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殿下の名演説を五年間書いたのは私ですが、『心がない』と婚約破棄されたので筆を置きます

作者: 夢見叶
掲載日:2026/02/06

「殿下の言葉には、心がないな」


 王太子ラーシュが私にそう告げた午後、窓の外では秋の陽が傾き始めていた。


 五年だ。五年間、私はこの人の言葉を書いてきた。


 諸侯の前で喝采を浴びた即位十年祭の祝辞。隣国との停戦交渉を成功に導いた親書。飢饉の年に民心を繋ぎ止めた布告文。そのすべての草稿を起こし、推敲し、清書したのは私だ。婚約者として、殿下のお傍に仕えるという名目で。


 けれど私がそれを口にすることはない。


「聞いているのか、リーゼル」


「はい、殿下」


「カミラと婚約する。お前との婚約は今日をもって破棄だ。反論は認めない」


 ラーシュの隣に控える男爵令嬢カミラが、申し訳なさそうに俯いている。その目が怯えているのは、きっと私が泣き喚くとでも思っているからだろう。


 泣かない。怒りもしない。だって知っているから。


 この人は私が書いた言葉を読み上げることはできても、自分の言葉で人の心を動かしたことは一度もない。


「承知いたしました」


 私はそれだけ告げて、腰を折った。


「では本日をもって、すべての筆を置かせていただきます」


「筆? 何の話だ」


「お気になさらず。どうかカミラ様とお幸せに」


 ラーシュは鼻を鳴らした。


「やはり心のない女だ。五年も傍にいて、涙の一つもないとは」


 その感想を抱いたのは殿下が初めてではない。幼い頃から「冷たい令嬢」と呼ばれてきた。感情を表に出すのが苦手なだけで、胸の奥では言葉が渦を巻いているのに、声に乗せる方法をずっと知らなかった。


 だから、書くことを覚えた。


 声にできない想いを文字に変えることだけが、私の唯一の才能だった。


 私は執務室に戻り、五年分の草稿の控えを木箱に詰めた。演説の初稿、推敲の跡が残る二稿、三稿。ラーシュに渡す前の最終稿はすべて清書してあるから、彼の手元にあるのは私の筆跡が消えた完成品だけだ。


 けれど、この木箱の中には消えていない。一文字ずつ、私の手で生まれた言葉たちが眠っている。


 これが私の五年間だ。重い。けれど、持って帰る。


 翌朝、侯爵家の馬車で王城を発った。振り返らなかった。



 婚約破棄から七日が経った頃、最初の報せが届いた。


 隣国への親書の返答が、異例の短さだったという。外交辞令すら省いた素っ気ない二行。つまり、ラーシュが自ら書いた親書が先方の不興を買ったのだ。


 十日目。王太子主催の軍議で、ラーシュが用意した演説が「要領を得ない」と諸侯に陰で嗤われたと、侍女づてに聞いた。


 十四日目。飢饉対策の布告文が「民を馬鹿にしている」と下町で評判になったと、市場で耳にした。


 十八日目。ラーシュが文官を三人呼び出し、代わりに草稿を書かせたらしい。だが三人がかりの文章は継ぎ接ぎだらけで、以前の演説と比べた諸侯が首を傾げたという。


 「以前の王太子殿下の言葉はもっと格調があった」


 そう口にした伯爵がいたと聞いた。格調があったのではない。私が書いていたのだ。けれどそれを知る者は、もう誰もいない。


 私は笑わない。笑えない。五年かけて積み上げた言葉たちが、ラーシュの手で崩されていくのを聞くのは、正直なところ少しだけ胸が痛む。


 あの言葉たちは、殿下の名前で世に出たけれど、一文字ずつ私の指から生まれたものだ。母のようなものだと思う。名前を奪われた子供たちの母親。


 でも、もう私の仕事ではない。


 侯爵家の書斎で、私は生まれて初めて自分のために文章を書いていた。日記、手紙の下書き、庭に咲いた秋薔薇の色のこと。誰に見せるわけでもない、自分だけの言葉。たったそれだけのことが、こんなに温かいとは知らなかった。


 ラーシュのために書いていた頃は、常に正解を求めていた。この比喩で諸侯は動くか。この語順で隣国は納得するか。けれど自分のための言葉には正解がない。正解がないというのは、こんなにも自由なことだったのか。


