前編:借金一億リルを返すため、使用人たちと『80リルで好きなだけ食べられる食堂』を開いたわよ!
「一億リルです」
「…………はい?」
「残債は一億リル。リリス=フリル様には、連帯保証人として全額を返済していただく義務がございます」
目の前の男性が、涼しい顔でそう言った。
一億リル。
一億リルね。
……あのクソ男、脳みそまで担保に入れたのかしら。
ああ、でも担保価値がないわね。
私の名前はリリス=フリル。十八歳。
王国西部の辺境に領地を持つ、フリル伯爵家の一人娘よ。
腰まで届く金色の髪を高い位置で一つに結んでいて、瞳は大きな青色。顔も小さいほうだと思うわ。
社交界では『まるで舞台の歌姫のよう』なんて褒められることもあるのよ。
自分で言うのもなんだけれど、容姿にはそれなりに自信があるわ。
……まあ、見た目が可愛くたって、男を見る目がなければ意味がないんだけどね!
そう。
私、昨日婚約者に夜逃げされたのよ。
彼の名前はラード=ラムエット。二十六歳。子爵家の嫡男で、顔だけはそこそこ整った男だったわ。
そう、顔だけは。
その男が、別の女を連れて逃げたのよ。
一億リルの借金を残して!
「こちらが契約書です」
目の前の男性が差し出した書類には、確かに私の署名があったわ。
……ああ、思い出した。
半年前、ラードに頼まれて署名した書類ね。
『結婚後の共同事業に必要な、形式だけの書類なんだ』
そう言われたっけ。
形式だけ?
思いっきり効力あるじゃない!!
十八歳の婚約者に一億リルの保証人を頼む二十六歳って、どういう神経してるのかしら。
年齢差八歳。
常識の差は八百年くらいありそうだわ。もちろん彼の方が原始的よ。
「署名はご本人のもので間違いありませんね?」
「……はい」
「契約の有効性については、王立裁判所でも確認が取れております」
「つまり?」
「返済義務がございます」
ですよねー!!
私は思わず天井を仰いだわ。
ちなみに、この冷酷無比な宣告をしてくださった男性は、アルヴィン=ハーツ様。
王立銀行の債権管理を担当する二十九歳の銀行員よ。
黒髪に灰色の瞳。銀縁の眼鏡がよく似合う、なかなかの美青年だわ。
ただし、表情がまったく動かないの。
もう少し申し訳なさそうにしてくれてもいいんじゃないかしら?
こっちは人生最大の危機なんですけど!
ここは王都の本店ではなく、フリル伯爵領の領都にある王立銀行の支店よ。
アルヴィン様は、今回の債権管理のために王都から派遣されてきたんですって。
わざわざ王都まで呼び出されずに済んだのは、せめてもの救いね。
こんな話をするために三日も馬車に揺られて来たなんて酔狂なことね。
「返済期限は六ヶ月後です」
「六ヶ月!?」
「はい。期限までに返済いただけない場合、契約に基づき担保財産の処分などの手続きに移る可能性がございます」
なるほど。
つまり半年以内に一億リルを用意しないと、我が家の財産まで危ないってことね。
「……つまり、私が一億リルを返したら、あの男は借金から解放されるってこと?」
思わず尋ねると、アルヴィン様は首を横に振ったわ。
「いいえ。あなたが連帯保証人として弁済した場合、その金額について、主債務者であるラード様に求償する権利が生じます」
「……きゅうしょう?」
「簡単に申し上げれば、あなたが代わりに支払った分を、ラード様に請求できるということです」
…………。
へえ。
「つまり、私が一億リル返したら、あの男に『一億リル返しなさい』って言えるのね?」
「原則として、そのとおりです。ただし、実際に回収できるかどうかは別問題ですが」
なるほど。
つまり、あの男は逃げ得できないってことね。
……ふふ。
いいことを聞いたわ。
「アルヴィン様。あなた、意外と親切なのね」
「契約に関する権利をご説明するのも、私の仕事ですので」
「そういうところが可愛げないのよ」
「……恐縮です」
あら。
今、ほんの少しだけ口元が動いたかしら?
この人、もしかして笑いをこらえているの?
