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わが麗しの貴婦人

作者: 櫻井
掲載日:2026/06/24

よろしくお願いします。

「すまない。クリスティンの具合が悪いんだ」

「はい?」


 思わず、聞き返してしまった。

 貴族令嬢としては減点されそうだが、会って挨拶する間もなく開口一番にこの台詞では致し方ないと許されると思う。

 現に、目の前の彼は気付いていないし、彼のほうが失礼だ。


 顔色が悪く、焦燥しきりといった具合で立っているのは、アルベルト・フォン・トーアヴァルト。トーアヴァルト伯爵の三男で、長兄、次兄とは少しばかり年が離れているため、随分と緩く大らかに育てられたと聞く。


 うん。確かに緩く育ったみたいだ。


 彼の言うクリスティンとは、彼の従姉妹で子爵令嬢のクリスティン・フォン・シュレーダーの事だろう。彼の身上書をしっかりと読んでいたから親族関係は頭に入っているが、そうでなければ開口一番にこれでは意味がわからなくて立ち尽くすしかなくなる。

 いや、わかっていても呆然としているのだが。


 全くもって驚きだ。

 アルベルトと婚約話が持ち上がって、会うのはこれで三度目。一度目は、婚約はどうかという打診。二度目は、その確認。どちらも両家揃っての話し合いだった。


「クリスティンとは、クリスティン・フォン・シュレーダー子爵令嬢のことでございますか?」

「ああ、そうだ。彼女は生まれつき身体が弱くてな」

「まぁ、そうなのですのね」


 そして、三度目。

 先の二回は、トーアヴァルト家の町屋敷での会合となったが、今回は、話がまとまった二人で我が家の庭を散策し親睦を深める。と、言う理由でシュテルンフェルト家の町屋敷に招待したのだが。人生、何があるか分からない。


「それで、彼女は私の名を呼んでいるらしい」

「…………ん?」


 思わず小首を傾げてしまった。


「子供の頃、彼女は我がトーアヴァルト家で暮らしている時期があってな。その頃、臥せった彼女の遊び相手は私の役目だったのだ」

「まぁ。大変なお役目を務められていたのですね」

「ああ。成長に合わせ、彼女は子爵家に戻ったが、今でも体調が優れず不安になると私に側にいてほしいと願ってな」

「まぁ、……まぁ」

「私がそばにいると、気持ちが楽になり胸の苦しさが楽になるのだとか」

「そうなのですね」

「ああ」


 うん。それで?


 思わず、パタパタと瞬きを繰り返す。

 あまりにパタパタし過ぎたからか、彼もパタパタと瞬きしてからハッとした顔になった。


 漸く、この状況に気付かれたのかしら?


「ああ。それでな、急いで彼女ものとに向かいたいのだ」


 違ったーーーーっ。


「本当に、すまない。また日を改めて、庭を案内してほしい」

「庭の件は、気になさらなくてよろしいですわ」


 それより前に、気にするところがあると思うんだ。


 ここ、エントランスね?

 すぐに庭に出れるようにと、庭に面したサンルームに茶席を整え、アルベルトの到着を今か今かと待っていたのに。約束の時間より、少し遅れはしたものの、到着した彼は、サンルームへと案内するという侍従に、自分は急用ができた。ギゼラ嬢を呼んでもらえないだろうか、自らの口で事情を説明したい。と、宣ったのだ。

 大らかに育ちすぎですわ、トーアヴァルト伯爵。教育というより、放牧だったのでは?


 ああ、いけませんわね。わたくしも少しお口が過ぎました。


「それよりも、アルベルト様。今からシュレーダー子爵令嬢の元に向かわれるのですよね?」

「あ、ああ。そのつもりだが」


 何故そこで、警戒心が滲む目をわたくしに向けられるのです。


「でしたら、わざわざわたくしのもとにお寄りにならなくとも。わたくしどもには、走丁(フットマン)に手紙を持たせてお知らせいただければよろしかったのに」

「だが、それでは約束を反故にする立場として誠意に欠ける」


 誠意は確かに必要ね。それは正解よ、正解だけどね。だとしたら、このような場所にわたくしを立たせたまま立ち話をし続けるというのはどうなのかしら?


