悲しげな表情を浮かべた。しかし、すぐにひとなつっこそうな笑顔を取り戻し、名乗った。

「あたしの名前は、優花ゆうか。えっと、天霧先生の大ファンなんです」

「……しかし、ぼくはまだ何点も世に絵を出したわけでもないんだよ」

「あ、充分なんですよ、それで」

 優花と名乗った少女は、夜の地上の明かりを宿した、きらきらした目で天霧をまっすぐに見つめた。

「本当に確かなものは、一目で分かるもの。好きになるのはなおのこと。違いますか?」

 確信を込めた口調できっぱりと言われ、天霧は一瞬言葉を失った。

 突然、少女はわぁ、と歓声をあげ、手摺りに駆け寄り、天霧をひやりとさせるほど大きく身を乗り出した。

「すごぉい。綺麗な景色。先生のお気に入りの場所だけあるね」

「どうして、それを」

「ほらほら、来て。ね、見て見て。きれーい」

 少女は天霧の腕をつかんだ。細い、しなやかな手の感触に、天霧の心臓がどきりとはねる。

 さまざまな光のフルオーケストラのような夜の地上の星々は、確かに美しかった。

「――このたくさんの光のひとつひとつに、誰かの人生があるのね。幸せなひともいれば、不幸なひともいる」

 隣に立つ少女が、ぽつんと呟いた。

「ねぇ……君は、どこかでぼくと」

 天霧は、少女に話しかけながら顔を向け――途中で言葉を失った。

 少女は消えていた。

 またもや、天霧が目を離したほんのわずかな間に姿を消したのだ。周囲を見回してみても、隠れることができるような物陰ひとつない屋上なのに。

 ひとり呆然と立ち尽くす天霧の頬を撫でるように、春の暖かい風が吹き抜けていった。


 駅前の喫茶店は、天霧のお気に入りの店だ。

 ゆったりとした店内は、空くでもなく混むでもなく、せかせかとした目の回るような人込みを抜けて一息つくのに、ちょうど良い場所にあった。

 次に手がける作品についての打ち合わせも終わり、天霧は久しぶりにゆっくりとプレスサンドとコーヒーを味わえるという幸運にありついていた。

「よぉ、元気してるか?」

 知った声に、ぼんやりと外を眺めていた天霧が店内を振り返ると、長谷川が立っていた。

「話したいことがあったんだ」

「よくここが分かったな」

 いつもと変わらないラフなジーンズ姿の長谷川は、天霧の向かいの席に腰を下ろした。

「ま、それにしても、同じ出版社のライバル記者だったおまえが、今や話題の天才画家。俺としては話しやすくなって嬉しいけどな。あ、俺、コーヒーひとつね、ホットで」

 後半の一言は、天霧ではなく、ちょうどテーブルのそばを通りがかったウェイトレスに向けられたものである。

「おいおい、長谷川。こんなところであぶら売ってて、いいのか。職務怠慢だぞ」

 茶化すように言う天霧に、長谷川は立てた人差し指を、ちっちっち、と振ってみせた。

「さっきまで、あっちの席で打ち合わせをしてたんだぜ。それによぉ、誰だったっけ、俺に例の女の子のこと、調べるように頼んだのは」

「――なにか分かったのか?」

 思わず身を乗り出した天霧に、長谷川は苦笑しながら肩をすくめた。

「まだ、なぁんにも分かってないんだけどよ」

 天霧はそのまま椅子からずり落ちそうになった。

「遊んでるわけじゃないんだぜ」

 長谷川は、胸ポケットから一枚の雑誌の切り抜きを出し、言葉を続けた。

「なにしろ、手掛かりは『優花』って名前と、おまえの描いた絵だけなんだ。情報が少な過ぎる」

「そうだよな、すまない。ぼくも、どこかで逢ったような気がするんで、思い出そうとしてはいるんだが……」

 天霧は、長谷川がテーブルの上に置いた切り抜きを見つめた。

 彼自身の第一作目の作品。暗闇のなか、たおやかに華やかに、それでいて儚げに微笑む少女。たった一葉が落ちただけで乱されてしまう水鏡のように、壊れやすく危ういバランスでありながら、見る者のこころの奥に眠る、あたたかいものに語りかけてくる、そんな絵だ。

 どうして自分にこれほどまでのものが描けたのか。いや、もしかしたら、この少女を描いたからこそ、描けたのかも知れない。

「……い、おい、天霧。聞いてるのか。自分の世界作ってる場合じゃないぜ」

 長谷川の声に、我に返った天霧は怪訝けげんな顔をした。

「場合じゃないって?」

 長谷川は、運ばれてきたコーヒーをぐるぐるかき混ぜた。

「何だ、おまえ。まだ聞いてなかったのか。今度の取材だよ、画集の」

「そのことなら、さっき打ち合わせで聞いた。ぼくが描いた作品はまだまだ少ないから、ぼく自身の紹介も掲載するとか……。まだ詳しくは聞いていないんだ。午後に本社に行く予定だから」