……気のせいよね。
「分かりました。返します」
アルヴィン様が、初めてわずかに眉を動かしたわ。
「返済計画をお聞かせいただけますか?」
「これから考えます!」
「…………」
あ。
今、この人、絶対に呆れたわね。
「リリス様。返済は気合いで達成できるものではありません」
「存じておりますわ。気合いで返せるなら、銀行なんて必要ありませんものね」
「……おっしゃるとおりです」
あら。
嫌味が通じない。
厄介な男ね。
「では、具体的な返済計画を十五日以内にご提出ください」
「十五日ですか?」
「はい。事業を始められるのであれば、収入と支出の見込みも必要です」
「承知しましたわ」
私は立ち上がり、優雅に一礼したわ。
伯爵令嬢としての礼儀は忘れないのよ。
たとえ心の中で、元婚約者を百回ほど殴っていたとしてもね。
⸻
「お父様! 商売を始めます!」
「……リリスや。まずは落ち着こうか」
銀行から屋敷へ戻った私は、父の執務室に飛び込んだわ。
父、エドガー=フリル伯爵。
今年五十三歳。
温厚で、少々お人好しな人物よ。
「落ち着いているわよ!」
「そうかい? では、その握りしめた拳を下ろしておくれ」
おっと。
無意識だったわ。
「しかし、商売か……」
父は困ったように眉を下げたの。
「我が家には、それほど余裕のある資金はないのだよ」
そう。
フリル伯爵家は、由緒こそあるものの裕福ではないのよ。
領地は王国西部の辺境にあり、人口もそれほど多くないわ。
領都には市場や職人街があって、近隣の村から農産物が集まってくるけれど、王都ほど賑やかではないの。
しかも父は、先祖代々仕えてきた使用人たちを一人も解雇しようとしないのよ。
その結果、我が家には八十人もの使用人がいるわ。
八十人よ?
王宮じゃあるまいし!
料理人が十二人、メイドが三十人。庭師に馬丁、下男に事務係まで。
正直、屋敷の規模に対して多すぎるのよね。
……ん?
待って。
八十人?
「お父様」
「なんだい?」
「我が家の使用人たちは、みんな仕事ができるわよね?」
「もちろんだとも!」
父は嬉しそうに頷いたわ。
「皆、長年我が家に尽くしてくれている素晴らしい者たちだ」
「だったら、働いてもらいましょう!」
「……今も働いていると思うが?」
「そうじゃなくて! お金を稼ぐ仕事よ!」
私は勢いよく立ち上がったわ。
そうよ!
我が家にはお金がない。
でも、人手ならあるわ!
だったら、その人手を使って商売をすればいいじゃない!
「商売といえば、ヴィクトル叔父様の工場はどうなっているの?」
ふと思い出して尋ねると、父は小さくため息をついたわ。
「ああ……。あそこは相変わらずだよ。設備は立派なのだが、注文が減ってしまってね」
ヴィクトル=ベルモンド。
亡き母の弟君なの。つまり私の母方の叔父様ね。
領都の外れに工場を持っているのだけれど、最近はほとんど稼働していないらしいの。
昔は木工品や布製品を作っていたそうだけれど、今は職人たちも仕事がなくて困っているんですって。
「もったいないわね」
「そうだね。職人たちの腕は確かなのだが……」
「ふうん……」
私は少し考えたわ。
でも、今は何を売るかが先ね。
そこで、私はふと思い出したの。
『未来if』。
私が幼い頃から集めている、空想科学読本のシリーズよ。
もしも百年後、二百年後の世界が今とはまったく違っていたら?
そんな空想を楽しむ、ちょっと変わった本なの。
世間では荒唐無稽な読み物として扱われているけれど、私はこの本が大好きだったわ。
だって、面白いじゃない!
空を飛ぶ乗り物。遠く離れた人と会話できる道具。そして、見たこともない商売の数々。
もちろん、そんなものが実現するなんて誰も思っていないわ。
……でも。
「待って。商売なら、できるんじゃない?」
私は慌てて自室の本棚に駆け寄ったの。
第3巻、『食事の未来』。
あった!
『定額制食堂。客は一定の料金を支払うことで、用意された料理を自由に選び、好きなだけ食べることができる』
これよ!
これなら料理人も給仕もたくさんいる我が家にぴったりじゃない!
私は本を抱きしめたわ。
「ふふふ……。まさか、空想小説で借金を返す日が来るなんてね!」
⸻
翌朝。
私は使用人たちを大広間に集めたわ。
「皆さん! 今日から商売を始めます!」
しーん。
……あれ?