「それでも、馬車で移動されるアルベルト様より、手紙を携え駆ける走丁の方が早く我が家に着きますわ」


 走る馬車の前を走って人を避けされるのが彼らの仕事なのだから、馬車より速くて当たり前だし、如何に足の速い従僕を従えているかが貴族のステータスみたいに語られたりするのに、何故使わない。


「手紙で十分、誠意は伝わりますし。なにより、報せが早いほど、こちらも対応に余裕ができます」


 サンルームを整える前に報せがきていれば、無駄な労力を使わずに済んだ。


「そ、う……かも……だが」


 言い淀むアルベルトの顔は少し可愛かった。


「それに、シュレーダー子爵令嬢から具合が悪いと報せが来たのはいつ頃だったのです?」

「こちらに伺おうと、屋敷を出る少し前だ」

「そうなのですね。だとしたら、尚更です。トーアヴァルト家の町屋敷から我が(やしき)まで、七マイル程です。馬車で移動すると一時間少々でしょうか。ここから、トーアヴァルト邸に戻らず、シュレーダー邸にまっすぐ移動したとしても十三マイル。二時間近くかかります」


 ポカンとしたよくわかっていない顔をしているアルベルトに更に説明を続ける。


「シュレーダー邸からトーアヴァルト邸までは約六マイル。アルベルト様に体調不良の報せが届くまでに一時間かかっております」

「あ、ああ」


 まだわかっていないのか、曖昧に頷く。


「つまり、シュレーダー子爵令嬢がアルベルト様に助けを求めてから、すでに二時間以上経過していることとなります」

「!」


 カッ。と、目を見開かれましても……。


「そして、今からシュレーダー子爵邸に向かわれましても到着まで二時間以上かかりますわ」

「…………」

「四時間以上……、今お話している時間も含みますから、五時間ほどですかね。シュレーダー子爵令嬢は、寂しくお待ちになっていることでしょう」

「そん、な……どうしてそんな酷いことを言うんだ」

「酷くはございません、事実です。ですから、わたくしどもにはお手紙で結構でしたのに。と、申したのです」

「あ、……」


 ぐるぐると回ってようやく理解したのか、再びのハッとした顔になった。本当に、自由にお育ちあそばされたのね。


「さぁ、急がれませんと更に到着が遅れましてよ」

「あ、ああ、そうだ。すまないギゼラ嬢。この埋め合わせは必ず」

「どうか、ご安全に」


 慌てふためき、転がるようにしてエントランスを出ていく男の背中を見送る。


「マルガレーテ」

「はい。お嬢様」


 名を呼べば、少し離れた場所に控えていた侍女が一歩進み出た。


「お父様に会いに行きます」


 行き先を告げ、父親の書斎に向かおうと踵を返す。すると、意外にも大階段を降りてくる父の姿が目に入った。


「今、見えた背中はアルベルト・フォン・トーアヴァルトではないのか?」


 どうやら出掛けるところだったらしい。皮肉にも手間が省けた。


「今日は、我が邸の庭を巡る約束をしていたのでは?」

「左様でございます」


 お。少し理由のわからないと行った顔。ですよね、わかります。わたくしも何を言っているのだろうと思いましたから。


「クリスティン・フォン・シュレーダー子爵令嬢の体調が優れないとかで、お見舞いに向かわれましたわ」

「……」


 ズルいわ。元が厳つい顔をされているから、あまり表情が変わられませんの。家族だから表情豊かな方だと分かりますが、そうでなければ全部怒っているようにしか見えません。


「わたくし、わたくしとアルベルト様は性格が合わないと思いますの」


 わたくしの横に立ったお父様は、それで? と目で促す。


「わたくしは無駄が嫌いでございましょう? 茶席を整える労力、いつも以上に美しく保とうと庭を何往復もして見回っていた庭師たちの献身、手紙で一報入れれば済む話をわざわざ足を運ばれて……。どれもこれも無駄になりましたわ」