 そんな折、一通の手紙が届いた。


 蝋印は隣国の紋章。差出人はヴェルナー公爵――「氷の外交官」と呼ばれ、二国間交渉で幾度も顔を合わせた人物だ。


 正確に言えば、顔だけではない。


 五年前、ラーシュとヴェルナー公爵の間で始まった公式文書のやり取り。条約の文言調整、外交儀礼の確認、互いの国情に関する情報交換。それらの書簡を、ラーシュ側ではすべて私が書いていた。


 つまり五年間、私はヴェルナー公爵と文通していたことになる。ラーシュの名前を借りて。


 手紙を開く。整った筆跡は相変わらずだ。


『リーゼル嬢。貴女の名でお手紙を差し上げるのは、これが初めてですね』


 息が止まった。


『ご安心ください。三通目の書簡で気づきました。王太子殿下の署名の下に、まったく別の人間の思考が流れていた。論理の組み方、比喩の選び方、句読の呼吸。殿下ご本人の口頭でのやり取りとは、あまりにも違いすぎた』


 三通目。五年前の、ほぼ最初からだ。


『それ以来、私は殿下ではなく貴女と話していました。公式の返書はもちろん殿下への体裁で書きましたが、行間はすべて貴女に向けていた。貴女の言葉には、心がありすぎるのです。隠そうとしても、文字の隅々から滲んでいた』


 涙が頬を伝った。泣かないと決めていたのに。


『来月の外交晩餐会にお越しください。貴女自身の名前で、席をご用意しています』


 文末に小さく添えられていた。


『貴女の言葉を、もう他人の名前で読みたくないのです』


 何度も読み返した。冷徹な外交文書ばかり書いてきた人が、こんなにまっすぐな一文を書ける。五年間、行間に滲んでいた温度の正体はこれだったのか。


 ふと気づいた。ヴェルナー公爵の書簡には、いつも小さな問いかけが添えられていた。「貴国の秋薔薇は今年も咲きましたか」「先日の比喩は古典の引用でしょうか」「推敲に三日かかったと見ましたが、何をそこまで悩まれたのですか」


 私はそれを王太子宛の公式返書だと思って、律儀に答えていた。秋薔薇の色を書き、典拠を示し、推敲の過程を説明した。


 全部、私個人への問いかけだったのだ。五年間ずっと。



 ヴェルナー公爵からの手紙に返事を書こうとして、三度書き直した。


 ラーシュの言葉を書くときは迷わなかった。他人の声を代弁するのは得意だ。けれど自分の気持ちを自分の名前で伝えようとすると、指が竦む。


 四度目でようやく書けた。たった三行。


『お招きをお受けいたします。拙い言葉しか持ちませんが、今度は自分の名前で参ります。リーゼル』


 返事は翌日届いた。通常、隣国からの書簡は五日かかる。早馬を使ったのだ。


『三行で十分です。百の美辞を連ねた外交書簡より、この三行のほうがずっと雄弁でした。晩餐会まで待てそうにありませんが、待ちます。ヴェルナー』


 どうしよう。顔が熱い。


 この人は公式書簡ではあれほど冷徹な文章を書くのに、私信になると途端にこういうことを言う。五年間の文通で薄々気づいていたけれど、直接名前を呼ばれると破壊力が違う。


 それから数日後、招待状とは別に、侯爵家に公式の通達が届いた。


 晩餐会の座席表に、私の名前が——ラーシュの婚約者としてではなく、「侯爵令嬢リーゼル」として記載されていた。隣国が独立した賓客として招いたのだ。これは外交儀礼上、極めて異例のことだった。


 同じ頃、別の知らせも入ってきた。


 ラーシュが私を呼び戻そうとしている、と。


 婚約破棄から二十日。外交書簡の質は目に見えて落ち、隣国からの返書はますます素っ気なくなっている。カミラは美しく愛らしい令嬢だけれど、外交文書が書けるわけではない。ラーシュはようやく気づいたのだろう。自分の口から出ていた「心のある言葉」の正体に。


 使者は二度来た。


 一度目は「王太子殿下がお呼びです」という簡素な伝言。侯爵家の執事が完璧な笑顔で「リーゼル様は現在、隣国からのご招待の準備でお忙しくていらっしゃいます」と門前でお帰りいただいた。


