聖女様、夫は返していただきます
ステラ・バラルディ。
バラルディ男爵令嬢としての彼女の産まれは、決して歓迎されたものではなかった。
燃えるような真っ赤な髪に、深いエメラルドの瞳。
金髪と青い目を持つ夫婦からは産まれるはずもない色だった。加えて赤い髪と緑の瞳は、この国を悩ませた蛮族の血。バラルディ男爵は妻の不義を疑い、妻がどんなに無罪を訴えても、娘を一度たりとて抱き上げることはしなかった。
母は覚えのない罪に臥せりがちになり、ステラの赤い髪を撫でながら「こんな姿に産んでごめんなさい」とか細く繰り返した。それは確かに愛の形をしていたが、ステラにとっては産まれながらの罪を自覚させられる、哀しい愛だった。
そうして母は、ついにステラが五才の年に息を引き取る。泣いて母に縋るステラの背に、父は触れる事もなく扉を閉めた。
母がいなくなってから、屋敷の中はさらに冷たい空気で満たされた。父は成長してゆくステラを目に入れる度、苛立ちと侮蔑を隠さなくなった。
跳ねる赤髪は「見苦しい」ときつく引っ詰められ、“反抗的な緑の目”を隠す為に、分厚く曇った眼鏡で隠すよう言いつけられた。
豊かに育った胸は「母のようにふしだら」と下女に布で無理に潰させ、高く伸びた背は「女らしくない」と言われ、丸めて歩いた。その上与えられるのは、時代遅れの褪せて古びたドレスばかり。
18になったステラは、いつしか“赤毛の老馬”と社交界で揶揄されるようになっていた。
高い背を無理に丸めて顎を前に落とし、そのくせたてがみのようにぴんぴんと収まらない赤い引っ詰め。言い得て妙だな、とステラ自身も薄く笑った。
笑い声はいつも背中から感じるもの。
けれどもうステラは、何にも反応を返さなかった。
自分の産まれが悪かったのだ。
今まで何度嘆いたって怒ったって、事態は悪くなるだけだった。ならばこのまま黙っていれば、これ以上悪いことはもう、起こらない。
——そんな灰色の日々に、転機が訪れた。
聖騎士セリウス・ヴェルドマンとの婚約話がバラルディ男爵家にもたらされたのだ。
この国における聖騎士とは、聖女である姫君に選ばれ、戦においての守護を賜った高潔な騎士達である。
しかし、それも公における建前。
彼らは剣の実力もさながら、何よりも輝くばかりに美しい青年達だった。色好きな姫君は彼らを手ずから選んでは忠誠の名のもとに側に侍らせ、絆を深めているのは知れたことである。
六人の聖騎士達は皆、伴侶を持ってはいたが、それも“体裁と後継の為の妻”として。
妻達は揃って地味で目立たぬ女ばかり。夜会に彼らと出ることもなければ、夫が夜ごと城へと馳せ参ずる事も咎めはしない。
なぜなら聖女は国の要だ。女神に授けられた癒しと浄化の力を持つ唯一の者。
その姿も白金の髪に空色の瞳と、まさに国の象徴らしく、精霊と見紛うほどに清らかだ。
国王ですら姫君には砂糖菓子のように甘く、彼女の“聖騎士”について誰も口を出す者など居なかった。
そして七人目である彼、セリウス・ヴェルドマンもやはり麗しい青年だった。
長く艶やかな黒髪に獅子を思わせる金の瞳。静けさを纏った若き騎士は、誰が目に入れてもため息をつかせるほどの美丈夫である。
そんな彼の妻に選ばれたステラは、もう何もかも分かりきっていた。
姫君のご機嫌を損ねぬ“魅力に欠ける妻”。
自分に望まれた役割が何であろうと、それでいい、としか思わなかった。
バラルディ男爵はこの話を受けると、やっと厄介払いが出来るとばかりにため息をつき、ステラに「そつ無くこなせ」とだけ言葉を投げた。
これでいい。
きっと、もう、これでいいのだ。
————
結婚式は淡々としたものだった。
飾り気のない白いドレスに身を包み、相変わらず引っ詰めた髪の重さを感じながら、隣に立つ“感情の無い夫”を見ていた。
ぱらぱらとした拍手は遠く、形式だけは整っていた。
ただ、それだけの式だった。
