その名は兵伍
皇国北方、北角島。
皇国の歴史にある、七度の大陸からの侵攻。そのうち、三度目と五度目を受け止めたのがこの北角島である。南方の大桜と同じく武門の名族が名を連ねており、飛垣家もそのひとつ。北角島の北東を領する、武門の大家だ。
飛垣兵伍はその分家、北原飛垣家の三男坊という立場にある。幼い頃から武の才において名高く、同じく口示にも高い適性を見せた。武道・術道の腕前は周辺の他家にも響いており、長じて飛垣家の未来を担うと誰もが思っていた。
彼の代の本家当主が、相応の才知か器さえ持っていれば。
「兄上! 熊牛の群れです!」
「おう」
北角島の冬では、大陸から熊牛と呼ばれる大型の野牛が渡ってくる。海原に出来上がった流氷を使って、群れが移動してくるのだ。
この辺りの冬も厳しいが、大陸の北はもっと厳しい。食うものがなくなる前に、北角島にやってきて越冬する。北角島の民にとって、熊牛は貴重な食糧である。熊牛を自分の力で討てて一人前。そんな言葉もあるほどに。
はしゃぐ末の妹、詩の頭を撫でつけてから、兵伍は馬から降りた。群れをなして駆けてくる熊牛の先頭、群れの長に当たりをつける。
北角島で生まれ育ったのだろう、青く染まった角は口示を使える証だ。大陸生まれは人も動物も口示を使えるようにはならないが、天津皇国では人も動物も出自に関わらず一定の割合で口示の才能を持って生まれる。あの牛は大陸から渡ってきた群れが越冬の際にここで繁殖したうちの一頭ということだ。
熊牛。成獣は熊すらも突き殺すから熊牛と呼ばれる。氷を渡ってきた彼らは、北角島に来ると雪の薄い南の平原に向かう。その前にある程度間引いて、食糧にするのが飛垣の冬だ。
「さあ来い、大将」
群れが兵伍に気付いたようだ。先頭の数頭が鋭く鳴く。
群れが減速する。この島に住む人間が、群れの前にひとり立ちはだかるような人間が、普通ではないと彼らもまた知っているのだ。
群れが止まり、立派な青い角を持った熊牛が一頭だけゆっくりと向かってくる。兵伍は内心で、群れの主を青角と呼ぶことにした。
近づいてみれば、角が強い氷の力を持っているのが分かる。この角の口示の力で流氷を成長させ、他の群れに先んじてこちらに渡ってきたのだろう。
「賢いなあ、お前」
「ぶるる」
ずん、と頭を振り回して、角を突き込んでくる青角。受け止めれば掌が凍り、刺されば傷口が凍る、そんな意図を乗せて。
だが、委細気にせず兵伍は角を無造作に受け止めた。掴んで、地面に引き倒す。例年のことなので慣れたものだ。角を掴んだ手が無事なのを見て青角が驚くような鳴き声を上げた。氷の口示が発動しないことに驚いたのだろう。
「悪いな、俺の方がもっと強いんだ」
相手の氷の口示を、兵伍が自身の氷の口示で封じているのだ。
群れの長を討てば、熊牛の群れは四散する。恐ろしいのは群れが一丸となって向かってくることで、群れが散ってしまえばそれほどの脅威ではなくなる。
だが、熊牛の狩りにはもう一段上がある。口示を使える賢い長が相手の時に限るのだが、力の差を分からせることで向こうから譲歩を引き出すことが出来るのだ。
青角が諦めたように力を抜いた。やはり賢い。兵伍が角を掴んで立たせると、悲しげに甲高い声を上げた。
「ありがとよ」
五頭。周りと比べて痩せ気味の熊牛が前に出てくる。差し出されたのだ。老いた者か、あるいは弱い者。兵伍を始めとした飛垣の狩人に、群れを全滅させられないようにするための彼らの智慧。熊牛との力比べに勝てる武人を抱えているかどうかが、北門島の武家の力を表しているとも言えた。
青角から離れ、寄ってきた五頭の方に足を向ける。
出来るだけ苦しませないように、兵伍は腰に提げていた刀を抜いた。速やかに一頭目の目の間をするりと突くと、急所を突かれた牛は力なく地面に突っ伏す。
二頭目から五頭目までも同じようにして、刀を納める。苦しませずに殺すことと、群れが立ち去るまで解体は始めないこと。それもまた、飛垣の民と熊牛の群れとの間に出来た取り決めのようなものだ。
青角が鳴くと、こちらを避けるように群れが再び動き出した。
見送る兵伍の顔を、青角が一度だけ振り返った。
「じゃあな」
***
五頭の熊牛を携えて戻ってきた兵伍たちを、北原飛垣の民の多くが笑顔で迎える。
笑顔がないのは、要するに本家の若様に近しい者たちだ。本家の中にも分家に近しい者はいるし、逆もある。分家に力量のある者が生まれると、こういったところで奇妙な緊張感が生まれるものらしい。
分家の三男という立場も微妙なのだ。分家当主でもその保険でもないから、自由な立場というのが変に危機感をあおる。兵伍を本家の養子に、という話を出す者もいる。
とはいえ、兵伍に野心はない。兄二人が治める分家の領地で、時折頼まれた狩りをこなしつつ、手の空いた時には好きな書物を読みふける。それだけで十分に幸せで、特に分を超えた望みなど持ってはいなかった。
「兄さま、御飯ですよ! また書物ですか?」
「うん。これは軍記もの。目の付け所が面白いんだ」
「ほへえ」
読書などに興味を持つのは、北角島の武門ではあまり推奨されていない。そんなことをする暇があったら体を鍛えろという考えだからだ。