 報せを受けてすぐに手紙をよこせば、茶席を整え、庭を整え、茶菓子を焼き、落ち着きなく客人を迎え入れようと励んだ彼らの努力を無駄に消費することはなかった。


「そして、今からシュレーダー邸に向かうそうですわ。わたくし、朝、頭痛がすると薬を飲んで休んでいたら五時間後には治っているか、ずいぶん楽になっていると思います」


 それか、すっかり熟睡中だろう。

 そんな頃に客人が来たと起こされたら、不機嫌にならない自信がない。シュレーダー子爵令嬢とは、随分と温厚で気の長い方だ。


「性格が合わないか」

「価値観とは、長い夫婦生活で大切なことかと」

「そうだな」

「お顔は好みでしたわ」

「顔を見て許せる範囲は、七割方ものの考えが合っている時だ。たとえ七割合っていても、致命的な部分が異なれば関係の継続は難しいだろう」


 やはり、親子。よく分かっていらっしゃるわ。


 にっこり。


 微笑みを浮かべて圧をかける。


「わかった。トーアヴァルト伯爵と話してこよう」

「ありがとうございます」


 婚約から結婚まで、期間は三週間と短い。婚約の発表から結婚までの間に異議申立があれば婚約は解消されることもあるが、ほぼ皆無と言っていい。神の教えに従うと、離婚は難しく。死別しかないとなれば、殺伐とした未来しか拓けない。

 故に、今は婚約準備期間(コートシップ)が用意されている。早いものは、数日から数週間、長いものになると数年から十数年、なんて人たちもいる。互いを知り、価値観をすり合わせ、この人ならと決めて婚約を結ぶのだ。 


 コートシップは一対一の付き合いで、婚約するかどうかを決める求愛期間といったところか。余談だが、複数人と相性をみるのはデーティングと言う。デーティングからコートシップに、そして婚約、結婚。というのがおおよその流れとなる。

 婚約したら、あとは結婚しか道はないが、コートシップ中なら関係解消も容易く、性格が合いませんでした。で、十分に理由が成り立つのだ。


「コートシップは必要だとよく分かる出来事でしたわね」

「コートシップは認めるが、私はお前の思い切りの良さが誰に似たのかといつも気を揉むよ」


 コートシップを結んで二週間で関係解消。その間に会ったのは、今の一度きり。手紙のやりとりは二往復。というのが、早いのかどうかは分からないが。


「誠実さは良き点だとは思いますが、時間、資金、労力、忠誠、信頼……どれも有限ですわ」


 無為な時間を過ごせば、資金は底をつき、労力は無駄となり、忠誠は薄まって、信頼は崩れ去る。


 このような事、わたくしが口にするまでもなく父はわかっている筈だが、敢えて言葉にさせてもらおう。


「五時間……無駄にされる判断を良きとされる段階で、わたくしには合いませんもの」

「そうだな」


 何事も、初動が重要だ。

 何かしら、負債を背負うような悪い報せを受けて、五時間も無駄にされたのではたまったものではない。即断即決、一時間で出来うる限りの手を打ってそれでも足りないとあの手この手を繰り出して初めて手を尽くしたと言えるのだ。

 薬を飲んで休んでいる人間を見舞いに来たと叩き起こすような人間はいらない。


「帰りは遅くなりそうだ。クラリンダに夕食はいらないと伝えてくれ。あと、先に休むようにと」

「わかりました」


 胸に手を当て、了解の意を示す。


「ギゼラ……は、迷わず寝そうだな」

「はい。多少気になりますが、お父様を信じておりますので。結果に変わりがなければ、いつ聞いても同じかと」

「実に清々しいよ。では、行ってくる」

「お気をつけて」


 エントランスにいた使用人共々、父を見送る。

 扉が閉まるのを見てから、背を翻した。


「お母様は、何処(いずこ)かしら」

「このお時間でしたら、執務室にいらっしゃるかと」

「向かいましょう。きっと面白いことになるわ、お茶の用意をお願い」


 言いつけられたマルガレーテは、頷くとすぐに前を辞した。急ぎ厨房へと向かうようだ。途中、同じくエントランスに控えていた使用人に目配せをして連れて行ったので各所に伝達するつもりだろう。


 これから母に会い、アルベルト・フォン・トーアヴァルトとのやり取りと、それを受けての父との会話を話したらどんな顔をするだろうか。そんなことを想像しながら、わたくしは階段を上った。




 ◇ ◆ ◇




 結果として。アルベルト・フォン・トーアヴァルトとのコートシップは、無事、解消された。


 クリスティン・フォン・シュレーダーとの関係をギゼラ・フォン・シュテルンフェルトより優先したから。ではなく、それを行うに際しての時間の使い方、人の動かし方に難がある。という方面からの解消依頼となった。


 アルベルトは、理由がわからないとトーアヴァルト伯爵に抗議したようだが、当の伯爵は、遅かれ早かれ物の考え方が違う者とは関係が破綻する。継続を望んで時間を無駄にするより、早く区切りをつけよ。と、諭したらしい。

