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境界線の女王  作者: 都桜ゆう


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第二章:影の転校生、そして最初の摩擦(2)

 水嶋沙羅が転入してから一週間。教室の空気は、緩やかに、しかし確実に毒性を帯びていった。それは突発的な暴力ではなく、じわじわと真綿で首を絞めるような、組織的な排除の儀式から始まった。

 ユウカの号令は、言葉ではなく視線によって下された。


 彼女が沙羅を無視すると決め、その背中を冷たく一瞥した瞬間、クラスの女子全員に不可視の通信網が走り、沙羅の透明化が完了した。

 朝の挨拶。沙羅が小さく頭を下げても、誰も顔を上げない。休み時間。沙羅が座る席の周囲三メートルだけが、音が吸い込まれるブラックホールのように静まり返る。


 美咲もまた、その沈黙の輪の中にいた。沙羅が教科書を忘れた際、隣の生徒に声をかけようとした瞬間、美咲はわざとらしく自分の筆箱を落として音を立て、その声をかき消した。それは、沙羅という存在を認めないという、美咲なりの安全への投資だった。


 沙羅は、その真空のような孤独の中でも、取り乱すことはなかった。彼女はただ、伏せられた色素の薄い瞳で、自分のデスクに刻まれた木目を見つめ続けるか、あるいは、窓の外で不気味なほど青々と繁る竹林の闇に、救いを求めるように視線を送っていた。その視線が竹林に触れるたび、美咲の耳には、風もないのに竹が「……ギイ……ギイ……」と、何かに耐えるような低い軋み声を上げているのが聞こえた。


 六月に入り、梅雨の湿気が街を重く覆うようになると、いじめは目に見える形へとエスカレートした。

 沙羅が沈黙を守るたび、ユウカはそこに屈服の兆しではなく、自分を軽蔑するような侮辱の意を読み取っていた。


 暴力や言葉による支配が通用しない、その底知れない静寂。何を与えても揺るがない沙羅の姿は、ユウカにとって、自らの権威を無価値なものへと突き落とす最大の反逆だった。

 沙羅が泣かず、喚かず、ただそこに静かに存在し続けること。その不気味なほどの不動さこそが、ユウカの絶対的な支配権を根底から否定しているように感じられたのだ。


「ねぇ、この子、生きてるのかな? 触っても血が通ってないみたい」


 昼休み、リナが嘲笑しながら、沙羅の背中に冷めたお茶をわざと零した。制服の白いブラウスに、汚濁した茶色の染みがじわりと広がっていく。それでも沙羅は動かない。それを合図に、リナと数人の取り巻きが、沙羅のロッカーから私物を引き摺り出した。




 三日後。沙羅の体操服が、学校裏手の竹林と校舎の境界にある放置された砂場で発見された。それは単に汚れているだけでなく、鋭い刃物か何かで執拗に切り裂かれ、内側に腐った果実と汚泥が詰め込まれていた。その異様な光景は、もはや子供の悪戯の域を超え、獲物を解体する猟師の所業に近い残虐さを孕んでいた。


 だが、外装をいくら引き裂こうとも沙羅の心臓までは届かない。そう悟ったユウカの悪意は、ついに沙羅が唯一肌身離さず持っていた、一冊の古びた文学書へと向けられた。

 それは彼女が唯一、慈しむように触れていた心の拠り所だった。ユウカはその本を強引に奪い取ると、全てのページに黒い油性マジックで「呪」「死」「消えろ」という文字を、執念深く書き込んだ。

 美咲は、その本がユウカたちの手で弄ばれる音を聞いていた。紙が擦れる音、ペンが不快に走る音。それは、沙羅の魂の皮を一枚ずつ剥ぎ取っていく音のようだった。


 美咲の心の中には、微かな吐き気が込み上げていた。「やりすぎだ」という声が、喉元まで出かかっていた。しかし、その言葉を飲み込ませたのは、かつての自分自身の記憶だった。今ここで声を上げれば、この汚泥は次に自分へと向けられる。

 美咲は、沙羅の絶望的な横顔を網膜に焼き付けながら、いつものように、完璧な、そして最高に卑怯な曖昧な微笑みを浮かべた。美咲の沈黙は、今やユウカたちの悪意を正当化する最大の加害へと変質していた。


 沙羅は汚された本を返されたとき、初めて微かに唇を震わせた。だが、彼女は泣かなかった。彼女は、墨で汚されたページを、愛おしむように指先でなぞった。その瞬間、美咲には見えた。沙羅の指先から、黒い霧のようなものが滲み出し、書き込まれた呪という文字を吸い込んでいくのを。

 沙羅の瞳に、初めて、冷たい光が灯った。それは、いじめられる側が持つべき恐怖の色ではなく、これから始まる何かを見定める、捕食者の光だった。

 西側の竹林が、それに応えるように、一際大きく「ザワッ」と、街全体を飲み込むような咆哮を上げた。




 七月の足音が聞こえ始めた頃、霧峰市の空気は飽和した湿気で重く沈んでいた。いじめという名の日常的な儀式は、もはやクラスにとって呼吸と同じほど当たり前の風景と化していた。ユウカたちの加害は日を追うごとに巧妙さを増し、沙羅の存在をこの世界の境界線の外側へと押し出し続けていた。