そして、それに伴う初夜を迎える。
ステラは与えられた寝室の広いベッドに腰掛け、自分の指先を見つめていた。
見苦しい髪は相変わらず纏めていたが、暗闇でどうせ見えないだろうと眼鏡は外した。お勤めのために胸が潰されていないことだけが少し楽だ、などとぼんやり考えて、この後の事をただ茫然と待っていた。
そして形式的なノックの後に現れたセリウスは、扉を静かに背で閉める。蝋燭が揺れる薄闇の中、金の瞳で刺すように彼女を見下ろした。
「...初めに言っておくが、君を愛する事はない」
わかっている。
わかっているのに、胸を何かが刺した。
「だが、互いの家の為、義務は果たす。その後は好きに過ごすがいい」
全く熱を感じさせない低い声。
頷くこともせず、いつものように背を丸めた。
ひと呼吸置いて、ぎし、と重みがかけられた右隣から手が伸びる。
彼の指先が夜着の結び目を解く、その瞬間。
これ以上、奪わせてなるものか。
頭の中に言葉が弾けた。
同時に燃え立つような怒りが身体を満たす。
床につけた足先が冷たい雪原に変わる。肉を断つ感触を指が思い出す。立ち込める血の匂い。肌に受ける吹雪の痛み。
そしてざあっと視界を埋める、戦馬に跨り赤い髪を振り乱し笑う女の姿。
———カーラ。カーラ・バザロフスカ。
この身に染みつく、北方蛮族とあだ名されたバザロフスカの長たる女の名。
王国の支配に抗い、平原を駆け抜け、血飛沫の中で何度も剣を交わした記憶。駆け巡るそれらの中で、なおも鮮烈に残る黒髪、そして金の瞳。
ああ、思い出した。
たったいま初夜を迎えようとしているこの男の父親こそが、己を手に掛けたクラウス・ヴェルドマン辺境伯。
憎き我が敵、我が宿敵ではないか。
「飼い殺しの聖騎士とは腑抜けたものだな、ヴェルドマン」
低く言い放たれた声に、セリウスがぴたりと手を止めた。
先ほどまでまるで怯えた猫のように丸めていたステラの背が、ゆっくりと伸びていく。
見上げたエメラルドの瞳がセリウスの目を威嚇するように貫く。目を見開いた瞬間、ぐっと胸ぐらを掴まれ引き寄せられた。
「カーラ・バザロフスカの名を忘れたとは言わせんぞ。我が宿敵クラウスの子、セリウス・ヴェルドマンよ」
セリウスの視界がぐるりと回る。
そして次の瞬間、ステラは彼に鮮やかに跨り、悠然と見下ろすと固く詰めた髪を解き放った。月光に照らされた赤髪が炎の瀑布のように肩に流れ落ちていく。
その姿に息を呑んでいたことに気づき、シーツに背を押し付けられたセリウスは慌てて口を開いた。
「何をする、いや、君は何を言っている...!?」
困惑しきって言葉を詰まらせる彼に、ステラはくつくつと笑うばかり。可笑しいのだ、巡り合わせも、今までのふざけた令嬢の人生も、聖騎士などというこの男も。
「ここまで言われてまだわからんとは。やはり噂に違わぬ顔だけの男か」
「なっ...!?」
ステラの侮蔑を込めた乾いた笑いに、セリウスが険しく眉を寄せる。
だがステラはさらに容赦なく嘲笑った。
「あの凄まじき剣を息子は忘れてしまったか?“聖女の慰み者としての一生”が英雄の子の望みとは嘆かわしいな!」
その言葉を受けた途端、セリウスの瞳が怒りにぶわりと燃え上がった。
「貴様...!狂言の侮辱もいい加減にしろ!!」
彼の右手がステラの胸ぐらを掴み返し、彼女を引き寄せる。かち合った視線を逸らさぬまま、セリウスは地響きのような声で吠えた。
「貴様に俺の何がわかる!!英雄たる父の背を追い、領民を護るべく研鑽を重ね、ようやく戦を終えて呼び立てられた王の御許にて聖騎士などに任命され、抗えぬ俺の気持ちが!!」
彼の拳が強く軋む。そして吐き出すようにステラへと感情を叩き込んだ。
「領民を置き去りに、歪んだ王城とぬるい戦場で己が錆び腐っていく」
「それをただ耐えねばならぬことが、どれだけ...、どれだけ屈辱的か...!!」