 その後、アルベルトからは詫び状が届いた。

 その真摯な内容に、やはり真面目な方だとは思うが少し生きにくい方なのではとも思った。

 季節の挨拶状くらいは、やり取りしてもいいかと考えたが、彼が新しくコートシップを開始したときに余計な火種となったら申し訳ないとその思考は改める。世には、自分以外の異性の存在を許さない性格の人はいるし、同性の友人でも自分以外に時間を使うことは許さないという考えの方もいる。

 たかだか挨拶状でそのような災いを呼び込むことになったら不本意極まりない。

 次節の挨拶だけに留め、ご多幸を祈ると添えて返信した。


 アルベルト・フォン・トーアヴァルトとの関係は、これにて完全に潰え、過去にちょっとしたやり取りはあったものの、それだけの知人にも満たない顔見知り。という、なんともあっけないものとなった。


 今、わたくしは新しい相手とコートシップを開始している。

 ラインハルト・フォン・クラウスハール。アルベルトと比べると全体に大柄で重量級とまではいかないが、随分としっかりした体躯の方だ。

 初めて会ったのは、デーティングとして用意されたお茶会であった。

 それぞれが良き関係が築けそうな相手を求めて話をしている中、ラインハルトだけは、その大きな躯を縮こまらせて、一人遠く外れたテーブルに身を隠すように座っていた。

 その、なんとも言えない所在なげなクマのような姿に、最初は何をしているのかと驚き、次に、あの方の前では何でも小さく見えてしまうわね。と、ティーカップをつまみ上げる仕草を見て面白くなってしまった。

 そうして、彼に興味を惹かれたわたくしは、自らラインハルトに話しかけたのだった。淑女としては落第だったかもしれないが、その勇気が時間を無駄にせず、良い相手を引き当てたと思っている。


 ラインハルトが離れた場所に鎮座していた理由は、自分の体が大きすぎて令嬢たちを怖がらせてしまうのではと心配したからだそうだ。

 だったら、なぜ茶会に来た。


 話を聞けば、紋章院に勤める彼は上司からの勧めと両親からの圧に屈して参加する流れとなったそうだ。こんなに立派な体をしているのに、押しに弱いとは。気立ての優しい方なのだろう。


 しかし、紋章院。

 大きな体を机にキュッと収めて、羊皮紙に銀の針(シルバーポイント)で慎重に下書きを描く姿のなんと愛らしいことか。


 彼が働く姿を想像して、吹き出しそうになるのを必死に堪えた。


 仕事なのだから当たり前と言えば、当たり前なのだが。各家の紋章の由来や意味、そこから派生した個人の紋章など細かな決め事や、決して被ることは許されないデザインの妙など。彼の話は聞けば聞くほど面白く、わたくしは初めて別れ難いという感情を知った。


 その話を聞いた父、コンラートは、この機会を逃してなるものかとクラウスハール侯爵家にコートシップの打診をし、ちょうど行き違いでクラウスハール家からもシュテルンフェルト家にコートシップの打診が来たので親の考えることは同じかと、こちらはこちらで意気投合したようだ。

 難儀な子を持つ親同士、通ずるものがあったのだろう。







注目せよ、静粛に(ハバート・アハト)! これより気高き駿馬たちの競走(レース)を執り行う!」


 紋章官のラッパヘロルト・トロンペーテを吹き鳴らしたラインハルトが、競馬場全体に響き渡る声量で王冠杯(レース)の開幕を告げる。

 堂々と背筋を伸ばし、身に纏った王室の紋章で飾られた特別な外(タバート)衣を風に翻させる姿は、王の権威そのもののように見えた。


 紋章官(ヘロルト)の仕事は、紋章を管理作成するだけではない。

 寧ろ、このような公式の場で陛下の代わりに言葉を発し、広く行き渡らせることが本職であり、集まりし者の身に付けた紋章から、それが何処の誰であるかを見分け身分を偽らさせないという重要な役割がある。