反応が薄いわね。
「お嬢様」
最初に口を開いたのは、メイド長のマルタだったわ。
「失礼ながら、何をお売りになるのでしょう?」
「食事よ!」
「……食事、でございますか?」
「そう! 食堂を開くの!」
料理長のオスカーが、腕を組んで唸ったわ。
「食堂ですか。しかし、お嬢様。領都にはすでに数多くの食堂がございますぞ」
「知ってるわ!」
「では、どうやって客を集めるおつもりで?」
私はにっこり笑ったの。
「食べ放題にするの!」
「…………は?」
「決まった料金を払えば、好きな料理を好きなだけ食べられるのよ!」
今度こそ、大広間がざわめいたわ。
「お嬢様! そんなことをしたら、食材がいくらあっても足りません!」
「大食漢ばかり来たらどうするのです!」
「絶対に赤字になりますぞ!」
うんうん。
そう思うわよね。
でも、私はちゃんと考えているのよ。
「まず、料理は十種類程度に絞るわ。肉料理は二種類。あとは野菜料理とスープ、パン、それから季節の果物ね」
「十種類もございますか!」
「一品ずつ注文を受けて作るのではなく、まとめて調理するの。お客様には自分で料理を取りに来てもらうわ」
「……自分で、ですか?」
「そう! 給仕の手間が減るでしょう?」
私は黒板に数字を書き始めたわ。
「例えば、一人当たりの平均食材費を三十リルに抑えて、料金を八十リルにするの」
「五十リルの利益ですな」
「まだ利益じゃないわ、オスカー。そこから燃料費や人件費なんかも引かなきゃいけないもの」
私は続けたわ。
「でも、普通の食堂と違って注文ごとに料理を作る必要はない。大量に仕入れて、大量に調理する。しかも給仕の人数も減らせるわ」
「なるほど……」
「それに、人間って案外、食べられる量には限界があるのよ」
もちろん、大食漢もいるでしょう。
でも、小食の人だっているわ。
全員が限界まで食べるわけじゃないの。
大切なのは、一人ひとりの食事量ではなく、全体の平均なのよ。
「しかし、お嬢様!」
料理長オスカーが再び声を上げたわ。
「食べ放題などとおっしゃいますが、肝心の食材はどうするのですか!」
来た!
その質問を待っていたのよ!
「領地で廃棄される予定の食材を使うわ!」
「……は?」
「だから、捨てられる予定のお野菜や果物を買い取るの!」
料理長オスカーは露骨に顔をしかめたわ。
「お嬢様! 腐った食材をお客様にお出しするなど、料理人として到底承服できませんぞ!」
「誰が腐ったものを使うって言ったのよ!」
失礼しちゃうわね!
「例えば、形が曲がった人参。大きさが不揃いの芋。少し傷がついて売り物にならない林檎。そういうものよ!」
「……しかし、それらは市場では値がつきません」
「だからいいんじゃない!」
私はにっこり笑ったわ。
「煮込み料理にしてしまえば、人参が曲がっていたかどうかなんて分からないでしょう?」
「それは……確かに」
「林檎だって、傷んでいない部分を使って煮れば美味しいお菓子になるわ。お芋なんて、潰してしまえば大きさも形も関係ないじゃない!」
料理長オスカーは考え込んだわ。
「……なるほど。確かに、調理法次第では十分に使えますな」
「でしょう?」
私は胸を張ったの。
「もちろん、傷んでいるものや安全に食べられないものは使わないわよ。そこは料理長のあなたに任せるわ!」
「承知しました!」
「それに、農家の人たちだって、今まで捨てていたものがお金になるなら嬉しいでしょう?」
そう。
私が考えているのは、ただの安売りじゃないのよ。
今まで価値がないと思われていたものに、もう一度価値を与える商売なの。
……まあ、一番の目的は借金返済なんだけどね!
一億リルよ、一億リル!
綺麗事だけで返せる金額じゃないんだから!
「執事長のベルナルド! 領内の農家に連絡してちょうだい! 規格外の野菜や果物を、まとめて買い取るわ!」
「かしこまりました」
「それから、食堂の開業を知らせる手紙を王都の知り合いにも送るの。三日もかかるのだから、早めに知らせないと間に合わないわ!」
「承知しました。父君とお付き合いのある商家や貴族家にもお知らせいたしましょう」
「ええ。興味を持ってくださる方がいれば、ぜひいらしていただきたいわ」
地元の人だけじゃなく、王都の人にも来てもらえたら素敵じゃない?
もちろん、三日もかけて食堂だけを目当てに来る人は少ないでしょうけれど、領都を訪れるきっかけにはなるかもしれないわ。
⸻
さて。
開業までの二週間は、まさに戦争だったわ。
最初の難関は、店を開く場所よ。
幸い、伯爵家が領都に所有していた古い穀物倉庫を使えることになったの。
ただし、長年放置されていたせいで、床は埃だらけ。壁には蜘蛛の巣。窓も曇っていて、昼間なのに薄暗い。
「お嬢様。本当にここで食堂を?」
メイド長のマルタが、疑わしそうに私を見たわ。
「ええ! 立派な建物じゃない!」
「屋根が落ちていない、という意味でしたら」
……マルタ。
あなた、最近ちょっと辛辣じゃないかしら?
