un
「覚えてる? 飲んだときのこと」
珈琲を一口含んでから、ソーサーにカップをはめ込むみたいに置いたクリュウ君は、「大抵は忘れられない」と統計を披露する学者みたいに言い切った。
「……幸せってわけじゃないのに。凄く、幸運になった気がした」
「ハードラック。ラックとドラッグをかけた、言葉遊びみたいな名前の薬なんだ。飲んでる奴らからはハムスターだなんて呼ばれてる」
飲めば飲むほど依存して、最終的にオーバードーズのように口いっぱいに詰め込むのだろうかと、頬袋を膨らませた可愛らしいハムスターを想像した私に「名前の由来には二説ある」とクリュウ君は答えを教えてくれる。
「最初に日本に入ってきたとき、向日葵の種に詰めて隠したんだ。初期にそのイメージがついちゃって、錠剤に変わってからもヒマワリの種なんて俗称が残ってる」
二つ目は、と続ける。
「ソ連の時代にゴプニクたちが、娯楽のない共産主義国家に生まれた自分の不運を誤魔化すために飲んでいたとか。ゴプニクはウォッカと、アルコールの分解に役立つヒマワリの種が好物なんだ。だから彼らが好んで飲んでた薬も、ヒマワリの種だなんて呼ばれた。とはいっても、二つとも俗説なんだ。実際どっちが本当なのか、どっちも合っているのかも分からない。二つともまったくの勘違いで、それこそ法螺話って可能性だってある」
「たくさん口の中に詰め込みすぎて、ハムスターに似てたんじゃない?」
口に出してから後悔する。だって阿呆と思われても仕方がないような仮説を披露してしまったから。思いついたモノはよく吟味してから発さなくてはならない。
笑われると思ってクリュウ君を見た。元々彼の顔を見ながら話していたけれど、何かを見定めるように見つめた。
やっぱり彼は笑ったけれど、それは笑みで、嘲笑ではなかった。青い瞳が籠もった目元が、柔らかに歪められる。
「可愛いこと考えるね、君」
「外見に似合わないけど」
「君に合った考えだよ」
クリュウ君は何でもないことみたいにそう言ってから嫌味なくらい魅力的に笑うので、私はその微笑みを歪ませたくなる。
「脳天気に見えるってこと?」
「皮肉屋だなぁ君は」
褒められるのは慣れていない。それにしたってこうも拒否してしまうのは、どう見たってお世辞が上手そうな相手だからだろうか。褒め慣れてそうだし、褒められることだって慣れていそうだ。
「でも、そうだね。きっとハムスターに見えたんだよ」
「依存性、あるんだ」
呟くように訊けば、クリュウ君は「化学的にはないかな」と言って否定する。
「ただ、感情的にはどうだろう。砂糖にだって依存性はあるし、難しい話だ。中毒性はないんだが、多くの人が求めるものに合致しすぎているからさ」
それはそうだと思った。誰だって幸福を探している。
「本当にね、幸運だと勘違いできるだけの薬なんだ。鳩の糞が肩についても、落ち込まないでむしろウンがついたって喜べる。その程度の効果しかない。幸せになれる効果なんてない」
彼がコーヒーカップに砂糖を落とす。白い角砂糖がブラウンに濁って、黒い液体の中に沈んでいく。そんな角砂糖を見送ってから、クリュウ君は「それでも」と続けるのだ。
「それでも欲しがる奴が多いのは、不幸が見えなくなるから」
「……不幸が、見えなくなるから」
復唱した。クリュウ君から受け取った言葉を、自分の言葉として飲み下すために。
確かに多幸感なんかはなかったけれど、あの薬を飲んでしばらくは不幸が姿を見せなかった。友人の死を忘れていたわけではない。ただ見えなくなっていたのだと、シラフになった今なら分かる。
「人気なんだよ、特に若者なんかには。どいつもこいつも、不幸自慢に忙しいだろ? 実際は毒親でも、アレを飲めば親ガチャに当たった気になれる。ようは、物の見方をポジティブにするっていうのが正しいのかな」
ポジティブ。およそ自分からはほど遠い感情だ。
クリュウ君はカップを取って、砂糖入りの珈琲を飲む。「不味いね」なんて呟きが聞こえた気がした。シュガーに濁った珈琲を見つめる彼は、自分で入れたくせにそれを不純物として見ているみたいだった