「諸国より集いし見届け人たちよ、ここに揃いし選ばれし名馬たちが命を燃やす瞬間に刮目せよ!」


 持ち主の紋章が描かれた馬衣(カパリソン)を読み取り、淀みなく紋章解説に絡めて出走馬の紹介をするラインハルトの堂に入った姿に、扇で扇ぐふりをしてそっと顔を隠した。


 なんだか、顔が熱いわ……。


 タバートは、紋章が前後左右に大きく刺繍されているからこそ、ラインハルトのような肩幅が広い大柄な男性が着ると最高の見栄えになる。


 普段の彼も、主に体積として人目を引く存在ではあるが、式典服を着て仕事をしている姿は、かくも雄々しく美しいものかとため息が出た。


 ラインハルトを見逃してきた令嬢たちには、礼を言わなければならないだろう。


 少しばかり彼が、令嬢たちが理想と思い描く殿方より縦にも横にも大きかったからといって目の端にすら入れなかったのだから。おかげで、わたくしに素敵な出会いが回ってきた。


「我が王の御前、そして諸君らの目の前で、誰が最も速く、誰が最も強いか、今ここに証明されん!」


 彼の厚い胸板から発せられる声は、伸びやかに、低く、太く。どこかカスレを帯びながら、芯が通った力強さで聞く者の耳に届く。


 王族たちが座る王賓席の一段下に設えられた貴賓席から、そっと上の席を見上げた。

 頬を紅潮させた王子たちの瞳が、愈々(いよいよ)かと輝いている。ラインハルトの口上は、彼らの気を囃すのに充分だったらしい。


 ついついわき上がってきてしまう笑みをぎゅっと堪え、視線をコース正面の演壇に立つラインハルトへと戻す。

 と、同時に彼の声が響いた。


「いざ、開幕(ルーモア)!!」


 スタート地点で待機していた発走員の高く掲げていた旗が勢いよく振り下ろされ、優駿たちが一斉に飛び出す。観客は一瞬で沸き立ち、怒号にも似た歓声に競馬場は包まれた。



 ◆ ◇ ◆



 のぼる土埃に目を細め、ヘロルト・トロンペーテを腰のホルダーに収めたラインハルトは、ゆっくりと演壇を下りる。今日の彼の仕事は、紋章を見分けるだけで終わりではない。始まりを告げたあとは、王の背後に控え、公正なレースの証人として最後まで見届けなければならない。


 急ぎ足で王賓席への階段をのぼる途中、その下に造られた身分ある招待客たちのための席にギゼラがいる事に気付いた。

 彼女はゆるゆると扇を揺らしながら、ラインハルトと目が合うとそれはそれは幸せそうに微笑む。


「……っ」


 途端に、キュッと心臓が掴まれた。


 彼女はいつも可憐だが、今日は王冠杯に相応しい格別な装いだ。


 鮮やかなブルネットの髪を隠すチュールリボンと羽があしらわれた華やかなつば広帽子。計算だろうか、わずかに残された前髪が可愛らしくカールを描いて彼女の額にかかっている。白いドレスの襟は高く、袖は長い。さらに袖口の豊かなレースフリルからのぞく白いレースグローブ。胸元にあしらわれた闇色に近い夜の帳(ミッテルナハト)色をしたベルベットのストライプリボン。左肩を隠すほど大きな結び目は、絶妙なアクレントとなって目を引く。

 なにより、夜の帳色は、我がクラウスハール家の色だ。

 帽子に飾られた羽の雪白と夜の帳色の根元に、自惚れでなければ、自分の瞳の色に似た青い花が咲き誇っている。あの色とシャクナゲに似た形。あれはきっと、明け染める空の(ブルーアワー)青と呼ばれる稀少な花だろう。

 育てるのも咲かすのも難しいと言われていて、自分も紋章の中でしか出会ったことがない。シュテルンフェルト家の紋章に描かれている天上の花。


 右手と右足を同時に出してしまいそうになりながら、動揺を気取られぬように慎重に階段を登っていく。


 見た目で怖れられ、避けられることこそあれど、女性の方から話しかけられる機会などついぞ無く。自ら話しかけに来てくれた彼女を、勇気のある女性なのだと思った。そして、周りに目を向け、気遣うことができる慈愛に満ちた女性であるとも。


 王賓席にたどり着くと、定められた場所に控える。


 ここからは、レースがよく見えた。誉れを求め、一心不乱に真っ直ぐに人馬一体となって駆け抜けていく彼らに、人々は熱狂し叫びを上げる。


 なるほど。と、不意に腑に落ちた。


 目的に向かい、真っ直ぐに突き進むさまはギゼラに似ていた。周りを見ているがこそ、一直線に進む道が彼女の前には開いているのだ。そして、その直情的に見えて、実は思慮深い彼女に熱狂し声を上げる観客が自分なのだろう。