 その日の放課後、異変は前触れもなく訪れた。

 掃除当番だった美咲が、ユウカたちのグループと談笑しながら教室に戻ると、沙羅が自分の席で硬直していた。彼女の視線の先、天板の下にある物入れの暗がりから、不吉な異物が顔を覗かせていた。教科書の隙間に強引に押し込まれていたのは、誰かが古い竹串を骨組みにし、使い古されたボロ布を幾重にも巻き付けて作った、奇妙にリアルな人型の物体だった。


 ワラ人形を模したその呪いの形代(かたしろ)には、五寸釘の代わりに、西側の竹林から切り出されたばかりのような、瑞々しくも鋭利な竹の棘が、人形の心臓部と四肢に深く突き刺さっていた。それは、ユウカたちが得意とする現代的な嫌がらせの範疇を、明らかに逸脱していた。そこには、この街の西側に代々伝わる蛇の祠の言い伝えを知る者だけが込めることのできる、古く湿った言い逃れのできない殺意が宿っていた。


 美咲はその人形を一目見た瞬間、幼い頃に郷土史クラブの老人から聞かされた不気味な伝承を、濁流のように思い出した。

 霧峰の呪い。集団の安全と繁栄を維持するために、境界線上に立つ孤立した者を生贄として捧げ、地脈の怨念を鎮めるための残酷なシステム。その人形は、沙羅がこの街の生贄として選ばれたことを宣言する、死刑宣告の招待状に他ならなかった。


「うわ、何これ。マジでキモい。沙羅、自分で自分の呪いのアトリエでも開いてるの?」


 ユウカの突き放すような笑い声が、静まり返った教室に響く。リナとサキも、その人形の異様さに一瞬顔を引きつらせたが、すぐにユウカの調子に合わせて冷たい野次を飛ばした。彼女たちは、自分たちが弄んでいる火が、この街を焼き尽くすほどの古の業火であることを、まだ知らなかったのだ。


 だが、沙羅の反応は、再び彼女たちの予想を裏切った。沙羅は、その呪いの人形を前にしても、悲鳴を上げることも、恐怖に震えることもなかった。彼女の顔からは全ての血の気が失せ、透き通るような白磁の肌は、死者のような冷たさを湛えていた。しかし、その色素の薄い瞳には、恐怖ではなく、まるで長年待ち望んでいた再会を果たしたかのような、静かな、そしてゾッとするほどに深い、うっとりとした喜びを(たた)えていた。


 沙羅は、震えることもない細い指先を伸ばし、その人形にそっと触れた。その瞬間、美咲の耳には、教室の窓ガラスが微かに共鳴するような低い振動音が聞こえた。沙羅は、胸に刺さった竹の棘を抜こうとはしなかった。むしろ、その棘をさらに深く、自らの指の腹を突き刺すようにして押し込んだ。

 真っ赤な鮮血が、一滴、また一滴と、人形の布地に染み込んでいく。血を吸った人形は、まるで命を吹き込まれたかのように、美咲の目には一瞬、ピクリと動いたように見えた。


「……そう、これが必要だったのね」


 沙羅が、この街に来て初めて、明確な意思を持った声で呟いた。その声は以前のような掠れたため息ではない。地底の奥底から響いてくるような、重く、揺るぎない権威を帯びた声だった。

 彼女は血塗られた人形を大切そうに拾い上げると、スカートのポケットへと静かに収めた。その動作には、屈辱も焦りもなかった。それは、これから始まる儀式のための祭具を回収する、神職のような厳かささえ感じさせた。


 その瞬間、美咲は背筋に氷を押し当てられたような戦慄を覚えた。水嶋沙羅は変わった。いや、変貌させられたのだ。ユウカたちが投げつけ続けた現代の悪意という燃料が、この街の西側に眠る呪いという火種と接触し、沙羅という器の中で、決定的な爆発を起こしたのだ。

 彼女はもう、助けを待つ被害者ではない。自分に向けられた呪いの力を自らの内に取り込み、それを増幅させ、分配する権利を得た執行者へと、そのステージを上げたのだ。


 美咲が窓の外へ目をやると、霧はいつの間にか血のような夕闇に染まっていた。竹林のざわめきは、今や咆哮へと変わり、校舎全体を揺らさんばかりに激しく震えていた。

 美咲は悟った。明日からの教室は、もはやユウカたちの庭ではない。そこは、沙羅という名の闇が支配する、逃げ場のない境界の処刑場へと変わるのだ。


 美咲は、ポケットに手を突っ込んだまま教室を去る沙羅の背中を、言葉を失って見送ることしかできなかった。美咲の右手は、理由のない震えを止めることができず、彼女はそれを隠すように、自分の制服のポケットを強く握りしめた。


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