夜着の胸元を掴み上げた指先は震え、関節は白く浮き立っている。ステラは怒りと悔恨に満ちた彼の目をまじまじと見ると、へえ、と嬉しそうに頬を上げた。
「なんだ、とんだ見下げた男かと思いきや。身の内に志が燻っていたか」
そして掴まれた胸ぐらをそのままに、うんうん、と満足げに頷く。それから掴まれた拳を柔く握り込み、彼へと悪戯っぽく微笑みかけた。
「それでお前、姫君には操を捧げたのか?」
「馬鹿を言え!誰があのようなふしだらを抱くものか!こんな立場でなどなければ...、俺は...!!」
茶化されたと感じて怒鳴り返した彼は、視線を落としぎりり、と歯噛みする。ステラはますます嬉しそうに笑みを浮かべると、ふっと息を吐き出すように笑った。しばらく肩を震わせて、己を殺した男とよく似た彼を見つめる。
「ふん、かつてはクラウスほどの男なら、この身をくれてやってもいいと思っていたが。...今世で王国からお前を奪うのも悪くない」
「...何を言っている...」
セリウスは予想だにもしない返答に、思わず指の力を抜いて呟く。ステラはにっこりと微笑み返すと、彼の胸をトンと突いた。
「いいか坊や、あたしは欲しいと思ったものは必ず手に入れる。お前の父の命だけはファーレンの谷で貰い損ねたがな」
「はあ、右腕一つしか手に入らんかったのが未だに惜しい。前世の唯一の後悔と言えよう」
そうしてわざとらしいため息をつく彼女の言葉に、黙っていたセリウスはわなわなと震え出す。
「な、なぜその場所で父が腕を失ったと...、彼奴の首と引き換えに父の利き腕が失われた事は身内しか知らぬはず...。まさか、本当にお前は...」
震えたままに見上げた女は、ばさりと豊かな髪を背に跳ね除けながらからりと笑った。
「まだ言わせるか。お前の父の宿敵、バザロフスカが首長。お前の目の前にいるのはその記憶を宿した女だ」
「“血を以て根絶やしにせん”とこちらを滅ぼしておきながら、我が平原を魔物に明け渡すとは悲しいものよ」
「...っ!」
セリウスは思わず息を飲む。
聖騎士に任命され城務めとなり、領内を騎士達に任せきりとなったことで北の地に魔物が増えているのは重い事実である。
そして、今しがた女の口から言い放たれた“血を以て根絶やしにせん”とは...蛮族との戦における亡き父の口癖のような、固い決意の言葉。
一介の令嬢が、戦の父を知るわけがない。
「...。信じられんが...、...もはや、疑うべくもない...」
まじまじと見上げて呟く彼に、ステラはくくく、と笑うと彼の胸に指を当てた。
「では、改めて聞こう。血生臭い戦場の騎士に戻る気はあるか?旦那様」
ステラは試すように彼を見下ろす。
“戦場”と聞いたセリウスは目を見開くと、その目に確かな焔を一つ灯した。
「...戻れるのであれば、今すぐにでも」
互いに向かい合ったシーツの上。
血の因縁を抱えた二人の影が重なった。
————
次の日、セリウスが目を覚ますと隣にステラの姿はない。ぎし、と音がして身体を起こすと、寝室の床に彼女が這いつくばっていた。
「何をしているんだ、君は」
思わず素の声が出た。
「何って見てわからないか?腕立て伏せだよ」
ステラはこちらを見もせずに、腕を曲げ伸ばして、ふっと息を吐く。シルクの夜着の胸元がひらりとのぞいて、思わず昨夜を思い出したセリウスは慌てて目を逸らした。
「まさか姫殿下に腕っぷしで勝とうなどとは思っていないだろうな...?」
彼女が本当にあの蛮族の長であるのならやりかねないこともない。訝しげに尋ねると、ステラはこちらをチラリと見てため息をついた。
「何言ってんだお前は。姫君をお殴り遊ばせた時点で極刑だろうが。あたしは今考え事してんの。体を動かせば頭も動く。ついでに力もついて得ってもんだ」
「...そうか」
言わんとすることはわからんでもない。
そして夜着のまま100回目を数えたステラは、ばっと顔を上げて何かを思いついたようだった。