。
「人はね、幸福になりたい奴なんて殆どいないんだよ。ただ、不幸から逃れたいんだ」
アイロニーに笑う彼の言葉は滑らかに入り込んで、妙に納得してしまう自分がいる。
そうなのだろう。彼の言うことは正しいのだろう。私も、幸福が欲しいんじゃない。ただ、降りかかる不幸から逃れたいだけ。だって幸せがあるより、不幸がない方が楽だから。
「君にはあるかい? 逃れたい不幸が」
見つめられる。それとなく視線を外した。石にはされなくとも、それに類似した何かを受けそうだったから。
彼の座る席の奥には通気口があって、埃のこびりついたファンが見えた。緊張のせいでかいてしまった汗が空冷された風に吹かれて、気持ちの良くない乾き方をする。
そうしているとさっきまでは聞こえなかったのに、回転するファンの呼吸が聞こえてくる。私たちが吐いた空気を吸い込んで吐き出しているみたいだ。このカフェも呼吸をしているのだなと思ったとき、自分が息を止めている事に気付いた。
「大丈夫?」
彼に見つめられたせいだ。
クリュウ君はそれが分かっているみたいに、どこか悪意の覗く柔和な笑みを見せる。
ああ、嫌だ。こんな奴に心なんかが揺さぶられる自分が。
「不幸は、貴方みたいな人に付き合わざるを得ないこと」
「なら、また飲むといい。今が少しは楽しくなる」
私は不機嫌をありありと眉間に表して、彼を睨んでやった。思った通り、クリュウ君は動じない。それどころか睨まれるのを楽しんでいるようにも見えた。
蛇になったつもりなのに、これではどちらが蛙か分からない。
どう見ても胡散臭くて、詐欺師顔なのに、クリュウ君は悪い人間には思えなかった。悪辣な人間にならいくらでも見えるのに、自分の感性を疑うしかない。
「貴方、なんでそんなものを売ってるの?」
だから純粋に、その訳が気になった。まさか配っているなんてことはないだろう。
お金のため、なんて言葉が出てきたら失望だったけれど。
彼はある意味では私の期待通りに、とても信じられないことを言うのだ。
「好きなんだ。人の笑顔」
嘘だ。
そうに決まっているのに、私には嘘に聞こえなかった。
裏くらいはあるのだろう。けれど彼は心底そう思っている。だからこそ質が悪い。
それから話は変わって、彼は私のことばかり訊いてきた。
「そういえば、名前は?」
「……ケイト」
「好きなのかな、甘い物」
「それなりに」
やっと運ばれてきたフレンチトーストを食べながら、私はできるだけテキトーを意識してそれに答えていった。無性に腹が立っていたから、それを空腹だと錯覚したみたいにたくさん食べたけれど、後から考えると少し恥ずかしい。
食べ終わって、食後のカフェオレをしっかり飲んで、不承不承ながらも満足げに一息つくと、彼はそれを見計らって席を立った。
そうして空色の錠剤、ハードラッグを幾つかテーブルに置くと、変わりとばかりに伝票をとっていく。
「いらない」
「どうかな。君には必要に見える」
正しいけれど、それはどこまでも不幸に見えるということ。
去り際まで嫌な奴だ。
「一週間後、空けといてよ」
「なんで?」
間を開けずに訊いてしまう。デートの間隔にはちょうど良かったけれど、二度目の誘いには早すぎる。それとも自分が知らないだけで、デートとはこういったもので、次の予約を入れておくのが定石なのだろうか。
クリュウ君はスマートフォンからSNSの連絡先をQRコードで見せてくる。男性のものを読み取るのは、いつぶりだろうか。
「映画でも見よう。きっと楽しいさ、薬なんてなくてもね」
ああ、嫌いだ。
断れない自分が。
七日の間にクリュウ君からきた連絡は、待ち合わせの場所と時間、それから前日に来た、可愛い服で来てね。という一文だけ。
今日のためにZARAに行った自分は馬鹿だろうか。買っている時はそんなこと考えもしなかったのに、グレーのシアーブラウスにフェイクレザーのジャンパーワンピースを着てきている自分を見ると、どうしようもなく愚かな女に見えてきてしまう。間違っていない感想かも知れない。