とはいえ、掃除だけで済まないのも事実よ。
庭師と下男たちには床や壁の修繕を、メイドたちには清掃をお願いしたわ。
厨房には屋敷で余っていた大鍋を運び込み、使っていなかった机や椅子も磨いて再利用することにしたの。
入口と出口を分け、料理を取るお客様と食事を終えたお客様がぶつからないように通路も整えたわ。
ところが、料理を並べる長い台だけは足りなかったのよ。
「新しく買うしかありませんな」
執事長のベルナルドが言ったわ。
「待って。それならヴィクトル叔父様の工場に頼めないかしら?」
「ベルモンド様の工場でございますか?」
「ええ! 木工職人がいるのでしょう?」
「確かにおりますが、今は仕事が少ないと伺っております」
「だったら、ちょうどいいじゃない!」
早速手紙を送ると、翌日には返事が届いたわ。
『もちろん引き受けよう。職人たちも喜ぶ』
……ふふ。
よかった!
使っていない設備と、仕事のない職人。
そこに注文が入れば、みんな嬉しいものね。
もちろん、代金はきちんと支払うわよ。
親戚だからって無料で働かせるつもりはないんだから!
ただし、台を作る費用も、修繕費も、帳簿にはきちんと記録しておかなくちゃいけない。
お金って、出ていくときだけは本当に足が速いわね。
⸻
次の難関は食材の確保よ。
執事長ベルナルドに頼んで、領内の農家へ一斉に手紙を送ってもらったところ、数日後には返事が山ほど届いたの。
『曲がった人参なら、いくらでもございます』
『小さな芋が大量に余っております』
『傷のある林檎も買い取っていただけるのですか?』
……ふふふ。
思ったとおりね!
近隣の村から荷馬車で運べば、輸送費も抑えられるわ。
ただし、何でも買い取るわけにはいかないのよ。
腐敗したものはもちろん駄目だし、日持ちしないものを大量に仕入れても無駄になるだけ。
そこで料理長オスカーに品質を確認してもらい、保存の利く芋や根菜を中心に仕入れることにしたわ。
「お嬢様、この人参は形こそ悪いですが、味は申し分ありませんぞ」
料理長オスカーが大鍋で煮込んだ野菜を差し出してくれたの。
私は一口食べて、思わず頬を緩めたわ。
「美味しい! これなら十分ね!」
「ええ。煮込み料理なら形も気になりません」
安く仕入れて、美味しく料理する。
うん。
ここまでは完璧だわ!
⸻
開業まで残り五日。
今度は料理の試作よ。
「肉料理は二種類。鶏肉の香草焼きと豚肉の煮込みにしましょう!」
「承知しました」
「それから野菜料理をたっぷり! 芋料理も忘れずにね!」
料理長オスカーが次々と料理を並べていく。
香草焼き、豚肉の煮込み、野菜のスープ、蒸した芋、パン、果物の煮込み。
……あら。
どれも美味しそう!
私は早速、試食を始めたわ。
……もぐもぐ。
……もぐもぐ。
……もぐもぐ。
「お嬢様。そろそろお腹がいっぱいなのでは?」
メイドのニーナが心配そうに尋ねてきたの。
「試食よ!」
「すでに三人前ほど召し上がっておりますが……」
「品質管理は大切なのよ!」
……ちょっと。
そんな目で見ないでちょうだい。
私だって、美味しいものには弱いんだから!
ただ、食べながら気づいたことがあったわ。
肉料理は美味しいけれど、原価が高い。
一方、野菜料理やパンは安く作れるうえに、お腹にもたまるのよ。
「……そうだわ!」
私は料理を並べる順番を変えることにしたの。
入口からパン、スープ、野菜料理。
その奥に肉料理。
こうすれば、お客様は自然といろいろな料理を取るでしょう?
……まあ、全員がそうしてくれるとは限らないけれど。
少なくとも、何もしないよりはいいわよね!
⸻
そして、開業三日前。
いよいよ収支計算と宣伝よ。
私は執事長ベルナルドと一緒に帳簿を開いたわ。
料金は一人八十リル。
一日の来客数は二百人を想定。
売上は一万六千リルね。
食材費は一人三十リルで、合計六千リル。
燃料費と水道代が千リル。
使用人への特別手当が二千リル。
その他の雑費が五百リル。
ここまでの営業費用は九千五百リル。
そこから、開業準備に使った修繕費や食器代を回収するため、毎日千リルを取り分けることにしたわ。
つまり、営業費用と積立を合わせて一万五百リル。
予定どおりなら、一日五千五百リルが返済資金として残る計算よ。
「悪くない数字ですな」
執事長ベルナルドが頷いたわ。
「でしょう?」
もちろん、これだけで一億リルを返せるわけじゃない。
一日五千五百リルでは、百八十日営業しても九十九万リル。
一億リルには遠く及ばないもの。
でも、最初から一店舗だけで返すつもりはないわ。
まずは成功する仕組みを作って、それを広げる。
そのための第一歩よ!