「なあ、わざわざ“魅力に欠ける女”を自ら選んで騎士達に当てがうほど、姫君は嫉妬深いんだったな?」
「...ああ、騎士達に“どれほど姫君が妻に比べて素晴らしいか”を語らせて喜ぶほどには」
苦々しげに答えたセリウスに、ステラは嬉しそうににまにまと笑う。...なんだか嫌な予感がする。
「そうかそうか!ならば徹底的に逆のことをしてやろう!いいか?今日からお前とあたしは“馬鹿みたいに愛し合うおしどり夫婦”だ!」
「...は?」
セリウスの困惑の声が、寝室に小さく残った。
————
「結婚おめでとうセリウス、奥方とはいかが?」
王城の客室にて。
婚姻を終えたセリウスが登城するやいなや、控える聖騎士達の目の前で姫君は彼の顎にするりと触れた。
セリウスは苛立ちを抑えて微笑み返す。
寡黙な彼が微笑む姿は、姫にとって初めての光景だった。
「姫殿下。ちょうどこちらからお礼申し上げねばと思っていたところで。ステラは本当に素晴らしい妻です」
「...?ああ!そうね、わたくしたちの関係には“素晴らしく丁度いい妻”でしょう」
一瞬意味がわからず首を傾げた姫君は、思い至ったように可愛らしくぽんと手を叩く。そして彼の微笑みに気分を良くして、嘲るように微笑み返した。
セリウスは姫君の返答に変わらぬ笑みを浮かべたまま頷く。
「ええ。あれほど美しく聡明で、魅力的な女性は他におりません。俺は一目ですっかり彼女に心を奪われました。まこと素晴らしいご縁に感謝いたします」
姫君と聖騎士達は彼の言葉に目を見開く。
しかしセリウスはもう姫君の目など見ていなかった。
「では、鍛錬に参りますので」
セリウスは美しく会釈をすると、すっと彼女の横を躱すように通り過ぎる。
客室に取り残された姫君は「へ...?」と間抜けな声を上げ、騎士達もまた、口を開いたまま彼を見送った。
一方、ステラも髪を引っ詰めにすることをやめていた。豊かな真紅の髪をふわりと背に下ろし、潰した胸は解いて整え、エメラルドの瞳が映えるよう紅で彩った。
そして古いドレスを脱ぎ去ると身体にぴたりと添った優雅なドレスを自ら選び、セリウスは黙って財布を開いた。
それから二人は王都で開かれる数々の夜会に、頻繁に姿を現すようになった。
聖騎士とその正妻としては、全く前例のない行動である。
絢爛豪華なシャンデリアの光の中、二人は仲睦まじげに微笑み合い、腕を絡ませていた。時にはステラがイタズラっぽく頬をつついて、セリウスが少し困ったように笑みを浮かべて何かを囁き返す。
聖騎士と思えぬ姿に明らかに周囲の注目を集めていたが、二人はまったく気にすることもない。
誰がどう見ても、円満すぎる新婚夫婦である。
「まさか聖騎士殿が夜会に出られるとは思いませんでしたなあ」
「その上、かの奥方様を連れていらっしゃるとは」
あからさまに二人を揶揄する言葉に、ステラはにっこりと完璧な笑みを浮かべた。
「ええ、夜会に不慣れなわたくしの為に、主人がドレスを仕立ててくださいましたの。今までは酷い姿をお見せしてお恥ずかしいことですわ」
隣に立つセリウスも、続けて甘やかな笑みをステラに向けた。
「夜会は愛しい妻を公然と連れ歩ける、絶好の機会ですから。素晴らしい妻を迎え、はしたなくも男として舞い上がっているのです。どうぞお許しを」
その後も話しかける度に返ってくるのは、互いへの甘い惚気話ばかり。“赤毛の老馬”から見違えるほどに美しく変貌したステラの姿と、妻へと臆面もなく愛を囁く聖騎士の姿は瞬く間に社交界の噂となった。
そう。ステラとセリウスが行ったのは、姫君と世間に対する徹底的な夫婦仲の主張。
「姫殿下には、いくら感謝を申し上げても足りません」
二人は必ず、同じ台詞を告げて会話を終えた。
ステラはもう一つ、令嬢達のサロンで噂を流した。
花々咲き誇る庭で、淑やかなご令嬢達が“噂の聖騎士夫人”に興味の色を抑えてティーカップを傾ける。