ただナルシストかも知れないけれど、彼がどう思うかはともかくとしても、メイクにも確りと時間を掛けた今日の自分はなかなかに。
「可愛いね。今日は特に」
なんて思ってしまっていたら、心の声を代弁するみたいな声が聞こえた。
「それ、常套句ってやつ?」
「酷いな。感想だよ」
どうだか。とは思ったけれど、今回は受け取っておく。それはこの日の為に買い物にまで行った自分が報われる言葉だから。
「新しい服かな」
背筋が冷める。トリックを想像できないマジックを見せられたみたいに。
きっと魔法だ。
「……なんで分かるの?」
「さあね。でも、今分かった」
また鎌を掛けられたのだと気付く。きっと彼は、直観的に感じ取ったものをそうやって確認する癖があるということも。
不機嫌だ。羞恥心が勝ってしまうけれど、それも相まって不機嫌だ。
「そんなに赤くならなくても。純朴だな」
「叩いていいかしら?」
胸を貸すかのように背筋を正す彼に、私は拳を作ると少しは痛みを覚える程度に小突いた。猫パンチくらいにしか思っていないのか、クリュウ君は胡散臭い笑みを絶やさなかったけれど。
映画は、思っていたよりもずっと面白かった。
それに吹き替えではなく翻訳だけの洋画を初めて見た。存外に悪くない。
選んだ本人であるくせにクリュウ君は退屈そうに見ていたけれど、ポップコーンは美味しそうに食べていた。ただキャラメルじゃなくて塩味で、更には途中で飽きたのか四分の一くらい残していたけれど。
「面白かった?」
「まあまあかな」
鑑賞後にハンバーガー屋で訊いてみると、やはりクリュウ君にははまらなかったようだった。自分から感想を語らないのがその証左だったような気もする。
ポテトを食べる彼に訊く。
「好きなの、映画」
「最近ね。好きになろうと思って」
おかしな言い方だった。趣味を増やそうと努力する独居者のような言い方だ。
なぜあの映画を見ようとしたのかと尋ねたら、「賞を取っていたから」と答えた。別に見たくもなかった、みたいなニュアンスがこもっているような気がして、私の表情は怪訝になる。
「なんで誘ったの」
まだ好きにもなっていない映画に。
「映画って、一人で見るには孤独すぎないかな」
「そうかしら」
クリュウ君はコーラの入ったカップを見て、何かを確認すると、それからストローをさした。
「暗い密室に閉じ込められて、誘導灯すらあの場では消える。光はスクリーンだけで、それ以外に目を向けることが許されないみたいに。あの場所で知らない誰かたちに囲まれるのは、そんなに良い気分じゃない」
そう言われると、そうであるようにも思える。
私のことだってそんなに知らないくせに、そうクリュウ君に訊きたくて彼を見る。
「ぁ……」
「だから、可愛い女の子が隣に欲しかったんだ」
もうクリュウ君は私を見ていて、視線が交わった。見つめているし、見つめられている。互いに何か知られてはいけないものまで見られてしまっている、そんな気がした。
クリュウ君の双眸の中には、独りぼっちの一等星が見える。強い輝きに魅せられて、自分もそうなろうとして、他の光を見えなくしてしまっている星。
寂しそう、なんて思ってしまったのは願望だろうか。
でもそれは逃れがたい不幸のようで、あの薬でも解決できない、孤独っていう悪夢。最初から見えないものは、忘れられもしない。
「あれから、また飲んだみたいだ」
私はクリュウ君を見つめて、その内側を見た。だからきっと、クリュウ君も私の内側を覗いていた。私が見たよりもずっと鮮明に。
「知らないわよ」
また鎌かけだと言葉を濁すが、それが肯定になってしまっていることに遅れて気付いた。
それでも意地を張ろうとしたけれど、アイロニーな彼の微笑みに耐えきれず、私は白状することにした。
「……電子レンジが壊れて、むしゃくしゃしたの」
服もそうだったが、アレは手痛い出費だった。
「ケイトちゃんって、見た目よりずっと感情的だ」
「悪かったわね」
「それに、依存的だ」
今ばかりは、それは貼り付けた笑みに見えた。