 二度目はカミラ本人が来た。


「リーゼル様、殿下がお困りなんです。せめて書簡の書き方だけでも教えていただけませんか」


 カミラに罪はない。彼女はラーシュを純粋に慕っているだけだ。だからこそ、正直に答えた。


「カミラ様。書簡の書き方は、教わって身につくものではありません。殿下ご自身が、ご自身の言葉と向き合うしかないのです」


 カミラは泣きそうな顔で帰っていった。少しだけ申し訳なく思ったけれど、嘘はつけない。私が戻ったところで何も変わらない。ラーシュは永遠に他人の言葉で生きることになる。そうさせてしまったのは、五年間黙って代筆し続けた私にも責任がある。


 だからこそ、もう筆は置いたのだ。



 外交晩餐会の夜。


 大広間に足を踏み入れた瞬間、視線を感じた。


 ヴェルナー公爵は会場の奥に立っていた。黒髪に灰色の瞳。書簡から想像していた通りの、冷たい外見。けれどその目だけが、私を見つけた途端にわずかに揺れた。


 あ、と思った。


 この人の文章が時折見せる、冷徹な論理の隙間からこぼれる温度。あれは作為ではなかったのだ。


「お初にお目にかかります、と申し上げるべきでしょうか」


 ヴェルナー公爵が歩み寄り、静かに言った。


「書簡では五年のお付き合いですが」


「お目にかかるのは初めてです。けれど、初めてという気がしません」


「同感です」


 短い言葉だった。けれど、二人の間にはもう五年分の文脈がある。多くを語る必要がなかった。


 公爵は自然に私の隣に立った。守る位置——壁を背にして、私を人混みから遮るように。


 開宴前の歓談の時間、近くにいた貴婦人が連れに囁いた。


「あれが噂の侯爵令嬢? 王太子に捨てられた、心のない女でしょう」


 ヴェルナー公爵がゆっくりと振り返った。灰色の瞳が貴婦人を射抜く。


「心がないのではありません。言葉にする声を持たなかっただけです。けれどその方は、声の代わりに文字で、この大陸の外交を五年支えていた」


 貴婦人は顔を青くして離れていった。


「……そこまで仰らなくても」


「事実です。それに、貴女の悪評を聞くのは不愉快だ」


 不愉快。氷の外交官が感情を口にした。それだけで、周囲の空気が変わった。


 晩餐が始まり、各国の使節が挨拶を交わす中、ラーシュの番が来た。


 私は息を詰めた。


 彼が読み上げた祝辞は、悪くはなかった。悪くはないが、それだけだ。かつて諸侯を感涙させた言葉の力は、跡形もない。形式的で、空疎で、誰の胸にも届かない祝辞。隣に座るカミラが不安そうにラーシュを見上げていた。


 会場に微妙な空気が流れる。隣国の文官たちが顔を見合わせた。ラーシュの顔に焦りが滲む。


「あの程度の書簡しか寄こせないとは思っていたが、口頭でも変わらんな」


 隣国の文官が小声でそう漏らしたのが聞こえた。ヴェルナー公爵がすっと片手を上げ、その文官を制した。


「失礼だよ」


 たった一言。けれど氷の外交官が庇ったのは、ラーシュではない。ラーシュの無能が公になれば、かつてその言葉を書いた人物の功績も安く見られる。ヴェルナー公爵が守ったのは、私の五年間だった。


