試験会場にて
「……終わった」
天井を仰ぎながら、兵伍は万感の思いを口に出した。
蔵書館の近くの建物を会場として行われた、登用試験。少しずつ受験者が退室していく中、満足感と喪失感の入り混じった不思議な感覚に身を任せる。同じように残っている者もいるが、果たして胸中は同じなのかどうか。
落ちたな、と素直に思う。
問われた内容については、当たり前だが全部回答出来たわけではなかった。故郷では書の量も質も、中央とは大きく違う。少なくとも、それが分かる程に自分の知識が不足していたのだ。この試験に参加した者は入念な準備を重ねて、人生を懸けてここに来ているのだ。半ば物見遊山の気分で受験している自分とは、現時点では間違いなく覚悟が違う。
取り敢えずは皇都で仕事をしながら、次の試験に備えるとしよう。皇都には蔵書館があるのだ。読むものと学ぶものには事欠かない。
荷物をまとめて、のんびりと会場を出る。請け負う仕事は何が良いかと考えながら廊下を歩く。力仕事であれば大体は何とかなるはずだ。
司書ではないにしても、どうにか蔵書館の下働きあたりとして潜り込むことも視野に入れるべきだろうか。
そんなことを考えながら席を立つ。と、表から何やら切羽詰まった喧騒が聞こえてきた。
***
「畜生! こんな試験はなくなっちまえ!」
ぶんぶんと両手を振り回して暴れているのは、痩せた長身の男だった。両手が火を纏っているせいで、周囲は遠巻きにはしているものの積極的に男を止めようとは出来ないでいるらしい。
無理もない。訓練を積んだ武師でもなければ、口示を使っている相手の制圧は容易ではない。たとえ相手がどれほど弱そうに見えようと、口示は容易に相手の命を奪いうる手段だ。
兵伍は人垣をするすると通り抜けると、騒ぎ立てる男に向かって歩を進める。
血走った目がこちらに向いたので、にこやかに右手を挙げる。
「やあ、どうしたね」
「五月蠅い!」
「あんたもここの試験を受けたのかい?」
「黙れ!」
残念ながら会話が出来る精神状態ではなさそうだ。このまま放置しては蔵書館に火を放つか、集まってきた武師団に討伐されてしまうかのどちらかだ。兵伍は男の動きを見切りつつ、手が届かないぎりぎりのところで足を止めた。
彼が本気で司書を目指していたのは、何となく分かる。だが、この場で誰かを傷つけてしまったりしては、周囲から介入する口実になってしまう。
おそらく本人は気づいていないが、周辺では既に口示を使っている特有の反応が感じられる。男の火が誰かに向けられた瞬間に、拘束あるいは処罰されるだろう。
まずは対話だ。男はまだ誰も傷つけてはいないのだから。
「まあ落ち着けよ。確かにこの試験は難しかったよな」
「俺は合格したはずだ! なのに連中は俺を落としたんだ! この試験はインチキだ!」
「そうか、凄いなあんた」
兵伍は素直にそう言った。何しろ試験は難しかったのだ。兵伍は自分が落ちただろうことは分かったが、果たして合格基準までどの程度の差があったのかなど、皆目見当もつかない。男は自分が合格しただろうと自信を持っている。相当の実力があると見て良い。だからこそ自分が落ちたことを受け入れられないのだ。
「馬鹿にしやがって……!」
「してないさ。俺は田舎者なんでね、今日初めて試験を受けたんだ。大層難しくて間違いなく落ちたと思っているよ」
「……あんた、落ちたのか」
「まず間違いなくね。やっぱり田舎だと書物の量も少ないんだなって実感したよ。次の試験までに金を稼ぎつつ学び直しをしなきゃならん」
「田舎はどこなんだ?」
「北角島」
「そりゃ、遠いな。家は武家か? 商家か?」
「武家だ。家出してきた。武家暮らしが性に合わなくてね」
「そうか。北のお武家か。そりゃ本は少ないよな……」