「良かったね。ゲートウェイなんかに引っかからなくて」
自分が弱いのだと宣言されているようで気分が悪かったが、この数日で四つの錠剤を飲み干している自分は、自分が思うよりずっと弱かった。
私には目を逸らしたい小さな不幸が多すぎる。
「いくらするの。あれ」
ハンバーガーを頼んだ後の財布の中身を考えながら訊いた。映画の代金はクリュウ君が出してくれた。
「買うのか?」
「気になっただけ」
本当は欲しかった。
「4錠入りが八千円だから、1錠二千円かな」
「高いのね」
安いのかも知れない。そういった薬の相場を知らない私には分からない感覚だ。
「やっぱり、使い続けると効かなくなってくるの?」
4回とも幸福な気分は数時間続いた。ただ、最後の錠剤は効果が短かった気がする。慣れか、抗体が付いてしまったのか。
違法薬物でも市販薬の乱用でも、慣れてくると量が増えていくとはニュースなんかで知っている。そして、いずれは死に至る量が欲しくなる。
アメリカの有名なアーティストもそれで死んだ。そう言っても誰なのか分からないくらい、多くの死があった。
不幸から背を向けるためだけに命の危険なんて犯せないから、クリュウ君に訊いたのだけれど、彼は「そうだね」と言ってから説明してくれる。
「どんなに飲み続けても4錠で打ち止めってことにはなってるけど、実際は一度に10錠以上も使う人はいる。ただ気分の問題で、効果は4錠のものと大差がない」
「プラシーボってこと?」
クリュウ君は頷く。
「それが効果っていうのが大きい」
よく分からなくて首を傾げる。そうすればクリュウ君は核心的に、「死なないのさ」と簡潔に教えてくれた。
「致死量がないのが、この薬の良いところだ。いくら飲んだって死ねもしないから、本当に不幸から解放されたい人たちからすれば酷い紛い物だけど」
朗報だ。使おうなんて考えてしまっている私にとっては。辞める理由にはなってはくれなかったから、悪報なのかも知れないけれど。
「それで、どうする?」
また、クリュウ君の瞳を見る。
今日も青い。宇宙を隠している空みたいに。
「買う……」
私は4錠を購入した。
八千円。今日のデート代よりも高い。
私は不幸だけれど、それは自殺だとかを願うほどでもない。
小さな悲劇が続いて、それが名状しがたい不安を私の裡に累積させていく。そんな私には、あの空色の錠剤は最適だった。漠然としてくすぶる感情から目を逸らすことが出来るあの薬は、確かに私を不幸から逃れさせてくれた。
やはり、世の中は気の持ちようなのだろう。
知らない誰かの言葉は正しかったみたいだった。
あれだけ溜め息ばかりを吐いていたのに、ポジティブに物事を考えられるようになるだけで世界の見方だって変わったみたいだった。もしかすれば世界が変わったのかも知れない。
あの薬は私を不幸のない世界に連れて行ってくれる鍵で、いつもは締められている窓を数時間だけ開けてくれるのだ。
家で作った麦茶と一緒に錠剤を流し込む。
少しだけ喉に引っかかってから落ちていく感覚には慣れてきていて、僅かばかりの快感さえもたらしてくれる。
私の眼前に立ち塞がっていた不幸が、通り抜けて後ろにいってしまったみたいだ。重力からだって解放されて、なんだか空だって飛べる気分になる。
バイトで嫌な客に絡まれた。
薬を飲む――――
欲しかったゲームのキャラが出なかった。
薬を飲む――――
コンビニの限定スイーツが売り切れていた。
薬を飲む――――
なんとなく、朝が怠かった――――
どんどん、飲む理由が軽くなっていった。
クリュウ君に会う回数も増えたから、それは良かったけれど。彼はお金とは別に手を繋ぐような、とても初心な要求をくれるから、それも癖になってしまっている。
飲み過ぎだとは思った。リピートのしすぎでいくらかまけてくれていても、とてもお金がかかるし、そのためにバイトのシフトだって増やした。
だから本当に小さな理由でも飲んでしまっている自分が怖くもなった。でもある日から効果が消えた後に自分が何で悩んでいて、どうして薬を飲んだのかも忘れてしまっていたから、それなら忘れたままでいいとも思えた。