「開業資金の残りは?」
「修繕費や初回の仕入れを差し引いて、四十万リルほどでございます」
……そう。
失敗できる回数は、あまり多くないわね。
だからこそ、お客様を集めなくちゃ!
領都では、使用人たちが配ったチラシが話題になっていたわ。
『八十リルで食べ放題!』
『肉料理、野菜料理、パン、スープをご用意!』
『好きな料理を好きなだけ!』
「本当に好きなだけ食べられるのか?」
「肉もあるのか?」
「八十リルで?」
ふふん。
興味津々ね!
しかも、王都へ送った手紙にも返事が届き始めたの。
『ぜひ伺います』
『食べ放題とは面白い趣向ですね』
『商会の者たちにも紹介しておきましょう』
父と付き合いのある貴族家や商家から、開業に合わせて領都を訪ねたいという知らせが届いたわ。
王都から馬車で三日。
簡単に来られる距離ではないけれど、以前から領地への訪問を予定していた方々が、食堂の開業に合わせて日程を調整してくださったみたい。
……ふふ。
これは思った以上に賑やかになりそうね!
ところが、その返事の中に一通、妙に立派な封筒が混じっていたの。
差出人は、クラリッサ=ヴァルモン侯爵令嬢。
……あら。
この方にも案内が届いていたのね。
クラリッサ様は二十歳。
王都の社交界では有名なご令嬢よ。
美しい栗色の髪に、いつも完璧な微笑み。
ただし、口を開けば嫌味が三つくらい飛び出してくるの。
以前、私のドレスを見て『まあ、辺境ではまだその流行が続いておりますのね』とおっしゃったことがあるわ。
……ええ。
とても親切な方でしょう?
流行の遅れをわざわざ教えてくださるんですもの!
私は封を開いたわ。
『伯爵令嬢自ら食堂を営まれるとは、なんとも珍しいことですわね。ぜひ一度、そのご様子を拝見したく存じます』
…………。
あら。
絶対に馬鹿にしに来るつもりね、この人。
「お嬢様、いかがなさいました?」
「何でもないわ。クラリッサ様もいらっしゃるそうよ」
「侯爵家のご令嬢まで?」
「ええ。きっと、食堂がどれほど貧相か確かめたいのでしょうね」
私は招待状を机に置いて、にっこり笑ったわ。
いいわ。
見にいらっしゃいな。
ただし、食べるなら八十リルは払っていただくわよ!
⸻
開業前日。
領都の宿屋は、いつになく賑わっていたわ。
王都から来た商人たちの馬車。
近隣の貴族家の紋章をつけた馬車。
それに、噂を聞きつけた旅人たち。
「お嬢様! 王都からのお客様が、すでに三十名以上到着しているそうです!」
メイドのニーナが興奮した様子で報告してくれたの。
「まあ! 本当に来てくださったのね!」
「宿屋の主人も驚いておりました!」
……ふふ。
これは、なかなかいい宣伝になったんじゃないかしら?
ただし、メイド長マルタだけは心配そうだったわ。
「お嬢様。これでは、想定以上のお客様が集まってしまうのでは?」
「大丈夫よ! お客様が多いのは商売繁盛の証拠でしょう?」
「……そうでしょうか」
「それに、たくさんのお客様に来てもらわなければ始まらないもの!」
そのとき、執事長ベルナルドが一通の手紙を持ってきたの。
「お嬢様、ヴィクトル様からでございます」
「叔父様から?」
封を開くと、そこにはこう書かれていたわ。
『注文の台は完成した。久しぶりに職人たちが生き生きと働いているよ。礼を言う』
……ふふ。
よかった。
「お嬢様、嬉しそうでございますね」
「ええ! だって、叔父様の工場にも少しは仕事をお願いできたんだもの!」
「しかし、あの工場はまだまだ仕事が足りないそうでございます」
「そうなの?」
「はい。設備も職人も揃っているのに、注文が少ないのだとか」
「……もったいないわね」
私は手紙をもう一度眺めたわ。
せっかく腕のいい職人がいるのに、仕事がないなんて。
何かいい方法はないのかしら。
……まあ、今は食堂の開業が先ね!
⸻
そして、ついに開業当日。
食べ放題食堂『フリル亭』の扉が開いたわ。
「いらっしゃいませー!」
私は満面の笑みでお客様を迎えたの。
……ところが。
「お嬢様! 開店前から百人以上並んでおります!」
メイドのニーナが興奮した様子で駆け寄ってきたわ。
「ひゃ、百人!?」
「はい! 近隣の職人や商人の方々だけでなく、王都からいらしたお客様も並んでおります!」
……え?
ちょっと待って。
こんなに来るなんて聞いてない!
いや、嬉しいけど!
店の前には、長い行列ができていたわ。
しかも、見るからに食欲旺盛そうな男性が多いのよ。
……あら?