ステラは手の中の透き通った紅茶を見つめると、おずおずと、声をひそめて口を開いた。
「ここだけの話ですが...わたくしは本当はバラルディの血を引くものではありません」
ご令嬢達が揃ってはっ、と息を飲む。
ステラはそれを聞き取ると、自信なさげに微笑んだ。
「家族を失い、お屋敷前で倒れ込んだ北方蛮族の生き残りであるわたくしを、お優しいお父様とお母様が我が子のように育ててくださったのです」
「わたくしが今まで髪と目を隠していたのは、身を案じたお父様によるお心遣い...。血を引かぬ私を育ててくださったお父様は、本当に素晴らしい方です」
敵の血を引く子を匿い、娘として愛し育て上げた夫婦の美談。周囲の差別に怯え、身を隠して美しさを閉じ込めてきた生き残りの娘。
同情と感嘆のため息が、開いた扇子の内側で漏らされた。
「この事は、どうかご内密に...。特に、姫殿下には」
内密などと、令嬢達には意味をなさない言葉である。
ステラが北方蛮族の血であることは社交界にまことしやかに流れていく。ステラの父も持ち上げられる事にやぶさかではなく、その上で虐待の事実を知られることを恐れ、否定することもなかった。
貴族に拾われた北方蛮族の末裔の娘と、その一族を滅ぼした因縁の血が過去を捨てて愛し合う。
歌劇を愛する社交界が、この情熱的なロマンスに胸を打たれぬ理由などありはしない。
そして、そのうちにステラの血が蛮族の末裔であるという噂は姫君の耳にも入ることとなった。
「北方蛮族の血ですって!?なるほど、そういう事だったのね!彼は賊に騙されているんだわ...!」
「わたくしに振り向かないのも、すべてあの女に脅されているに違いない!わたくしが彼を解放してあげなければ!そう、聖女として!」
これまで何度甘い言葉でくすぐっても、のらりくらりと躱すセリウスに歯噛みしていたのだ。
その上あの“体裁の妻”に入れ込んで、“姫君への感謝”を枕詞にステラの素晴らしさを語られる日々に、嫉妬と怒りは限界を迎えていた。
けれど彼が騙されているなら仕方ない。
今度こそ救い出して、彼をわたくしの騎士にしなくては。
ご機嫌に花のような笑みを浮かべた姫は、ある事を思いついた。
ほどなくして姫君主催の夜会が開かれることとなり、セリウスとステラの元にも姫君自ら“ご夫婦でいらして”と記した招待状が届けられた。
城の大広間が大勢の貴族達で埋まってゆく光景を眺めながら、姫君は湧き立つ笑みを必死で噛み殺す。
二人には少し遅い時間を指定してある。この大広間が満たされ切ったその時、ちょうど現れるように。
そしていよいよ、二人は姿を現した。
いつものように寄り添い、微笑みあって。
空色の目にそれらを捉えた姫君の唇が、醜く捲れ上がった。
姫君は勝ち誇った笑みを浮かべると壇上に立ち、高らかな宣言と共にステラを見下ろした。
「ステラ・バラルディ!貴女は北方蛮族の血を引きながら、我が王国とその聖騎士、セリウス・ヴェルドマンを騙して婚姻したわね!」
「我が国に憎き蛮族の血を受け入れるなど、許されるべきではないわ」
「王国の姫、そして聖女の名をもって、彼女の卑劣な行いをこの場で罰します。この罪は極刑に値するわ!」
聖女は右手の甲に記された聖女の印を、高く天に掲げて言い放つ。
「衛兵!彼女を捕えなさい!」
瞬く間にステラは待機していた衛兵達の手で乱暴に捕らわれ、広間は貴族達の大きなざわめきが波となって響いてゆく。その中心に立つのは正義感に溢れた、聖女の清廉な微笑み。
———待ちかねたぞ、聖女め。
ステラは息を吸って目を瞑る。
そしてエメラルドの大きな瞳に涙を溜めた彼女は、兵士たちの腕の中から、必死に身を捩ってセリウスへと叫んだ。
「ああ、ごめんなさいセリウス!!わたくしがこんな紛い物の血であった為に!」
ここで聖女に噛み付いてはいけない。
