皇都には貴人がおわす
皇都。皇主の住まうこの場所に、街としての名はない。強いて言えば都だろうか。
口示の法をこの地にもたらした神々。その最高神の愛娘がこの国の最初の皇主であり、その子孫が代々の皇主を継ぐ。
皇主が国の主として在り続ける限り、口示の法は天津に住む者たちに与えられる。だからこそ皇主は偉大であるとされ、皇族は尊崇の対象となっていた。
口示の法は今も人々の生活の中心にある。だからだろうか。この国では皇主を後見する権勢を競っての内乱はあっても、皇主の座を狙おうとする者は出て来ていない。
「ここが都か。人が多いな」
「兵伍どの、ここまでお世話になりましたな」
「なにを仰る弓塚殿。こちらこそ随分と助けられた。感謝します」
北角島産の馬は高値で売れる。兵伍が路銀の足しにと馬を売りに出した相手は弓塚黄季と名乗る初老の商人であった。皇都と北方を繋ぐ街道沿いを活動の拠点とする行商人で、都に店も構えているという。
弓塚は皇都に向かう兵伍を用心棒として雇い、皇都までの同行を提案してくれた。取り扱う品を切らせたから、というのが弓塚の言い分だったが、それもまたこちらへの気遣いであることは兵伍にも分かっている。
丁重に礼を告げて、頭を下げた。
「よしてくだされ。北に名高い飛垣兵伍どのを護衛として連れ歩いた、その風聞だけで今後の仕事に繋がりますゆえ」
「それは何より。機会がありましたら、また」
「ええ、それはぜひ」
弓塚の商人としての打算は、兵伍にとってはそれなりに心地よいものだった。これまでの用心棒代ということで銀銭と設備の良い宿の情報を受け取り、別れる。
人の群れ。北角島は辺境といえど、それなりに人の数はある。しかし、これほどまでに多くの人間が、それぞれ違う目的で行き交うこの雑踏はこれまでに見たこともない。
「これが都かぁ」
先程と似たような言葉を漏らしながら、兵伍は都の中心部を目指すことにした。
力量に不足なくば、あとは情報の多寡が勝敗に直結する。そんな飛垣の家の考え方を、兵伍は疑ったことはない。そしてそれは戦時でも平時でも変わらないと常々思っている。
情報の価値を精査し、より巧く活用してくれる策士や知恵者が居ればもっと良いのだが、あいにくそういった伝手には乏しいのが分家というものだ。
興味深そうにあちこち眺めながら、ふらふらと歩く。
人は群れているが、すれ違えないという程ではない。なので、ぶつかってくるような手合いは余程急いでいるか、あるいは何かしらの意図があると見るべきで。
「痛ぇ!」
「感心しないな、こういうのは」
懐の財布を掏り取った手を掴んで、捻り上げる。
「な、何しやがる!」
「それはこっちが言いたいことだよ、おっさん」
痛みに悲鳴を上げているのは、兵伍の倍は生きていそうな年かさの小男だ。兵伍が掴んでいる男の手には先程まで懐にあった財布がしっかりと握られている。中々の手練だったが、北角島のスリと比べればあまりにも動きが粗雑だ。
「北角島のスリなら、いちいち相手にぶつかったりはしない。次があるならもう少し腕を上げるんだね」
「き、北角島ぁ!? あ、あんたまさか、北の蛮族……」
遠巻きに見ていた周囲が、ざわりと揺れた。
北の蛮族。本島に住む者たちが北角島の者を差別的に呼ぶ時、使われる言葉。南の大桜に住む者は北に対して南の化者と蔑称される。
兵伍にしてみれば、そのような呼び方をされたからといって、どうするということもない。だが、小男は顔色を変えて頭を下げてきた。
「だ、旦那ぁ。お、大目に見ちゃあくれませんかね? あっしもまさか、北のお武家様だとは気づかず」
「ふむ? 都では罪を犯したら私刑は許されないと聞いているがね」
「し、死刑!? そ、それだけはご勘弁を!」
「いや、だから官吏に突き出した方が良いのだろ? 俺がお前さんの腕を切り落とすとかではなく」
「ひぃっ!?」
何やら話が噛み合っていないようにも感じられるが、小男は真っ青な顔でぶるぶると震えるばかりだ。ちらりと周囲に視線をやるが、こちらを遠巻きにするばかりで誰も官吏を呼ぶような様子はない。向けられるのは小男への同情的な視線と、怯えたような目。なるほど、これが都というやつか。
