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境界線の女王  作者: 都桜ゆう


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第五章:静寂の領土と審判の配当(3)

 西日に照らされた放課後の図書室で、美咲は一人、かつて沙羅が汚されたものと同じタイトルの本を開いていた。


 窓の外からは、何も知らない生徒たちの笑い声が聞こえてくる。その屈託のない、あまりに無防備な生命の震えは、街の理そのものとなった美咲にとって、最良の獲物が立てる脈動に他ならなかった。牙を隠した街の深淵が、瑞々しい音色に呼応して歓喜に震え、それと連動するように、彼女の右手首に刻まれた漆黒の痣がさらなる熱を帯びて拍動する。


 美咲は、その無邪気な振動を掌の上で転がす玩具の音色のように聞き流し、ページを捲った。めくれた袖口から覗く文様は以前よりも太く、鮮明になり、今や肘の近くまで血管を侵食するように伸びている。彼女が慈しむようにその漆黒をなぞると、地中深くで眠る竹の根が、一斉に身震いする感覚が指先を通じて伝わってきた。


(――もう、私とあなたの境界なんて、どこにもないのね、沙羅)


 美咲が心の中で呟くと、校舎を囲む竹林が「シャリ……シャリ……」と、満足げな音を返した。

 今やこの街のすべての不浄な振動は、彼女自身の鼓動に他ならない。美咲は、その確かな拍動を全身で受け止めながら、傍らに置いた鞄から一冊のノートを取り出した。


 沙羅が使っていた、あのメモ帳。その真っ白なページには、美咲の瞳にだけ、街の住人たちの罪の残高が黒い染みとなって浮かび上がって見える。


 誰が、誰を、どれほどの執念で傷つけたか。美咲はその染みの濃淡からすべてを読み解き、逃さず観測し続ける。彼女の沈黙はもはや逃避ではない。ノートに刻々と刻まれる黒い染みが臨界点に達し、裁きの時を迎えるのを見定めるための、冷徹な執行官によるカウントダウンだった。


「水嶋。まだ残っていたのか」


 不意に、背後から声をかけられた。担任の教師が、一人の少女を連れて図書室に入ってきた。少女は、見慣れない紺色の制服を着て、小刻みに震える手で鞄のストラップを握りしめている。


「彼女、明日から転入してくる小野寺(おのでら)さんだ。手続きが長引いてこんな時間になったんだが、せめて図書室の場所だけでも見ておきたいというから案内してきたんだ。水嶋、明日から彼女のことを色々と助けてやってくれないか?」


 美咲は、ゆっくりと顔を上げた。新しい転校生。その少女の瞳には、周囲の顔色を窺い、自分の居場所を探そうとする怯えが宿っていた。それは、かつて執拗な悪意を向けられても、ただの一度も屈することなくそれを無視し、孤高を貫き通した沙羅の瞳とは、決して相容れない卑小な光だった。


 そして、今の美咲の目には視えていた。明日この少女が踏み込むはずの教室、そこで待ち構える女子たちが放つ、獲物を値踏みするような悍ましい期待が。物理的な距離など意味をなさないほど濃密に、街の深淵から溢れ出した透明な悪意の糸が、すでにこの図書室にまで到達し、逃げ場のない少女の四肢に絡みついている。

 美咲は、その少女をじっと見つめ、いつものように、しかし以前よりも深く、透明で、慈愛に満ちた微笑みを浮かべた。


「ええ、喜んで。

 ……はじめまして、小野寺さん。この街は、とっても静かで、いいところよ」


 美咲が少女の手を取った瞬間、彼女の右手首の痣が歓喜に震えるように熱を帯びた。

 美咲の脳裏には、先ほどノートに浮かび上がった黒い染みの意味が、鮮明な映像となって流れていた。


 そこに刻まれていたのは、この少女がいじめの矛先を自分から逸らすため、あろうことか親友の失態をクラス中に言いふらして次の標的に推薦し、自分だけが安全な場所へ逃げ込んだ、醜悪な保身の記録だ。

 他人を売る際に親切な友人の顔を演じ続けてきた彼女にとって、美咲が向ける一点の曇りもない善意や歓迎の言葉は、信じるべき救いではなく、自分を油断させ、奈落へ突き落とすための凶器にしか見えなかった。


 この静寂の中、美咲の清らかな声に触れたことで、彼女の内に沈殿していた罪悪感が一気に逆流した。今度は自分が標的にされるという強迫観念が魂を真っ黒に濁らせ、逃げ場のない報いとして彼女を追い詰めていく。

 その魂の濁りを美咲が正確に射抜いたとき、手首の灼熱は少女の掌を突き抜け、彼女の影へと一気に(はし)った。


 美咲から放たれたその熱に呼応し、少女の足元から黒い竹の芽が鋭く芽吹いた。

 少女の影を縫い留めるようにして地を割ったその竹の芽が、獲物の自由を奪うべく影を深く貫いた刹那、美咲の脳裏には地底から突き上げてくるような凄まじい空腹が流れ込んできた。


 そのとき、美咲は悟った。自分はこの街のクイーンになったのではない。自分は、この街という名の胃袋の、最前線に立つ案内人になったのだ。

 生贄を迎え入れ、絶望を観測し、均衡を保つ。かつて沙羅が背負わされたその役割を、美咲は、自らの意志で、最高の悦びと共に引き継いだ。彼女はもう、二度と誰かを助けようとはしない。ただ、最も美しい場所で、誰かが壊れていくのを正しく見守り続ける。




 夕闇に沈んでいく霧峰市。美咲の瞳は、沈みゆく太陽の光を反射することなく、ただ深い、竹林の闇の色を湛えていた。


「――ようこそ。私たちの街へ」


 美咲の囁きは、秋の風に消えた。しかし、その言葉は街のすべての竹の葉を震わせ、永遠の沈黙という名の儀式の幕を開けた。

 逃げ場のない白い(とばり)が、図書室の窓を、そして少女の未来を塗り潰していく。美咲という名の、最も深く、最も冷たい霧が、今、この街を永遠に支配し始めたのだ。



(C),2026 都桜ゆう(Yuu Sakura).


4日にわたりお付き合いいただきありがとうございました。

感想など頂けたら、とても嬉しいです。

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