なんだか嫌な予感がするわね。
でも、そんな不安はすぐに吹き飛んだの。
「本当に好きなだけ食べられたぞ!」
「肉料理もあった!」
「八十リルであれだけ食えるなら安い!」
お客様たちが、嬉しそうに話しているんだもの!
口コミってすごいわね!
そんな大混雑の中、ひときわ豪華な馬車が店の前に停まったわ。
扉が開き、栗色の髪を美しく結い上げた令嬢が降りてきたの。
……あら。
来たわね。
クラリッサ=ヴァルモン侯爵令嬢。
「ごきげんよう、リリス様」
「ごきげんよう、クラリッサ様。遠いところをようこそお越しくださいました」
私はにっこり微笑んだわ。
伯爵令嬢としての礼儀は忘れないのよ。
たとえ相手が、嫌味を言うためだけに馬車で三日もかけてやって来た暇人だったとしてもね!
クラリッサ様は店内を見回すと、扇子で口元を隠したわ。
「まあ……。本当にご自分で食堂を?」
「ええ。私が経営しておりますの」
「それはそれは。伯爵家のご令嬢が、庶民の方々にお食事を振る舞うなんて」
「振る舞うのではなく、販売しておりますわ。一人八十リルですの」
「……まあ」
あら。
何を驚いていらっしゃるの?
商売なんだから、お金をいただくのは当然でしょう?
「それにしても、ずいぶん賑やかですこと。貴族と職人が同じ場所で食事をするなんて、王都では考えられませんわね」
「そうですわね。でも、美味しいものを食べるのに身分は関係ありませんもの」
「……ふふ。リリス様らしいお考えですこと」
……あら。
今、絶対に褒めていなかったわね?
すると、クラリッサ様は料理台に並んだ大皿を眺めて、さらに微笑んだの。
「それにしても、お肉まで好きなだけいただけるのですね」
「ええ!」
「まあ、素敵。でしたら、遠慮なくいただきましょう」
そう言って、クラリッサ様は同行していた侍女たちに声をかけたわ。
「あなたたちも、せっかくですもの。好きなだけいただきなさい」
「ありがとうございます、お嬢様!」
侍女たちが嬉しそうに料理を取り始めたの。
……あら。
意外と使用人思いなのね。
少し見直したわ。
ただし。
その大皿に盛られた肉料理の量を見て、私は思わず目を見開いたの。
……ちょっと。
あなたたち。
肉しか取っていないじゃない!!
クラリッサ様はそんな私の様子を見て、優雅に微笑んだわ。
「まあ、リリス様。どうかなさいました?」
「い、いいえ! どうぞごゆっくり!」
「ふふ。八十リルでこれほどいただけるなんて、本当に素晴らしい商売ですわね」
…………。
ええ。
そうね。
素晴らしい商売のはずなのよ。
……たぶん!
クラリッサ様は満足そうに席へ向かったわ。
その背中を見送りながら、私は小さく息を吐いたの。
あの方、今日は嫌味を言いに来ただけかと思っていたけれど。
どうやら、食事のほうもしっかり楽しんでいかれるみたいね。
……まあ、いいわ!
お客様はお客様だもの。
たとえ性格が少々よろしくなくても、八十リルを払ってくださるなら歓迎するわよ!
⸻
店内では、料理長オスカーが料理人たちに指示を飛ばしていたわ。
「鶏肉の香草焼きを追加しろ!」
「スープが足りません!」
「パンをもっと焼け!」
厨房は戦場のようだったわ。
それでも使用人たちは生き生きと働いているの。
いつも広い屋敷で退屈そうにしていた下男たちまで、今では皿を運びながら笑っているわ。
……なんだか、嬉しいわね。
借金を返すために始めた商売だけれど。
みんながこんなに楽しそうに働いてくれるなんて。
ところが、昼過ぎ。
「お嬢様!」
料理長オスカーが血相を変えて駆け込んできたわ。
「肉料理が足りません!」
「……え?」
「鶏肉も豚肉も、予定していた量をほとんど使い切ってしまいました!」
「まだ昼過ぎよ!?」
「お客様方が、肉料理ばかり召し上がるのです!」
…………。
あ。
そういうこと?
私は慌てて店内を見回したわ。
すると、どうでしょう。
大皿いっぱいに肉料理を盛りつけたお客様が、あちらにもこちらにも。
……ちょっと!
野菜も食べなさいよ!
栄養が偏るでしょうが!!