あくまで“血を偽った己が悪い”と一段下げる。
「けれど、誓ってこの愛は本物よ!たとえ命を失おうと、あなたをずっと愛しているわ...!」
永遠の愛は不変のテーマだ。
死が加わればなお良しである。
衛兵に腕を引かれながら涙を流すステラに、セリウスも駆け寄って縋り付く。
「やめてくれ!罰するなら聖騎士の身でありながら、愛を夢見た愚かな俺だ!どうか彼女を返してくれ!」
自分を罰せと己を差し出し、聖騎士の建前の裏を明確に覗かせる。禁断の望みは悲恋の後押しだ。
セリウスは兵士達に引き剥がされるのを物ともせず、彼女の手を取り、固く握り合った。
「ああステラ、俺も誓おう!君が何者であろうとも!たとえ血の禍根があろうとも、ただ君ひとりが俺の妻だと!」
誓いは騎士の本分である。騎士道はロマンスを、血の禍根は因縁を超えた“真実の愛”を想起させる。
無理矢理兵士に引き離されて、伸ばされたステラの手からするり、とセリウスの手が抜け落ちた。
さあ、場は整った。畳みかけよう。
「今世で結ばれることが叶わないなら!きっと来世で君を探そう...!」
「ええ、セリウス!きっと、きっとよ...!」
迫真の叫びは誰の胸にも強く響き渡る。
その場にいた貴族達は心中を誓う夫婦の言葉に肩を震わせ、唇を噛み、次々に耐えきれず涙を溢した。
「あれほど愛し合う二人を引き裂くなんて!」
「因縁を捨ててまで結ばれたというのに...!」
「蛮族とて、処刑はやりすぎだろう!」
「酷い、こんなの...、あんまりだわ...!」
両開きの重い扉が開かれ、静かに涙を浮かべたステラが引き込まれていく。
二人にはもう言葉は要らなかった。
セリウスは膝をつき、遠のく彼女と見つめ合う。
まるでこの先の運命を“死ですら共に”と言わんばかりに。
扉がゴン、と鈍い音を残して無情に閉じられた。
セリウスは言葉もなくゆっくりと立ち上がる。
そして振り向くと、炎のような憎しみを込めた金の瞳で聖女をぎらりと睨みつけた。
「ひっ...!」
聖女は深々と突き立てる剣のような彼の視線を受けると、思わず後ろによろめいた。
そして彼の表情に不思議そうに首を傾げて、震えながらゆっくりと歩み寄る。
「どうして、そんな顔をするの...?セリウス、貴方はわたくしの騎士でしょう?あの女は貴方を騙していたの。わたくしが救ってあげたのよ...?」
姫君の言葉が空虚に響く。
そして、同時に全員が理解した。
己の醜い肉欲を大義名分で塗り替えておきながら、真実の愛を引き裂く偽りの正義。
乙女の姿を模る、最も邪悪で、傲慢な“悪”を。
会場に満ちた貴族達はそれぞれにため息をつき、扇子を閉じ、拳を握り———
———最大限にまで膨れ上がった憎悪と嫌悪のまなざしを、この国の聖女へ一斉に突き刺した。
「っ...」
姫君が声なき悲鳴をあげて立ちすくむ。
同時に手の甲に記された聖女の印がパキン、と音を立てた。
「どうして、どうしてそんな目で見るの...?正しい事を言っただけじゃない...」
「ひ、姫様、聖なる印が...!」
狼狽えるばかりの姫君の側に立つ騎士が、慌てて声を上げる。姫君は「え...?」と小さく空に声を残して、自らの手へと視線を落とした。
その手に記された聖女の証、女神の力。
白く輝く紋章は跡形もなく消え失せていた。
そう、初めからこれを狙っていたのだ。
「女神から賜った聖女の力、それは選ばれし姫殿下が民からの信仰を受ける限り続くもの」
「この事実は王族と聖騎士達にのみ知らされることであり、そのため騎士達は日々姫君の功績作りに勤しんでいる」
あの日の初夜のベッドにて、セリウスは聖女の力の根源をステラに告げていた。その時点ではただの、己では到底覆せないものとして諦めを含んだ告白。意味のない事実のはずだった。
だが、いまこの時。
姫君自らが貴族達を大盤振舞いで呼び込んでしまった王城内で、彼らの信仰は憎悪へ変わり、跡形もなく崩れ去ってしまったのだ。