「取材って、本人の写真も撮るんだぜ」

「本当か、ぼく、そういうのは苦手なんだが……。場所はどこで?」

「海、だ」

「……う、み……?」

 天霧の頬がわずかにひきつった。

「何故どうして……そういうことになったんだ」

「すまん! 仕方なかったんだ」

 呆然と問う天霧に、間髪を容れずに長谷川が両手を合わせるようにして言葉を続けた。

「ウチの社長が、大きな客船の一周年記念パーティに招待されていたんだが、予定があるとかで行けなくなっちまって、それで、かわりに俺たちが行くことになったんだ。ついでに写真も撮れそうだってことで。内装もすごいらしいぜ。ほら、豪華客船なんだし、美味しい料理もいっぱい並ぶし、いい話だと思う……けど……」

 長谷川の声が次第に小さくなっていった。天霧の表情を目にしたのだ。

 天霧はしばらく、テーブルに視線を落として考え込んでいた。

「なあ、長谷川。どうして、君はぼくにそんなに協力的なんだ?」

「へ? 何だよいきなり」

「この娘のことだよ」

 天霧は、テーブルの上に置かれたままになっていた切り抜きを示した。

 突然現われ、忽然と消えた、まるで幻のように不可思議な少女。捜し出すなど、雲をつかむような話だ。莫迦げた世迷い言だと笑われれば、それまでなのだ。

「……おまえが俺だったら、どうする。もし俺が誰かを懸命に捜していたら、おまえ、見て見ぬふり、できるか?」

 長谷川は真剣な表情で言い、次いでニッと笑った。

「それにさぁ、俺、おまえの絵を見て、その娘に逢ってみたくなったんだ。……いい絵っていうのは、そんなもんだよ。だから自信持ちなって」

「……長谷川」

「まッ、それによぉ、一番の目的は独占インタビューだな! いい話になりそうじゃないか。そんときは、よろしくな」

「ちゃっかりしてるな」

 天霧は微笑んで、頷いた。


 船上パーティは、最高の盛り上がりだった。

 豪華客船のデッキは広く、東京ベイエリアの眺めも素晴らしいものだった。招待された様々な人々は、談笑しながら立食式に並べられたテーブルを回り、美味な料理を胃に詰め、楽団の生演奏する楽しげな音楽にのって騒いでいた。

 天霧はまだ少々ひきつった顔をしていたが、パーティの喧騒けんそうと、夜なので海面が見えないこともあり、表面上はなんとか平静を保っていた。

「あれ、どうしたんすか天霧先生。顔、青いみたいですよ。」

 ひととおりの挨拶が済み、天霧が一息ついていると、撮影スタッフのひとりが声をかけてきた。

「いや……なんでもないさ。ただ、昔乗り合わせた船が沈んで、死にかけたことがあってね。海は苦手なんだ」

「あ、その話、俺聞いたことがあります。確か五年前……」

「キャアアアァーッ!」

 突然、甲高い女の悲鳴がデッキの喧騒けんそうを貫いた。

「なんだ、何事だ!」

 人々は悲鳴のほうに注目した。

「こどもが……こどもが」

 まだ若そうな母親が、ひどく取り乱して立っていた。

 震える手で、手摺りの向こうを指差して――。

 天霧はなかば反射的に行動に出た。人々が突然のことに唖然とし、オロオロ立ち尽くすなかを天霧は駆け抜けた。そして、手摺りを乗り越え、海に飛び込んだ。

 デッキから海に転落し、溺れていたのは幼い少女だった。すでにぐったりとしている。天霧は幼女の身体を抱え、なんとか海面に顔を出した。

 だが、春とはいえあまりに冷たい海水に手足が重く、ひどく動かしにくかった。少女の身体が、まるで鉛のように感じられる。

 船員やスタッフ達が、救命ボートを降ろそうとあたふたしているのが見える。だが、間に合いそうにない。このまま、あのときのように沈んでいくのだろうか。意識が朦朧もうろうとし始めているのを、天霧は他人事のように感じた……そのとき。

「先生ッ!」

 力強い呼び掛けが、天霧の意識を打った。昏い海に沈みかけていた天霧ははっとなり、慌ててガボリと海面に顔を出した。

「天霧先生、しっかり!」

 天霧の目の前に、浮き輪が投げられた。必死でそれにしがみつく。

 はるか頭上のデッキの人だかりのなかに、救命浮き輪を投げ降ろした者の姿が、天霧の目にちらりと映った。


「君、大丈夫か? 本当によくやってくれた」

「ありがとう、ありがとうございました」

 ようやく船上に引き上げられた天霧に、人々はタオルを差し出し、感謝や賞賛のことばを並べた。しかし、そのほとんどは天霧の耳に届いていなかった。天霧の意識は、幾重にも重なった人々の輪の外に向けられていたからだ。

