北方の武家事情
井筒彼方が蔵書館の『片づけ』を終わらせるのには、およそ一月ほどの時間を要した。ただ終わらせるだけであればすぐだったが、蔵書館の名が穢れないように手を尽くしたぶん時間がかかったのである。
ともあれ、時間をかけただけの成果は得た。これでようやく本来の目的を果たせるというものだ。
「さて、奴の素性を調べないとな」
彼方の頭には、先だっての試験で失格に終わった人物の名前のうち、当たりをつけた名前がだいたい入っている。
「おそらくは武家。地方の出身で、場所は北方」
蔵書館から眺めただけだが、彼方はこの推測が大きく間違ってはいないと自信を持っていた。身のこなしが武師と遜色ないものだったということが一点。そしてかなり綺麗な氷の口示を使っていたということが一点。
口示の適性というのは、生まれた地域が大きな影響を与えるというのが常識だ。山間であれば土の、海に近ければ水や風といった具合にだ。氷の口示は水と風を複合させた口示なので、元より使い手は多くない。都で名を知られる氷の使い手、そのほとんどが北の生まれであることも推測を裏付けている。
「やあ、西谷殿」
「やや、これは井筒様! ご無沙汰をしております」
彼方が足を運んだのは、蔵書館ではなく武窮館だった。井筒家は都でも大きな勢力を持つ貴族の家だ。武師の中には蔵書館の司書や学士を小ばかにする者も多いが、傍流とはいえ貴族である彼方を表立って馬鹿にすることはない。
西谷刑部は、天津最北にある北角島出身の近衛大将だ。氷の口示の使い手の情報を仕入れるには最適な人物だろう。
「申し訳ない。何度かお尋ねいただいたようで」
「いえいえ、お気になさらず。所詮は道楽者の道楽ですから」
けらけらと笑う彼方に迎合するでもなく、刑部は少し首を縦に動かすに留めた。傍流の道楽息子と陰口を叩かれる彼方を、一度も悪く言ったことがないのも良い。
「して、何用で?」
「先日、蔵書館の試験の際にちょっとした騒ぎがあったことはご存知で?」
問いかけると、刑部の表情が少しばかり曇った。
「はい。金橋殿が恥をかかされたと随分と荒れておりましてな。ここ数日は落ち着きましたが……」
「なるほど。蔵書館を目指すような柔弱が武師に恥をかかせたとあっては」
「あ、いやその」
否定は出来ないが、嘘も言えない。そんな様子の刑部に苦笑を漏らしつつ、彼方は近衛の状況に探りを入れてみる。
「下手人は割れましたか」
「いやあ、それが。氷の口示を使ったということなので北の出身らしいとは思うのですが、皆目」
「それは仕方ないでしょうな」
言ってはなんだが、武師団の市井での評判はあまり良くない。話題に上った金橋をはじめ、自分の武威を誇る者は得てして横柄になりがちだ。金橋義歳は気位の高いところはあるが近衛である自身に誇りを持っており、日々研鑽を欠かさないという美点もある。
このように深く付き合えば好人物も多いのだが、仰ぎ見るだけの民衆にはそこまで伝わることは少ないのも事実。近衛の鼻を明かした学士候補、というだけで庇う者は多いだろう。
「まあ、それは良いとして。せっかくですから北のお話を西谷殿に聞いてみたいと思いましてね」
「某の地元のことですか?」
「天津で尚武の気風と言えば、北と南でありましょう。事実、近衛にも北角島と大桜の出身者が数多くおります」
「それは……そうですな」
「さすがに西谷殿ほどの使い手はそう多くはありますまい。ですが北に隠れた英傑があるとすれば、名だけでも知っておきたいと思ったのですよ」
彼方の言に、刑部はふむと顎髭を撫でた。その様子に不機嫌さは見えない。
中央の貴族が故郷の人材に興味があるといえば、気分が良いものらしい。しばらく考えていたが、まとまったらしく口を開く。
「左様。某と同年代の者であれば、それこそ各家のご当主を除けば某に比する者があるとは申しませぬ。これでも西谷の家では武勢が落ちると随分と惜しまれましたのです」