「うそ...」
呆然とした姫君は印の消えた手の甲を撫で、二度、三度とさする。そしてじわじわと滲んだ焦りが回り切ったのか、額にぶわりと汗を浮かべるなり必死に掻きむしった。
「嘘、嘘よ!!消えるなんておかしいわ、私は女神に愛されてるの!ありえない!戻って!戻りなさい!!」
理性を欠き、もはや体裁を弁えずしゃがみ込んで喚き散らす姫君。その場の侮蔑の色が一層濃くなった。
「もうよい!姫を下がらせよ!!」
国王は狼狽しながら王座から立ち上がると、慌てて騎士達の手で暴れる姫を大広間から下がらせた。
「こっ、これは!姫の戯言じゃ!姫はまだ若く正義感も強く、難しいことがわからぬから...!撤回、撤回!ステラ・バラルディの処刑を撤回する!」
「何をしている!はよう彼女をここへ連れ戻せ!!」
ガチャガチャと鎧のぶつかる音を立て、衛兵達が扉の奥へと駆けていく。そして、衛兵の手に引かれるよりも早く、駆け寄ったステラがセリウスの腕の中に飛び込んだ。
「ああ、セリウス...!」
「もう君を離すものか...!」
お互いを確かめ合う夫婦の姿に、貴族達は歓声を上げて喝采し、熱い涙を頬に伝わせる。
涙を流すフリをしながら、互いにくつくつと笑いを堪えていることなんて知る由もない。
そしてその喝采がようやく止んだのち、二人は王に向かって恭しく跪いた。
しん、と静まった大広間。
セリウスは顔を上げ、ゆっくりと王へ口を開いた。
「妻へのご慈悲を感謝いたします、国王陛下。しかしながら、私達がこのことを国に黙っていたのは覆せぬ事実」
「臣下が王家を騙すなどと、決してあってはならないこと。己は自らの欲のために高潔さを失い、もはや聖騎士に相応しくありません」
「どうかしがなき辺境へと、罪に沈んだ我が身をお戻し下さい」
セリウスが深々と頭を下げ、ステラも涙の乾かぬ睫毛を閉じ、同じく深く頭を下げた。
国王はほっと安堵したような面持ちで、なんとか喉の奥から言葉を紡ぎ出す。
「そ、そうか、ならば聖騎士を剥奪し、そなたを再び辺境伯の身分へと降格する!これにて今回の夜会は閉会じゃ!ほら閉会!よいな!」
そうしてこの断罪劇の混乱は、激しい熱狂として貴族の心をかき乱したまま強引に幕を閉じられた。
その後、渦中の二人は社交界から惜しまれて姿を消した。だが信仰の潰えた姫君の力は、未だ失われて戻らない。
次第に意味をなくした聖騎士は解体されるものの、彼らのその後の噂も決して良いものではなかった。
北の辺境では、領に戻ったヴェルドマン辺境伯が魔物の討伐に華々しい戦果を上げているという。
そしてその傍らで、名も知れぬ騎士が背を支えた。
腰までの黒髪と外套を翻し、魔物を屠る辺境伯の隣。銀の甲冑に身を包み面頬を深く下げた騎士は、最後の魔物を斬り伏せると血飛沫の中で怒鳴り声を上げた。
「なあ、この甲冑重いんだよ!あっついし前は見えにくいし!」
「声が大きい。戦に出れなくなるぞ辺境伯夫人」
「うるっせえこんな口調の夫人がいるか!ってうわ!?」
隣からいきなりぐっと腕を引かれ、よろめいた彼女を側に引き寄せる。
「君は意外と隙が多いな。今世では早死にしてくれるなよ」
兜の下から飛び出た赤毛をそっと押し戻して、セリウスは金の瞳を甘く細めた。
「っ...、とっとと我が平原を取り戻すぞ旦那様!」
「愛しき妻の為ならなんなりと」
おまけSS その後(甘め)
「“辺境伯家に赤毛の子ばかり産んでやる”と豪語した癖に、口付けすら逃げ回るのはなんなんだ」
「だっ、黙れ!お前のその妙な雰囲気が悪いんだろうが!目つきといい声色といい、もう演技は済んだんだ甘くするな!!」
「演技で甘い顔が出来るほど俺は器用な男ではないが。さあ、観念して...」
「〜〜〜ッ!?やめろ寄るな耳元で囁くなぶん殴るぞッッッ!!!」
「...本当に殴るやつがあるか...」