男は何やら気落ちした様子だった。兵伍の素性に何か感じるものでもあったのか、先ほどまでの勢いが失われている。あとは両手を焼いている火の口示さえ納めてくれれば。
と、ここに歓迎しがたい者が現れた。武師だ。武装した数人がこちらに向かって駆けてくる。誰かが通報したらしい。
「なんだ、まだ鎮圧されていないのか! まったく嘆かわしい」
「こ、近衛……? なんで」
分かりやすく華美な制服を着た一人が、そんな声を上げる。皇都を護る武師の中でも上位に位置することは、その制服から見て取れた。
「近くにいたんじゃないかな。取り敢えず火を納めた方がいい。もう暴れる気、ないんだろ?」
「あ、ああ」
男が兵伍の言葉に応じ、素直に口示を消す。良かったと思ったが、近衛の男は目ざとくその様子を見咎めた。
「おい、そこの! 火の口示を使って暴れていたのはお前か!」
「おっと」
出遅れた。周囲は巻き込まれたくないのだろう、遠巻きに近衛と兵伍たちを囲んでいる。このまま彼を引き渡してしまっても良いのだが。
引き渡してしまった後、彼がどういった罰を受けるのかを考えると少し構えてしまう。暴れてはいても、今のところ誰かを傷つけたわけでもない。二度と蔵書館の試験を受けられなくなってしまうとしたら、いささか哀れだ。
「逃げるか」
「えっ」
「ほら、走って」
痩せぎすの背中を軽く叩くと、体がぐらりと揺れた。
わたわたと走り出す背中に向けて、近衛の数人が手をかざす。口示だ。
「待て! 逃がすか!」
「おっと、それは良くない」
兵伍が自身の口示で地面に干渉すれば、地面から水晶と見紛うばかりの氷の壁がせり上がり、近衛の放った口示を弾く。
「何っ!?」
「しばらく放っておいたら溶けて消えるよ。それじゃ、失礼」
このままここにいたら、自身の仕事を邪魔したとして兵伍が捕まりかねない。お咎めを受けるのはともかく、近衛の中には兵伍の顔を知る者もいるのだ。なし崩しに武窮館に所属させられるのはご免だ。
近衛が回り込めないよう、氷の壁を残り三方にも展開して。兵伍もまたその場をそそくさと後にするのだった。こちらに向けられるいくつかの視線については、今は置いておくことにして。
***
「へえ、これは凄い。近衛の武師が集まっても壊せない氷壁とはね」
「また妙な者に興味を示すのですね、彼方」
試験会場は、蔵書館からよく見える位置にある。
蔵書館の二階にある居室から、一人の男が騒ぎの様子を眺めていた。隣には身形の良い女性が座っている。呆れた表情は口以上にまたかと言っているように見えた。
「そう仰いますな、叔母上。私の方は万年人手不足なのですから」
「あの者たちがそれに当たると? あの場所は何より人柄が重視されること、理解しているでしょう」
「二人とも必要だとは言いませんが。と言いますか、片方は奈在家の次男坊ですよ。たしか彼は前回の試験で合格にしたはずでは?」
「奈在の次男? 確か前回の次席合格でしたね。……ふむ」
女性が何やら手元の書類を漁り始める。彼方と呼ばれた男は、女性の様子に目を細めた。
武師ならば武窮館、書士ならば蔵書館。それは皇都に住む者ならば、誰もが夢見る立身出世の場所だ。だからこそ、それなりに不正の横行する下地がある。奈在家は学者を輩出する家としてはそこそこ有名だが、家格は中流。不正があっても泣き寝入りさせやすくあるのだ。
「特に入館を辞退したという履歴もありませんね。どうやら蔵書館も下らない不正が常態化しているようね……嘆かわしいこと」
「いかがします?」
「貴方に任せますよ、彼方。出来るだけ綺麗に収めなさい。まさか出来ないとは言わないでしょう?」
「お任せください、叔母上」
井筒彼方は慇懃に頭を下げた。