思い出さなくたっていいじゃない。悪いことは、全部見ないようにすればいい。
見なくたっていいものを、わざわざ直視していた今までの方が馬鹿らしかった。
大学に行って、バイトをして、薬を飲んで、なくなったらクリュウ君に会って。
彼との連絡が薬を買うときの約束ばかりになっていって――――
それで――――
「思ったより馬鹿だな、君」
目が覚めた。
自分が寝ていて、クリュウ君の膝の上に頭を乗せていることを自覚するまでにとても時間がかかった。
私は上を向いていて、青い瞳が広がっている。
外にいるのと何も変わらない気がした。だってこんなにも青いのだから。
「やめよっか、そろそろ」
頭を撫でられる。不思議な提案だ。
「勧めたの……貴方じゃない」
そして、私はとても気に入ってしまった。問題は値が張るくらいだけれど、それは私の労働でもどうにかなる値段だ。
クリュウ君は苦笑いを浮かべて、それからアイロニーに笑う。
「自分の言葉の全てに、肯定的になんてなれないさ」
気が変わったのだと、クリュウ君はそう言ってから私を起こして立ち上がって、ふらつく私の肩を持ってくれる。それなりに身重差があるせいで心地よくはなかったけれど、それでも楽になった。
誰かに身体を傾けるのは、体重だって預けてしまうのはいつ以来だろう。
とても、歩きやすい。もう、1人で歩くのが嫌になってしまうくらい。
ここはクラブで、昨夜にクリュウ君から薬を買うために来てからヒマワリの種とウォッカを飲んで、泥酔状態で寝てしまったのだと説明されたけれど、とても自分の行動とは思えずに何度も聞き直してしまった。
「ついでに言うと、君は俺に告白していたよ」
「罪を?」
「愛を」
「嘘ね」
「うん。嘘」
なんて冗談も挟まれたから、余計にそれが真実なのかと釈然としない気分だった。
クリュウ君は私を純喫茶にまで運んで、体調が悪い相手の前で平然と煙草を吸うけれど、アイスコーヒーを奢ってくれたので怒れもしない。ダッチコーヒーはとても高いから。
それにジッポーでアークロイヤルに火を付ける彼の手はセクシーで、その白く滑らかな手が自分の隠された場所を撫でるのを想像した。妄想に思考がスパークして、彼が欲しくなる。酔いが抜けていないせいだ。
純喫茶ではキセルを吸う髭を蓄えた中年がパソコンで作業をしていて、どこかの大学生がネズミ講の口車を披露していて、金髪の文学青年と煙草を吸う恋人が読書をしていた。
ありふれた、けれど今ではその数を減らした喫茶店。
落ち着くようで安心出来ない場所だ。
「本って読むのか」
「必要なものは」
講義にもレポートにも使わないのなら読まないし、最後に趣味で小説なんかを買ったのは高校生の時だ。
クリュウ君は珍しく肩にかけていたバッグから本を取り出す。タイトルは『リトル・ファザー』。きっと小説で、知らない小説だ。
「読書は、俺たちを別の世界に連れて行ってくれる。特にできの良い物語は、それ以外の全てを忘れられる」
没頭。そんな言葉が浮かぶ。効果は、あの薬と似ていると思った。
「一緒なんだ。あの薬とさ」
心を読んだみたいに、クリュウ君は私の感想と同じ事を口にした。
今の私はとても思考が読みやすいのかも知れない。最近は思考がとても単調になっているように思うから。
「アレには、読書と同じ効果しかない。無駄に高い金を払って知識も得られない」
ただし手っ取り早く、字を読む必要がない。とも付け加えようとして、それはメリットではないと言葉にするのを辞めたようだった。
「何が言いたいの……」
「読書の勧めだ」
彼は『リトル・ファザー』を私に突きつける。それが私の心臓だとでも言うみたいに。
「次に会うまでに、感想を言えるように」
「宿題じゃないんだから」
「宿題だよ。小中の頃やっただろ、読書感想文」
クリュウ君は一冊の本と、四つ入りの錠剤を置いていく。
「何にでも、急に辞めると反動がある」
お金は取らなかった。
これ以上は絶対に貰えないという事でもあった。




