彼女の憂鬱
隣に陣取った男が笑うと、唇の間から並びの悪い薄黄色い歯が覗いた。女は遠慮がちに宜しくと首を傾げ、ほんの少しだけ尻を横にずらす。微かにオレンジがかった照明は料理を鮮やかに見せてはくれたが、その場にいる人間の姿までは美しくしない。
肩を竦ませ居心地悪そうにフルーツカクテルのグラスを両手に抱える彼女の気も知らず、男は無遠慮に並々とビールの注がれたグラスをぐいっと女のすぐ側まで寄せてくる。袖口からはみ出した剛毛に女は益々嫌悪感を覚え、鳥肌を立てた。
「こういうの初めてなの」
妙に裏返った声も彼女の許容範囲から外れていた。
「レオン、優しくしなよ。彼女、こういう雰囲気に慣れてないんだからね」
助け船を出したのはニーナ。人付き合いの苦手な彼女を無理矢理連れ出した張本人。赤茶けたくせっ毛をかきあげると、彼女のかわいらしいそばかすがいっそう際だって見えた。
はす向かいの席から、ニーナは彼女に改めて今日のメンバーを紹介する。
「ちゃんと覚えた? 左隣がレオン、右がアンジェ、トム、ジョージ、テーブル挟んで向かいがマリン、ルナ、ケント、マックス。男女比まちまちになると盛り上がらないからって、無理に引っ張ってきてゴメンね。せっかくだから楽しもうよ」
ニーナの心遣いに、彼女は何も言うことが出来なかった。
いわゆる合コンというヤツだ。普段は声がかかることすらないのだが、今回は女性が一人足らなくなったのだという。偶に羽目を外すといいよなどと、仕事のときもオフのときも仲良くしてくれる数少ない友達の頼みを断り切れず、場違いだとわかっていて付いてきた。来なければ良かった。料理に箸を伸ばすだけで精一杯の彼女は、どうしたらよいかわからずただうつむいていた。
「ところでさ、今改めて思ったんだけど、みんなの名前、漢字でどう書くの」
声を上げたのはジョージだった。メンツの中で一番の日本人顔の彼は、徐に懐からペンを取り出して、俺はと言いながらマリンに差し出された居酒屋のアンケート葉書の裏に自分の名前を書き始めた。
「俺ら二〇五〇年代生まれって、結構変わった名前多いって言うけどさ、今日はまともに外人名っぽいのが集まったなって思ったんだよね」
『丈司』の文字が太いマジックで書かれると、
「普通すぎるよ」
「そのまま日本人名だってば」
などと野次が飛び、
「じゃあお前はどうなんだよ」
と言われてすぐに今度はトムがペンを走らせる。
「わ、出た。『叶夢』。かなりメルヘン入ってるな」
「だろ。三十路近付いてきてそろそろやばいなって思い始めてはいる」
チラと彼女はトムの横顔を確かめた。まあ、それほど悪くはない。清潔感もあり気さくで話しやすそうな青年だ。夢を叶えると言う名前は少し似合わない気もしたが、それでも隣のレオンよりは良いなと、彼女は心の中で呟く。
「私は『月』って書いてルナで、彼女は『海』って書いてマリンなの。母親同志が幼なじみでね、結構気に入ってるんだ」
トムの向かい側でルナが自分の名前を自慢し始めていた。確かに可愛い名前だが、厚化粧でも貧相な二人には全く似合っていない。
「じゃあ、俺の名前も普通だな」
と、ケント。走り書きした『健人』の文字、体育系の彼にはピッタリだ。
「私の名前も漢字で書くと普通だよ。『仁奈』ほらね」
ニーナもペンを借りて葉書にサッと書いて見せた。
「俺はこれだ」
雑把な字で『麗音』と書いた葉書が料理の並んだテーブルの中央にぽっと差し出される。名前とは裏腹に旋律の整わない声が名前負けしていることを存分に表していて、思わずそこにいた誰もが苦笑いした。
「でもさ、最強なのはマックスだと思うぜ。なんてったって漢字はそのまんま『最高』だもんね」
ケントが隣ではやし立てると、
「どうせ名前負けしてるよ」
とマックスが言った。マックスは細身の優男だった。
「アンジェは? 想像付かないな。安心の安に、じぇ? 何て字使ってんの」
私はねと、アンジェは丁寧な字で『杏慈衣』と書いてみせる。
「偶に『アンジー』ですかって言われるんだよね。アンジェ、だからね」
ああと感嘆の声が漏れた。
「なんてったっけ、……コバさん?」
「うん、そう、小林さん」
ニーナがマックスに彼女のことを紹介していた。会話に混じらぬようにしていた彼女に、とうとう順番が回ってきたのだ。
「小林さんの下の名前、なんてったっけ。あまり見ない漢字だったよね」
と、ニーナ。
「そうでもないですよ。読み方も普通だし」
話題にされたくない彼女は少しだけ顔を歪ませる。
「そういえば、コバさんだけ自己紹介のとき、下の名前言ってくれなかったよね。何、珍しい名前なの」
興味津々のレオンが更に間合いを詰めてくる。彼女はブンブンと顔を横に振った。
「ち、違います。普通の、普通の名前ですから」
「そんなに勿体ぶらなくていいよ。期待しちゃうじゃん」
と、マックス。
何を期待することがある、あなたほど最強な名前はそういないと、彼女は両手にかいた汗をスカートに拭った。
「……よ、よしこです」
「え?」
「だから、小林、よしこ、です」
間が空いた。
箸を動かしていた右手、グラスの傾きが一斉に止まる。
まるでタイムスリップしたかのように、みなポカンと口を開けている。二十二世紀間近に控えて今時『よしこ』はないだろうと、それは今まで何度も彼女が経験してきた空気だった。
「あ、わかった! 漢字が珍しいんでしょ」
場を和ませようとしたのか、ジョージがビール片手にテーブルの端から声を上げる。
「普通です。漢字も普通です」
「でもあんまり見たことのない漢字だったよ」
「そうでもないですってば」
諦めてペンを借り、皆と同様アンケート葉書の裏にペンで殴り書きする。テーブルの中央にバンと突き出し、
「紳士淑女の淑の字取って『淑子』です。ね、珍しくないでしょ」
そこまで言うと、大抵なるほどねという空気になるはずなのだが、その日は違った。いつにも増して寂しい空気が漂って、そのままカチンと固まったのだ。何かまずいことでも言ったのだろうかと彼女が目をキョロキョロさせるていると、レオンが隣りでぽつりと言い放った。
「しんししゅくじょって、……何」
なるほど、思えば既に死語と言われて久しかった。
<終わり>