 そこには、あの少女が立っていた。

 天霧先生、あたし、恩を返したかったの。

 人の輪に阻まれてしまうはずの声が、天霧の耳に届く。天霧は苦渋に満ちた表情になって、唇を噛んだ。

 ぼくはあのとき、君を救うことができなかった。守ることができなかった……。

 優花と名乗った少女は、静かに首を横に振り、それは違うと微笑んだ。まるで、花がほころぶように……。

 そして、消えた。空中に溶けるように。

「思い出した。君は……」

 天霧の目に、涙がにじんだ。


「おい、天霧、優花って名の娘、どこの誰か分かったぜ」

 船上の騒ぎから数日後、出版社の屋上で、天霧は長谷川に会った。五年前の新聞記事の切り抜きを長谷川から受け取った。見出しには、『豪華客船、謎の船と衝突、沈没』とあった。日本近海では、歴史に残る大惨事だった。

「ぼくは、その船に乗っていたんだ。休暇だった」

 天霧は、ゆっくりと話しはじめた。

「……あの夜、霧が出ていた。突っ込んできたのは漁船だった。船に大穴が開き、浸水はあっという間に船を傾かせた」


 死の恐怖は、突然、あっけなく、乗り合わせた人々に襲いかかった。着の身着のままデッキにあふれかえった人々は、我先にと救命ボートに突進した。恐怖と焦燥のあまり人殺しまで起こりかねない勢いだった。人の波に押されるようにしてデッキに出たばかりだった天霧は、このままではいけないと一歩踏み出そうとした。

 そのとき。

「みんな、待って!」

 天霧のすぐ隣から、声が発せられた。

「こんなときに争わないでください! ボートには、まず身体の弱いひとやちいさなこどもを」

 中学生くらいの少女だった。緊張に白くすべらかな頬を強ばらせていたが、しっかりとした口調で声を張り上げていた。

 その声はデッキに響き渡った。はっと振り返る人々の視線に晒された少女は、びくりとしたように一歩下がった。

「この娘の言うとおりだ!」

 天霧は少女をかばうように大声で言った。人々は目を覚ましたように「ああ……そのとおりだ」「先にこどもたちを!」と、温かい手が、まずちいさなこどもたちに差し伸べられた。

 少女は、感謝をたたえた目で天霧を見上げた。こんな状況だというのに。天霧の胸に熱いものが広がり、眩しそうに目を細めて少女を見た。

 そのときだった。

 船が、恐ろしい軋みをあげて大きく傾いた。人々が暗闇に次々と放り出され、悲鳴とともに水しぶきをあげる。天霧は有り得ない角度に迫ってきた床に叩きつけられた。必死に伸ばした手で手摺りをつかみ、転がり落ちかけていた少女を抱きとめた。だが、船はどんどん傾き続ける。天霧は覚悟を決め、少女の細い身体を腕にかばうようにして落ちた。

 数瞬後、冷たい衝撃が彼らを包み込んだ。

 何とも言えぬ、沈み行く船のあげる断末魔の咆哮が、濃い霧のなかに轟いた。

 船が沈む勢いで、周囲の海水も渦を巻きはじめた。

 天霧は必死でもがき、波に抵抗した。四肢は寒さで痺れ、死がすぐそこまで迫ってきているのを感じていた。しかし、沈むわけにはいかなかった。腕の中には少女がいた。自分が沈めば、少女も死ぬ。あきらめるわけにはいかなかった。

 そして、必死の抵抗を続けていた天霧の意識がさすがに途切れかけたとき、ふたりは他の乗客とともに救助船に引き上げられた。少女はすでにぐったりとしており、陸に到着後すぐにどこかに運ばれていった……。