兵伍は小男から財布を取り返すと、手を離してやった。
「ま、今回だけは許してやるさ。次はないと思いな。両腕、根元から無くすことになるぞ」
「ぜ、絶対にしやせんとも」
「どうだかな。じゃ、行け」
「ひっ、ひえぇぇっ」
転げるように走り去って行く小男を見送る。
どうやらこの土地では、スリへの嫌悪よりも北の蛮族への恐れの方が強いらしい。官吏が来たとしても、こちらの対応をやり過ぎと言われないとも限らない。
ひとまず財布は無事だったのだ。それで良いと思うことにする。
小男が去った方向とは別の方に行った方が良いだろう。兵伍は視線を巡らせ、別の路地の方に足を向けた。
人垣が割れる。兵伍はそれらを一瞥することもなく、町の中心に向かって歩き出すのだった。
***
あまり愉快でないことは頭から追い出して、兵伍は当面の宿に腰を落ち着けることにした。『こうがや』という宿で、外観は高級さを売りにしているようには見えないが、たたずまいに上品さを感じさせる。
内装も同様で、落ち着いて過ごすにはとても良い宿という印象だ。
「まあまあ、弓塚の旦那様のお知り合いで」
弓塚黄季は、やはり一廉の人物であったようだ。女将の対応がその名を出す前とがらりと変わったことからも、よく分かる。
「北のお武家様ですか。それでは都の武師様にお成りで?」
「いや、司書になりたいと思いましてね。試験はいつ頃になりますか」
「まあ、蔵書館の。そうですね、蔵書館は三月に一度は試験を行っておりますわね。武窮館は二月に一度なのですよ。やはり武師様はお辞めになる方も多いようで」
ぺらぺらと聞いていないことまで喋ってくる女将だが、情報はありがたい。三月に一度。蔵書館は収蔵されている書物の量が非常に多いと聞くが、三月に一度とは。
「蔵書館はそんなに書物が早く増えるのですか。それとも、そちらも辞める方が多いとか?」
「そうではないんですよ。試験があまりに難しすぎて、三月に一度でないと人数が取れないのだとか」
「はあ、それはそれは」
用立てられた部屋に荷物を下ろす。
中々に良い仕立ての宿だから盗まれることはあまり心配しなくても良いだろう。言っても、荷物の中に盗まれて困るようなものはないが。
「では次の蔵書館の試験は二月後くらいですか」
「いいええ。もうすぐですよ。お客様、ご運がよろしゅうございますね」
「そうですね」
女将の言に頷いてはみたが、実際のところそう幸運でもない。兵伍は試験の内容も知らないのだ。対策を打つことも出来ないことを考えると、まず合格はしないと考えておいた方が良い。
ふと、部屋から見える外を見る。都の景観。その視線の先にある、大きな建物。
都に来たからには、一度は詣でておく必要があるだろう。
***
皇都の中心。天寿殿と呼ばれる区画はかなり広い。
大いなる日神の愛娘、その直系である皇家と、その傍流であるいくつかの宮家。彼女らが暮らしているのが天寿殿という町なのである。
天寿殿に入ることを許されているのは貴族と、皇主一族を護るための近衛武師の者たちだけ。
武を志す者たちにとっての誉れは何か。そう問われればほとんどの者が近衛になること、そう断言するのは間違いない。
「でっけえなあ」
あまり近づくことなく、兵伍は天寿殿の外壁を見上げた。
壁の周りを、武師たちがゆっくりとした足取りで見回っている。その様子をぼんやりと見送りながら、そうなりたいか自分に問う。
まったくそそられないな、というのが結論だった。そういう意味でも、自分は武家の男として随分と違うのだと思う。
「おっと、いけない」
北角島の親類の中には、近衛に属する者もいる。顔を合わせないように気を付けないといけない。少なくとも、司書の試験を済ませるまでは。
見たいものは見た。あとは蔵書館だが、それは今日でなくても良いだろう。
試験の日程や細かい内容、調べなくてはならないことはたんとあるのだ。
兵伍はそう思い定めて、すっと踵を返した。
それに、蔵書館に行くのであれば身綺麗にしておきたい。北角島から着たきりの上下は、冬といっても都で着るには少し暑い。
弓塚から聞いた都の話は、まだまだ話半分にも至っていなかったのだなと思い知る兵伍である。