移ろいゆく季節
時が経つにしたがい、辺りを包み込んでいた幻想的な世界は、ハラハラと剥がれて落ちて行きました。
もう以前の、うっとり見上げていた桜色は、妖精の子の心を焦がすだけの幻となってしまったのです。
やがて、妖精の子の体の色は少しずつ褪せてゆきました。
けれどもまわりの妖精たちの姿は、瑞々しい新緑の色へと移ろい、すがすがしい喜びに満ち溢れていました。
花の代わりに、葉芽がそこかしこに萌え出していたのです。もうおもてを広げ、お日様の光を全身で浴びる誇らしげな葉の一群も、たくさん見られます。
光は、葉のおもてを白く輝かせ、通り抜け、柔らかな緑に透かして見せます。
重なり合う葉や枝が影を作り、暑い夏に向け、妖精たちやそこに暮らす生き物たちにとって、とても居心地の良い空間へと変わって行くのです。
桜の木は、緑の天蓋に覆われた涼しげな隠れ家となるのです。
それでも妖精の子の心は沈んでゆくばかりでした。どうしても桜色の花が忘れられなかったのです。
* * *
新緑だった葉も青々となり、桜の木は、根元に藍色がかった涼しい影を落としています。
葉が風でそよぐ度に、木もれ日が影の中をチラチラと踊ります。
夏が来たのです。
妖精たちは元気です。
木もれ日を追いかけたり、葉に乗っかって、お日様に目を細めてみたり。中には遊び疲れて木影で気持ち良さそうにお昼寝している妖精たちもいます。
体の色は濃い緑色になりました。みんなとっても仲良しです。
でも妖精の子は一人ぼっち。
体の色は、ため息の色と同じ透明になっていました。
まだかすかに桜色が残っているところもありましたけれど、姿が透き通っていては、誰だって気付きません。
きれいなもの、素敵なもの、優しいもの、楽しいもの……。いつの間にか妖精の子には、それらが出す小さな音色を聞くことが出来なくなっていたのです。
あの桜色の世界が大好きだったのに、もう花びらの出す音色も上手く思い出せません。
妖精の子は、そばに咲いていた花びらにそっと触れてみた時、花びらががくから離れて行った時の事を何度も思い返しました。
みんなが、散りそうな花びらを見つけては飛び乗っていた姿も、いくどとなく思い返しました。
『あの時触らなければ……。あの時みんなを止める事が出来たのならば……』
妖精の子はずっと、そのような事ばかりを考え続けていました。
* * *
眩しい日差しは和らぎ、時おり涼しい風が、梢を吹き抜けて行きます。
賑やかだった蝉しぐれも、いつの間にか止んでいました。
夏が終わったのです。
妖精の子の心は、ますます塞いで行きました。
わずかに残っていた体の一部の桜色も、だいぶ前に消えてしまいました。
もう自分でさへ、自分の体を見ることが出来ません。
青々と茂っていたたくさんの葉は、日ごと夕日に染められて来たかのように、紅や橙色へと変わってゆきました。
妖精の子の眺める先には、楽しそうに遊ぶ妖精たちの姿がありました。
今度は、枯葉のスカイサーフィンです。
枯葉は花びらよりも大きいから、とっても面白いのです。
風に乗ってゆっくり滑空するかと思えば、ジェットコースターの様に急降下したり、時にはものすごい距離を飛んでいったりするのです。
ただ着地した後、木に戻ってくるのが一苦労ですが、それだって大冒険です。積もった落ち葉の山を乗り越えて、葉っぱと葉っぱの間のトンネルをくぐり抜け。
妖精たちの姿は色とりどりです。
燃えるような紅色、夕日を照り返す雲みたいな橙色。黄色の妖精は暖かそうに見えますし、ほんの数人は、夏の葉とは少し違う感じ、秋に程良く馴染んだ黄色がかった緑色の妖精もいます。
でも妖精の子はやっぱり一人で枝に座っていました。
葉に触れないように気をつけて。
でもまわりの妖精たちには、言えませんでした。
『葉っぱが、ちっちゃうから触らないで』
なんて。
みんなとても楽しそうで、嬉しそうに笑っていたからです。
妖精の子は、みんなが喜ぶ姿を見ていると、ほっこりとした気持ちになって、胸のあたりが少し温まるのを感じました。
それでも枝を離れてゆくたくさんの葉を眺めていると、どうしても悲しくなるのでした。
地面を覆ってゆく落ち葉はとてもきれいだと思いましたが、その厚みが増して行くごとに、桜の木が寂しくなって行くからです。
* * *
意地悪で冷たい風が吹き付けると、どこか空の方で、ピューピューと物悲しい音が響きました。
そして最後の一枚の葉が、とうとう枝を離れて行ったのです。
空高く巻き上げられ、くるくる回り、遠くの方へ、あっという間に消えて行きました。
妖精の子は、その葉が消えていった先をしばらく眺めていました。
どんな音色がしたのでしょうか?
澄んだ音色?
悲しい音色?
音色はどんな音で、どんな色や形をしていたのでしょう?
妖精の子には分かりませんでした。
一人で枝に腰掛けたままボンヤリ空を見上げました。凄く高いところで、薄く引き延ばされた綿の様な雲が吹き流されて行きます。
ふと、生まれたばかりの頃に思った事を思い出しました。
『いつの日か、この木は天にまで届くのだろう』
妖精の子は、だいぶ前から気付いていました。
木は天に決して届かないという事に。
天蓋を失った桜の木は、空の底で、細い枝先を細かく震えさせているばかりでした。
地面ではたくさんの落ち葉が、カサカサとひっきりなしに乾いた音を立てて転がって行きます。
妖精の子は思いました。
『受け入れられない事だらけだ』
と。
妖精の子は寒くてブルブルと震えました。
でも寒さのせいばかりではありません。
一人ぼっちで座っているからです。
まわりの妖精たちはみんなで体を寄せ合い、楽しそうにしています。
肩を組んで大きな声で合唱をしていたり、おしくらまんじゅうをしてはしゃいでいたり。
妖精たちは、秋にもまして様々な色に彩られていました。
薄い水色の妖精は、きっと空を眺めていたのでしょう。
赤茶色いのは、落ち葉の色。
木の足元には、雪だるまが溶けかかっていましたから、真っ白な妖精たちもたくさんいました。五日前に降った雪で、里の子供たちが作ったものです。
真っ赤なのは、きっと遠くに見える屋根の色。
青味がかった灰色は、煙突の煙。
中には、白地にピンクの水玉模様の妖精もいました。遠くの庭で干されている洗濯物の中に、そんなブラウスが風に煽られていましたから。
枝に葉が一枚もないのですから、冬の桜の木は、まさに見晴らしの良い展望台になるのです。
でも、妖精の子はやっぱり透明なままでした。
沈み込んだ心は日に日に重たくなって、今ではもう、桜の花びらだけではなく、過ぎ去ったすべてを悼む思いに捕らわれていたのです。
緑の天蓋や、夏の木もれ日、涼しい木陰。
紅や橙色の紅葉も……。
きっとそれぞれ、素敵な音色を奏でていたに違いありません。
妖精の子は、全てが無くなってしまってからようやく、全てを愛していた事に気が付いたのです。