 混乱のなかでは、どこの誰かまでは知ることができなかった。


 天霧はそこまで話すと、いったん言葉を切り、風にぱたぱたと鳴る記事の切り抜きを見つめた。

「ぼくが出逢った、幻のような少女は、そのときの少女だったんだ。ぼくは今まで忘れていた。きっと、無意識に忘れようとしていたんだろうな――あの事件のことを」

 ひとは、死に直面したような恐ろしくすさまじい記憶を、無意識に封じ込めてしまおうとするという……生きていくために。

「ぼくは、あの娘の行方を追う」

 天霧は顔を上げ、決然と言った。

 長谷川は無言で頷き、自分が調べ上げた事実を記したメモを差し出した。

「これは当時の記録から拾い上げた名前と身元だ。今は――さすがに分からなかった」

「これで十分だ……ありがとう。この先は、自分で確かめる」


 出版社の展示ホールの一角には、天霧の絵が掛けられている。例の、少女を描いたものだ。『花が咲くとき』と刻まれたプレートが絵の下にあった。

 天霧は、その絵の前に立っている人物に声をかけた。

「……社長」

 落ち着いた雰囲気を持つ壮年の男は、天霧の声にゆっくりと振り返った。

「君か……。この絵はすばらしいものだな。……なんとなく、わたしの娘に面影が似ているようだ。つい、こうして見つめてしまうのだよ」

 出版社の現社長篠崎しのざきは、穏やかな……それでいて痛いような目をして絵のなかの少女を見つめていた。

「……わたしの娘は五年前、船の事故で――。もう一度でいい……あの娘の、このような笑顔を見たいものです」

 天霧は胸の内に抱えていた予感そのままの言葉にどきりとし、震える声で確認するように訊いた。

「あの……、その娘さんの名前は……何と?」

 社長は答えた。

「優花、という名です」

 天霧は絶句した。目の前が真っ白になる気さえした。勇気を持つちいさな少女。自分が知らず知らずのうちに描いていた少女は、まさかもう……。

「それで……その娘さんは事故のあと……どこに」

 胸を、嫌な予感がどす黒く塗り潰していく気がした。顔色をなくす天霧に、篠崎社長は首を横にも振らず、しかし縦にも振らなかった。そして、静かに口を開いた。

「会ってやってくれますか――優花に」


 天霧はタクシーを降りた。白い石造りの、ほんの数段しかない階段をのぼり、優花という名の少女が、ひそやかに眠り続ける場所に向かう。

 初夏の陽光に、目に痛いほどの眩しい白塗りの建物が、天霧を出迎えた。

 首都圏でも有数の総合病院、そのもっとも奥まった場所にある病棟。二度と目を覚ますことのないひとたちが、多くの生命維持装置に囲まれて、生きるでもなく死ぬでもなく、ただ延々と眠り続ける場所だ。

 人の気配もないかのようにひっそりと静まり返った廊下を進むうち、現実感が薄れ、まるで夢のなかにいるような錯覚さえ覚える。

 しかし、教えられた番号のドアを開けたことで、すべてが現実となって天霧を打った。

 少女は……ずっと捜し続けていた少女は、瞼を閉じ、白い寝台のうえに静かに横たえられていた。心臓の鼓動を示す電子音だけが、この少女の生きている唯一の証拠であった。

 抜けるように白い頬が、長い黒髪に際立っていた。五年前から伏せられたきりの瞼は、ひくりとも動かない。しかし、確かに、天霧の記憶にあるそのままの少女であった。

「……やっと……やっと、君に逢えた……そう思ったのに」

 天霧は呟いた。呟いた声が、自分のこころにたまらなく痛かった。

 五年前から昏睡状態の続いている少女が、なぜ天霧の目の前に現れたのか。彼女の魂が肉体を離れ、彼のもとに飛んできたとでもいうのか。

 天霧には、もはやそんなことどうでもよかった。

 もし、もしも、彼女の心が肉体を離れ、置き去りにされた身体が眠ったままになっているのだとしたら……。

「優花」

 天霧は、寝台の傍に膝をついた。間近で見る少女の、もの言わぬ横顔に胸が締めつけられ、天霧は思わず叫んだ。

「優花! 頼む、還ってきてくれ! ぼくはここへ来た。君に会うために。君を救いきれなかったことを詫びるために。だから……どうか……頼む。還ってきてくれ」

 天霧は血流が止まって白くなるほどにこぶしを握り締めた。祈りの形をしたその手に、ひんやりとした、柔らかな手が添えられた。

 驚いて顔を上げた天霧は、信じられない面持ちで目の前の少女を見つめた。

 少女が、目を開いていた。濁りのない、大きな黒い瞳で天霧の顔を見ていたのだった。

 震える声で、おずおずと囁く。

「天霧先生……わたし、また、夢を見ているの……?」

「夢じゃ、ないよ……!」

 天霧は少女を抱きしめた。感謝の言葉を呟きながら。

 自分が、数年来流したことのない涙を流していることにも、気付かなかった。




<花が咲くとき・完>

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― 新着の感想 ―
[良い点] ・人間の勇気と思いやりに希望が持てる、素敵なストーリーですね。 ・いくつかのできごとを経ながら徐々に過去のことが明らかになっていくという構成が、短い話の中でうまくまとまっていると思います…
[一言] こんにちは。 ドキドキしながら読ませていただきました。 いい意味で、早く読み終えて結末を知りたいと思う作品でした。 あと個人的に長谷川のキャラが好きです。 文章も綺麗でとても読みやすかっ…
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