 実に、わかりやすい。

 今、目の前の光景こそが、自分とギゼラなのだ。


「なぁ、ライニ」


 王の隣に座す王太子フランツに名を呼ばれ、そちらに一瞬だけ視線を向ける。だが、彼もレースを見たままでこちらを見てはいなかった。


「シュテルンフェルトのご令嬢、凄いな。あの白いドレスは、星の大地という自身の家名に掛けた色だろう? そこにお前の髪(クラウスハール)の色をあしらい、絵画のような大帽子(ゲインズバラ・ハット)にはお前の瞳の色と同じブルーアワーだ。私は、我が家の誇りを賭けて、この色を持つ男と添い遂げる。……主張もここまで上品だと、ぐうの音も出ないな」


 誂いより賛辞に近い言葉に背筋を伸ばし直す。


「ライニに合っていると思うよ」

「明日にでも、結婚申し込み(プロポーズ)したいと思います」


 即答すれば、フランツは肩を揺らして笑った。


「結婚式には呼んでくれ」

「ステンドグラスの美しい教会を紹介していただければ」


 軽口を叩けば、フランツが驚いた顔をして振り返った。


「言うねぇ」


 呵々と笑って正面へと向き直る。


「そうだな。モルゲンロート大聖堂か、ザンクト・ライフェ教会あたりならどうだ?」


 今度はラインハルトが目を開く番だった。


 モルゲンロート大聖堂は、王都の象徴であり、王家の大礼が行われる場所としても有名である。

 朝の数刻だけ、ステンドグラスから伸びる天上の階は、朝焼けの光が織りなす奇跡として涙する者も多い。


 対して、ザンクト・ライフェ教会の歴史は古く、かつて精霊信仰の時代に作られた歪みのある緑のガラスをそのまま残している。午後になり、裏手の巨木の影が揺れる時、窓ガラスから入る緑の光も揺れて、まるで聖堂全体が精霊の森に包まれたようになるのだ。


「モルゲンロート大聖堂で」

「迷いなしか」

「天上の階の元に立つ、ギゼラを見たいので」


 その時、ワッと会場が沸いた。


 王は身を乗り出し、王太子を含め、年若い王族の中には立ち上がる者もいる。彼らの目の先には、一頭の群を抜いて飛び出す白い馬。


 馬の胴を飾る馬衣は銀の四連菱(マズル)、騎士の肩に翻る紋章は一角獣。銀の四連菱は、タクシウス侯爵家。一角獣は、侯爵家お抱え騎士、ユーグ・フォン・フェルトマン卿の印だ。

 四マイルに及ぶ長い戦いを征するのは、馬を繰る天才と言われるフェルトマン卿で決まりだろう。


 時の高揚の中、駆けゆく駿馬を目に映しながらギゼラを思う。


 何処までも真っ直ぐに駆けていくがいい。場を整えるのは自分が得意とする領分。決して彼女を見失わず、彼女の誇れる自分であり続けると誓うから。




 ◇




 その年の終わり、モルゲンロート大聖堂で一組の貴族同士の婚姻が行われた。


 光が差し込む大聖堂の中で、ベール越しに見えた花嫁の微笑みは、まるで絵画から抜け出してきた妖精のようであったときく。


 彼女の美貌はまたたく間に噂となり、街の露店には彼女の姿を写した銅版画が並んだ。『わが麗しの貴婦人』と名付けられたその絵を、人々はこぞって手に入れたという。






『豊かなる春の陽光の(もと)にいるときも。実りなき凍てつく冬の夜を往くときも』


『魂が健やかに躍るときも。肉体が病に伏し、衰えゆくときも』


『互いの手を離さず、大いなる光へと還るその瞬間(とき)まで』


永久(とわ)の伴侶であることを誓いますか』



『はい』

『勿論』



 ――――この婚姻に、大いなる祝福を。










お時間頂きありがとうございました。


モデルとしている時代の競馬、ヒート制と言って二回同じ距離、四マイル(6.4キロ)を走るのだとか。

最初四マイル走って休憩して、また四マイル走って二連勝したら優勝みたいな制度だったみたいです。

だから、割とダラダラした会話をしていても時間的には成り立つかな、と。四マイルだと速い馬でもゴールするまでに十分少々掛かりますからね。



それでは。

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ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。

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