「お嬢様、このままでは肉料理を提供できなくなります!」
「……仕方ないわ。追加で仕入れてちょうだい!」
「しかし、今からでは卸売業者に頼めませんぞ!」
「だったら市場で買ってきて!」
「市場価格では、仕入れ値がかなり高くなりますが……」
「分かってるわ!」
私は拳を握りしめたの。
「でも、開業初日から『肉料理は売り切れました』なんて言えないでしょう!?」
……ええ。
この判断が、後でとんでもない数字になって返ってくることになるのよ。
⸻
閉店後。
私は疲れ切った体で椅子に座り込んだわ。
「お嬢様!」
執事長ベルナルドが帳簿を抱えて駆け込んできたの。
「本日の来客数、三百二十名でございます!」
「三百二十!?」
「売上は二万五千六百リル!」
やったあああ!!
初日から大成功じゃない!!
私は思わず両手を突き上げたわ。
「皆さん! 本当にありがとう!」
使用人たちから歓声が上がったの。
料理長のオスカーなんて、感極まって涙ぐんでいるわ。
「まさか、このような商売が成り立つとは……!」
「ふふん! だから言ったでしょう?」
私は得意げに胸を張ったわ。
そう。
これが薄利多売というものよ!
一人から大きな利益を取るのではなく、たくさんのお客様に来てもらって利益を積み重ねる。
これなら一億リルだって、夢じゃないわ!
……と、思っていたの。
そのときまでは。
「……ただし、お嬢様」
執事長ベルナルドが、申し訳なさそうに帳簿を開いたわ。
「本日の収支も、ご確認ください」
「え?」
「食材費が一万九千二百リル。燃料と水道代が千五百リル。使用人への特別手当が三千二百リル。その他の雑費が八百リル」
「……ちょっと待って」
私は慌てて数字を足し合わせたわ。
一万九千二百。
千五百。
三千二百。
八百。
合計……二万四千七百リル。
売上は、二万五千六百リル。
「……九百リル、残っているじゃない!」
「はい。ただし、お嬢様。開業準備に使った費用を回収するため、予定どおり千リルを取り分けますと……」
…………。
「……百リル、足りない?」
「はい。営業費用を支払った後の残りは九百リルですが、積立を含めた収支では百リルの赤字でございます」
…………。
え?
赤字?
三百二十人も来たのに!?
私は帳簿を見つめたまま固まったわ。
……どうやら、商売ってものは、お客様が多ければ儲かるというほど単純じゃないらしいわね。
ちょっと!
そんな大事なこと、もっと早く教えてちょうだいよ!!
⸻
翌朝。
私は王立銀行の領都支店を訪れたわ。
なぜって?
今日は返済計画の提出日なのよ。
十五日前、あの冷徹眼鏡銀行員に言われたでしょう?
『具体的な返済計画を、十五日以内にご提出ください』
ふふん。
提出してやろうじゃないの。
……積立を差し引いたら赤字の帳簿だけどね!!
「アルヴィン様! お約束の返済計画を持ってまいりましたわ!」
「……リリス様。銀行内では、もう少しお静かにお願いいたします」
あら、失礼。
つい勢いがついてしまったわ。
アルヴィン様は私を応接室へ案内すると、差し出した帳簿に目を通したの。
「……食べ放題の食堂、ですか」
「ええ! 昨日開業したばかりですの!」
「初日の来客数が三百二十名……。これは驚きました」
でしょう!?
もっと驚いてもいいのよ!
「売上は二万五千六百リルです!」
「なるほど。では、費用を確認しましょう」
アルヴィン様は帳簿をめくったの。
そして、ぴたりと手を止めたわ。
……あれ?
「リリス様」
「はい!」
「売上は二万五千六百リル。営業費用は二万四千七百リル。営業上は九百リルの黒字です」
「そうでしょう!?」
「ですが、開業費用の回収に予定している千リルを差し引けば、返済資金に回せる額はありません。むしろ百リル不足しています」
「……ええ」
「問題は、その百リルという金額ではありません」
「……どういうこと?」
「想定では一人当たり三十リルだった食材費が、実際には六十リルかかっています」
「……倍ね」
「倍です」
…………。
何なの、この人。
わざわざ繰り返さなくても分かってるわよ!
「リリス様。食材費の内訳を拝見しても?」
「ええ、もちろんよ」
私は仕入れ帳を差し出したわ。
アルヴィン様は数行に目を通すと、すぐに指を止めたの。
「規格外の根菜は、予定どおり安く仕入れられていますね」
「ええ! そこは大成功だったのよ!」
「ですが、こちらの肉の仕入れは?」
「……途中で足りなくなって、市場で追加購入したの」
「通常の仕入れ価格より、かなり高いですね」
「そうなのよ。お客様が肉ばかり召し上がるんだもの!」
アルヴィン様は、少し考えるように帳簿を見つめたわ。
「それなら、問題は食べ放題という仕組みそのものではありません」
「……え?」
「料理ごとの原価と、お客様が選ぶ量の関係です」
…………。
私は瞬きをしたわ。
「つまり?」
「安い野菜を大量に仕入れても、お客様が高い肉ばかり召し上がれば、平均原価は下がりません」
「……あ」
「そして、食材が足りなくなるたびに市場価格で買い足していては、大量仕入れによる利点も失われます」
…………。
なるほど。
そういうことなのね。
「初日の営業は、少なくとも現金の出入りだけを見れば赤字ではありません。しかし、この利益水準では、開業費用の回収にも借金返済にも足りません」
私は思わず頭を抱えたわ。
借金を返すために商売を始めたのに。
これじゃ、いつまで経っても借金が減らないじゃない!!