 それに気づいた瞬間、また泣きそうになった。


 晩餐の中盤、ラーシュが私の姿を見つけた。


 席を立ち、こちらに歩いてくる。ヴェルナー公爵の目が冷たく光った。


「リーゼル」


 ラーシュが私の名を呼んだ。婚約していた五年間、彼が私を名前で呼んだことは数えるほどしかない。


「殿下。本日はおめでとうございます」


「戻れ」


「はい?」


「王城に戻れ。お前がいないと——」


「殿下」


 ヴェルナー公爵が一歩前に出た。私とラーシュの間に、長身の体が割り込む。


「リーゼル嬢は本日、私の賓客です。席にお戻りください」


 呼称が変わった。「侯爵令嬢」ではなく、「リーゼル嬢」。


 ラーシュの顔が強張る。隣国の公爵に名で呼ばれる自国の令嬢。その意味がわからないほど愚かではなかったらしい。


「……何のつもりだ、ヴェルナー公爵」


「つもりも何も。五年越しのお話があるだけです」


 ラーシュは何か言いかけて、やめた。周囲の視線が集まっている。ここで醜態を晒すわけにはいかない。彼は唇を噛み、自分の席に戻っていった。



 晩餐会の終幕。


 両国の国王が臨席する中、ヴェルナー公爵が立ち上がった。


「本日は両国の友好を祝う席ですが、お許しをいただき、個人的なお話をさせてください」


 大広間が静まる。氷の外交官が「個人的な話」をする——それだけで異例だった。


「五年前、私は一通の外交書簡を受け取りました。差出人は王太子殿下。しかし、その文章には殿下とは異なる知性が宿っていた。論理は明晰で、比喩は的確で、そして何より——言葉の端々に、相手を理解しようとする誠実さがあった」


 ラーシュの顔から血の気が引いていく。


「三通目で確信しました。書いているのは殿下ではない。けれど私は問い質さなかった。なぜなら、その方の文章をもっと読みたかったからです」


 ヴェルナー公爵が振り返り、私を見た。灰色の瞳に、五年分の感情がすべて乗っていた。


「リーゼル嬢。五年間の文通相手は、貴女です。王太子殿下の署名の下で、私と言葉を交わし続けてくれたのは、貴女だ」


 会場がざわめく。ラーシュが椅子を掴んで立ち上がりかけ、カミラに袖を引かれて止まった。


 ヴェルナー公爵が私の前に歩み寄り、片膝をついた。


「——リーゼル」


 もう「嬢」もつかない。ただ名前だけ。


「貴女の言葉を、もう他人の署名で読みたくない。貴女自身の名前で、私の隣で、貴女の言葉を紡いでほしい」


 手を差し出される。大きな手だ。外交文書を何千と綴ってきた手。


 私は五年間、他人の名前で言葉を書いてきた。声に出せない想いを文字に変え、けれどその文字にすら自分の名前を刻めなかった。


 今、初めて聞かれている。


 私自身の言葉で、私自身の答えを。


 喉が震えた。目の奥が熱い。これまでの人生で一番短くて、一番長い沈黙だった。


「……はい」


 声になった。掠れていたけれど、確かに声になった。


「私の言葉は拙くて、声に乗せるとこんなにも頼りないのですが」


「知っています。だから文通が良かった。けれどこれからは、その頼りない声も全部聞きたい」


 差し出された手を取った。温かかった。五年分の手紙よりも、ずっと温かかった。


 会場が拍手に包まれる。


 ラーシュの顔は見なかった。見る必要がなかった。この先、彼がどうなるかは想像がつく。私が書いた五年分の言葉は木箱の中に眠っていて、もう二度と彼の口から語られることはない。


 彼は自分の言葉で語ることを覚えなければならない。あるいは、永遠に覚えられないかもしれない。


 でもそれは、もう私の物語ではない。


 帰りの馬車の中で、ヴェルナーが言った。


「晩餐会の感想を手紙に書いてくれますか」


「口頭でお伝えすると言ったばかりですが」


「両方ほしい。贅沢でしょうか」


「……とても」


 笑った。声を出して笑ったのは、いつぶりだろう。


 私は今夜、手紙を書く。自分の名前で。自分の想いを。宛先はたった一人。


 五年間の文通で紡いだ言葉は何千にもなるけれど、今夜書く一通は、きっとそのどれよりも短くて、どれよりも正直なものになる。


 窓の外に秋の月が昇っている。婚約破棄の日にも同じ月が出ていた気がする。


 あの日の月は冷たかった。今夜の月は、少しだけ温かい。


 ペンを取る。インク壺を開ける。便箋の一行目に、自分の名前を書く。


 『ヴェルナーへ。リーゼルより。』


 それだけで便箋が滲んだ。涙のせいだ。でも構わない。


 この手紙は、推敲しない。


お読みいただきありがとうございます。


「他人の名前でしか書けなかった人が、自分の名前で想いを伝える」というお話を書きたくて、この短編が生まれました。リーゼルとヴェルナーの五年間の文通を、少しでも感じていただけたなら嬉しいです。


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