「ほう! さすがは近衛の三大将の一翼」
「何を仰る。ですが、今の北はちょうど若者の活きがようございましてな」
北角島には、武門の大家が三家ある。
飛垣、丹川、氷雨。それぞれが周囲に分家を囲い、北角島の治安を守っている。
「南の丹川家は本家のご息女、絹どのと夢どのの姉妹でござろう。どちらかが年頃になれば皇都に出仕するとの噂がございます。近衛になれば、主上や姫君さまの護衛をすぐにでも務められると言われております」
「おお、それは凄い」
応じながら、内心でその二名については除外する。あの時に見かけたのは間違いなく男だった。口の滑りが良くなった刑部は、上機嫌に続ける。
「東の氷雨家は本家よりも分家ですな。紫凍家の長子である剛どのは、本家のご当主が節を曲げてでも養子に欲しいと願ったと聞きます」
「なるほど。余程の器量なのですね」
「紫凍家では残念ながら次子に恵まれず断ったといいますが、そういう意味では氷雨家ではちょっとした火種が燻っていると言えましょうな」
続けて除外。話を聞く限り、そんな人物が出仕のために北角島を出るとは思えない。
「そして某の実家である飛垣でござる。飛垣の分家は今がまさに人材の宝庫でございましてな。西谷の長子である慎右衛門は若い時分の某よりも器量に優れておりましょう」
「慎右衛門どのですか。会ってみたいものですな」
「そうでございましょう! まあ、それでも北原殿には負けますが」
「北原殿?」
「ええ。北原の四兄妹といえば北角島では知らぬ者がおらぬ英傑揃いでございます。慎右衛門も一人ひとりであれば十分に勝負になる器量ですが、それが四人……ああいや」
そこで刑部は言い淀んだ。可能性としてはその四人しかいないのだが、何か言いづらいことでもあるのだろうか。
「どうされましたか」
「左様、四兄妹のうち、三人であれば慎右衛門も負けていないと言えまする。ですが一人、あの家の三男だけは別格でございまして」
「ほう。名を伺っても?」
「北原飛垣の兵伍どの。細身の体に大牛を転がすほどの大力を秘め、その口示は幼くして玄妙の腕前。順当に腕を上げているとしたら、今の某でも勝てるかどうか」
「なんと」
驚いてみせながら――いや、実際に驚いたのだが――彼方は脳内の名簿で該当する名前に当たりをつけていた。北原兵伍。たしか軍記ものの知識については合格の域に達していたはずだ。他の知識が不足していたのも、北角島の武家出身と考えれば辻褄が合う。
「なるほど。他にはおられますかな?」
「いやあ、北原の兵伍どのの名を出してしまえばそれに続く名前など出せませぬな。うむ、思い返しても他には特に」
「ありがとうございます。良い話を聞けました」
軽く頭を下げてから、彼方は提げていた酒瓶を差し出した。
「そうだ、こちらを。北の良い地酒が入ったもので。『きら雪』とかいう酒なのですが、ご存知ですか?」
「おお、きら雪ですか! 北角島の名酒です。まさかこちらで手に入るとは! よろしいので?」
「ええ、お裾分けです。北の話を聞いてみたくなったのも、実はこちらが」
「手に入ったから、でしたか。なるほどなるほど」
「今宵は伺った北の英傑の話を肴に、北の酒を楽しませていただきます。本当は酌み交わしたかったのですが、お忙しいようでしたので」
嬉しそうに酒瓶を抱える刑部は、彼方の言葉を特に疑った様子はなかった。兵伍という人物と蔵書館の事件に繋がりがあるとは夢にも思っていないのだ。出来れば思い浮かべないままでいて欲しいところだ。
刑部の前から辞して、武窮館を後にする。後は北角島の状況を確認しなくてはならない。
話半分に聞いたとしても、刑部があそこまで言うほどの人物が北角島を出て皇都に来たのだ。北では何かしらの事件があったと見た方が良い。
北原兵伍が蔵書館に入りたがる理由が、妙な謀の類でなければ良いのだが。
どす黒い陰謀など、宮中だけでたくさんだ。