「……アルヴィン様。あなた、もしかして食堂を経営したことがあるの?」
「いいえ」
「じゃあ、どうしてそんなことが分かるのよ?」
「数字を見れば、ある程度は」
…………。
なによ、それ。
格好いいじゃない。
いや、腹立たしいけど!
「ただし、実際に何をどのように改善するかは、料理人と経営者であるあなたが判断することです」
アルヴィン様は帳簿を閉じたわ。
「私は、問題の所在をお伝えしただけですよ」
……この人。
私が思っていたより、ずっと有能なのかもしれないわね。
「……私、商売に向いていないのかしら」
ぽつりと呟くと、アルヴィン様は意外そうに私を見たわ。
「いいえ。私はそうは思いません」
「……え?」
「二週間で店舗を開き、初日に三百人以上を集めた。その行動力と集客力は、評価に値します」
……あら。
「ただし、経営には数字が必要です。そこを改善できれば、事業として成立する可能性はあります」
「……つまり、まだ見込みはあるってこと?」
「ええ。少なくとも、私はそう判断します」
アルヴィン様が、ほんの少し微笑んだの。
……あ。
この人、笑うんだ。
しかも。
結構、素敵な笑顔じゃない。
……って、何を考えているのよ、私!
今は恋愛どころじゃないでしょう!
借金一億リル!
忘れちゃ駄目!
「……一つだけ、よろしいでしょうか」
アルヴィン様が静かに尋ねたわ。
「何かしら?」
「リリス様は、なぜその食堂を始めようと思われたのですか?」
「え?」
「普通なら、借金を返すために高価な品を売ろうと考えるでしょう。ですが、あなたは安い食事を大量に提供する道を選んだ」
私は少し考えてから答えたわ。
「……だって、うちには働き者の使用人が八十人もいるのよ。それに、領地には捨てられる野菜がたくさんあるわ」
「ええ」
「だったら、それを使わないなんてもったいないじゃない!」
アルヴィン様は、しばらく黙っていたの。
そして。
「……なるほど。あなたは、余っているものを見つけるのがお上手なのですね」
「褒めているの?」
「もちろんです」
「銀行員って、褒め言葉まで回りくどいのね」
「職業病かもしれません」
……あら。
今度は確かに笑ったわ。
ほんの少しだけれど。
「実は、親戚の工場もそうなのよ」
「工場、ですか?」
「ええ。叔父様が持っている工場なのだけれど、設備も職人も揃っているのに、仕事が少ないんですって」
「……それは、興味深いですね」
アルヴィン様は、ほんの少し考えるような表情を見せたわ。
「工場があるということは、すでに生産設備と技術者が揃っているということです」
「ええ」
「新しく一から工場を建てる必要がない。それは、大きな強みになり得ます」
…………。
あ。
そうか。
そういう考え方もあるのね。
「ただし、何を作り、誰に売るかが決まらなければ、設備は利益を生みません」
「……確かにそうね」
「リリス様なら、そこに何か価値を見いだせるかもしれませんね」
私は思わず顔を上げたわ。
……この人。
さっきから、私の考えを上手に整理してくれるのよね。
しかも、答えを押しつけるのではなく、考えるきっかけをくれるの。
……なんだか、ちょっと悔しいわ。
「次回の経営状況の確認は、一ヶ月後といたしましょう」
「ええ! そのときには黒字の帳簿をお見せするわ!」
「期待しております」
私は勢いよく立ち上がったの。
⸻
銀行を出た私は、領都の大通りを歩きながら考えていたわ。
余っているもの。
使われていないもの。
野菜だけじゃない。
使用人だけでもない。
叔父様の工場だって、そうよ。
設備もある。
職人もいる。
なのに、仕事がない。
……もったいないわね。
何か作れないかしら?
そう思った瞬間。
私は、ある本のことを思い出したの。
『未来if』第5巻。
確か、あの巻には……。
「……あら?」
私は立ち止まったわ。
そして、ゆっくりと笑みを浮かべたの。
「ふふふ……。そういうことね」
待っていなさい、一億リル!
食堂だけで終わると思ったら大間違いよ!
私の借金返済計画は、まだ始まったばかりなんだから!
――前編・完――




