06 弟と父のこと
「姉さまー!」
週末になると弟カノンがやってきた。到着場所まで迎えに行くと、背の高いのほほんとした男がアビゲイルに手を振った。
アビゲイルが真面目で近寄りがたい雰囲気なのに対し、弟は綿毛のような緩い雰囲気を纏っている。どれだけ歳を重ねてものんびりとしているので、アビゲイルは弟が成人した後も何かと世話を焼いてしまう節があった。
今日迎えに来ているのもそうだ。放っておいても何とかしてアビゲイルの家まで辿り着けるのはわかっているが、迎えに来ずにはいられない。
そして弟のカノンもまた、姉があれこれ世話をしてくれることにやや甘えていた。
「久しぶり、長旅お疲れ。……また背が伸びたか?」
「久しぶりです! はい、背が伸びました。ナターシャには毎日邪魔だと言われます。あいつも結構大きいのに。姉上は……お変わりないようですね」
「あまりいい意味に聞こえないな」
「まさか! 姉上は変わらず美しいという意味です」
「はいはい。ほら、行くよ。荷物はそれだけ?」
カノンは荷物を慌ててかき集め、幾つかを姉に預けた。
「おー、変わってないですねえ」
「その部屋はカノンとナターシャくらいしか使わないからな」
「んふ、嬉しいです」
「いいから風呂に入ってきなさい」
はあい、と気の抜けた返事をして風呂に向かう背中を見送った。いい年下男が「はあい」って。
カノンの後にアビゲイルも風呂に入って戻ってくると、弟はソファで眠っていた。旅の疲れが出たらしい。仕方ないので抱えて客間に寝かせる。
「あねうえ、あした、あねうえといっしょにいくのでおこして…」
「わかったから寝ろ」
寝ぼけながら伝えたいことだけ伝えると、またすぐに寝息が聞こえてきた。
本当に当主をやっているのか不安になるくらいには、アビゲイルの前ではカノンは弟のままだ。でも噂によるとそれなりに良い領主として領民からは評判がいいらしい。お節介な部下が言っていた。
前当主、ーー父が残した負の遺産もカノンはうまく片付けているらしい。
もともと領地経営は主に母が行っていた。
だから母が亡くなるとすぐに領地どころか家計も回らなくなった。父に領地経営の才能はなく、あるのは浪費の才能だけ。
アビゲイルが何とかするには年齢も頭脳も教育も足りず、家を出る時に叔父に土下座して頼んだのだった。領民が苦労することがあってはいけないから。家のものは何でも売ってくれていい、叔父にも叔父の仕事があるのはわかっている。弟が学園を卒業するまでどうにか少しでもいいから力を貸して欲しいと。
叔父は困ったように笑いながら「わかった」と言ってくれた。それだけで十分だった。弟が爵位を引き継いだ時、借金は確かにあったが、その額は自分が家を出る時と変わっていなかった。叔父は父は食い止めていてくれたのだ。
爵位を継いだ時、アビゲイルは一人で叔父に礼を言いに行った。叔父は母に似た顔で穏やかに笑って、「これからは自分のために生きなさい」と言った。その言葉自体は理解できたが、自分のために生きるとはどういうことなのかわからなくて立ち尽くしたのを覚えている。
果たして今は自分のために生きられているだろうか。アビゲイル自身がわからないのだから、誰にもわからない。
アビゲイルは今でもたまに両親のことを思い出す。幼い頃、両親は確かに愛し合っていたし、アビゲイルのことを愛の証のように言っていた。
父親はアビゲイルが生まれた時からろくな男ではなかったように思う。領主の仕事も子育ても母が行っていた。父はたまに帰ってきては気まぐれに家族を愛で、稀に酒を飲んで暴れた。暴れた次の日はひたすら謝って家族を甘やかす。変な人だと思っていた。あまり好きじゃなかった。
でもそんな父親のことを母は愛していた。私は父が好きではないのに、私の好きな母は父が好きだという。どうしてか、と聞けば「お母さんを愛してくれる人だから」と言った。
「わたしもお母さまを愛しています」と言うと少し困った顔をして「ありがとう」とだけ言った。母の欲しい愛情は、私からでは与えることができないようだった。
愛って難しいな。
愛しているなら父を引き止めればいいのに。謝るくらいなら最初から暴れなければいいのに。愛しているなら家にいればいいのに。……愛しているなら母が死んでから後悔するような生き方をしなければよかったのに。
父は母が死んだ理由を妹だと思っているが、本当のところは過労なのだ。妹を産んでまだ回復していない時から仕事に復帰して。たまたま領地で大規模な災害が起きて、眠れないくらい忙しくて。災害の処理が終わると安心したのかそのまま倒れて逝ってしまった。
母が死んで、父が壊れたのはアビゲイルにとって予想外だった。壊れるくらいに愛しているならどうして母の手助けをしなかったのか、本当に理解できない。
いまだにわからないし、もはや理解する気もない。
父とは家を出てから一度しか会っていない。
カノンに爵位を継がせる手続きのため、カノンと父の三人で会った。もしも父が暴れた時のために。あの頃と違って今なら守れるから。
けれど数年ぶりに会った父は記憶よりも小さく弱そうな男だった。小さな男が小さな声で事務的に引き継ぎの書類にサインをして終わった。
こんな男の何を恐れて家を出たのだろうか。一瞬でねじ伏せられそうな男なのに。こんな男の何を母は愛したのだろう。
アビゲイルは父と会ったその日、得体の知れない気持ち悪さに支配され、食べたものを全て吐いた。