実際のところ、家族の中で兵伍以外に読書を趣味として楽しむ者もない。当主である父と、次期当主である兄は教養の一環として読むが、それだけだ。兵伍の武名が高くなければ、嫌味を言われるどころでは済まなかっただろう。家族はむしろ「うちの子が兵伍さまのようになるためには書物を読んだ方が良いのでは」と相談されて困っているとかいないとか。
乱読の気のある兵伍だが、そんな家人の手前もあって、兵法書や軍記ものを読むことが多い。詩は活字があまり好きではないと見えて、何を読んでいるかと伝えてもあまり大した反応はない。
「では、行くかね」
栞を挟んだ書物を机に置いて、体を起こす。兵伍は身長が高い。額を打たないように頭を軽く傾げて自室を出る。
身長が高く、細身。そのせいか、奇妙にひょろりとした印象を与える。父や二人の兄のように丸太のような腕や足をしているわけでもないのに、その大力は父や兄にも優る。飛垣兵伍は、とかく武門の家では評価しにくい人物であった。
「おう、兵伍。よくやった」
「ありがとうございます、父上」
熊牛の群れは、青角のものだけではない。いくつもの群れが、時を分けて渡ってくる。当然、渡ってくるのが早ければ早いほど良い餌場を確保できる。口示を使えない大陸生まれの長が率いる群れなどは、力比べが発生しないので早々に長を狩られて群れを散らすことになる。散った熊牛は先着している群れに入ったり、途中で狩られてしまったり、あるいは自分が新たな長として群れを統率したりと色々だ。
青角は口示を使えるからだろうか、例年の他の群れと比べても明らかに早く北角島へと渡ってきた。北角島でも仲間を狩られないという絶対の自信があったはずだ。
長との力比べというものは、大陸では発生しない、この島だけに存在する人と熊牛との文化である。群れの長は、自分を負かせた人間の強さに応じて差し出す仲間の数を決める。五頭を差し出したということは、それだけ兵伍の腕前を高く評価したと言えるだろう。
「今日の群れは、どうだった」
「青い角の長でした。口示を使いますので、素通しにする家もあるのでは」
「そうか。……二頭ほど、ご本家にお譲りするかの」
「それが良いかと」
父の言葉に、兵伍は特に反感を示さなかった。しばらくすれば次の熊牛が来るし、食い物が足りなくなったら、山に入って鹿でも追えば良い。
武功ばかりが人生ではないのだ。熊牛の数が五頭だろうが三頭だろうが、兵伍にはあまり興味がない。
素知らぬ顔で座っている兵伍の顔をまじまじと見て、父が苦笑いを浮かべた。
「お前がそんなだから、ご本家の若君に疎まれるのよ」
「そう言われましても」
兵伍にしてみれば、気をつけているつもりなのだ。趣味の読書だって、最初は柔弱な面でも見せればご本家も安堵するだろうと思って始めたものだ。今では本末が裏返って、読書こそが人生の糧になってしまっているけれど。
外からは騒がしく声が聞こえてくる。肉の塩漬け作業が始まっているようだ。塩を振っていない肉を焼いて食えるのは、次の群れが来るまではあと二日ほどだろう。
心臓を食べられるのは、当主一家と群れの長に勝った者だけの特権だ。北原飛垣家では兵伍が群れの長を倒す役なので、自然と心臓は当主一家だけの食糧となる。
「何をどうしてもあの莫迦様は兵伍を敵視しますよ父上。なんせ莫迦なんですから」
「彦壱、外では絶対に言うなよ」
「もちろん。とはいえ、このままにしても良いことはありませんが?」
「分かっとる」
薄く削いだ肉を焼け石に置いて熱し、軽く塩を振って頬張る。
父と長兄の会話には加わらず歯ごたえと味わいに目を細めていると、次兄の耕佐が軽く噴き出した。
「駄目だあ、親父。兵伍にとっちゃ他人事だぜ」
「少しは知恵出せ、兵伍。お前、若様の代になったら潰されるぞ」
そんなことを言われても困る。
大体、敵視してくるのは向こうで、こちらは特に何もしていないのだ。
一番簡単なのは、どちらかが相手から離れること。何度か出た意見ではあるが、そう言えば兵伍から言ったことはなかった。
「何度か出た話ですが、俺がどこぞに出仕するのが楽なのでは。もしも戦が起きれば戻ってきますし、それなら問題はないでしょう」
「そうなのだがな……。となると、熊牛とかの狩りは耕佐の仕事になるか」
「げっ」
音に聞こえた三男坊と比較される。耕佐が名指しされたのも、後継である彦壱の名が廃らぬようにという配慮だ。
耕佐が要らないことを言ったと顔を歪める横で、彦壱が首を傾げる。
「とはいえ、どこに出仕させます? 滅多な家ではうちの家名にも関わりますし、最低でも島からは出さないといけませんし」
北角島と大桜は大陸との最接近領であるから、どちらも尚武の気風が根強い。
とはいえ、大桜などに出したら周囲の家から袋叩きにされるから論外だ。南北同格の土地だからこそ、根底には強い競争意識がある。
一方で、それ以外の土地ではおそらく兵伍を持て余す。
思ったよりうまく行きそうだ。兵伍は内心を隠して、場所の名を挙げる。
「皇都はどうでしょう」
「まあ、それしかないか。西谷殿の三弟も皇都にいるが、果たして縁故が通じるかどうか」
「落ちれば莫迦様も満足しましょうよ」
「……それもそうか」
皇都で面目を落とせば、本家の跡取りは兵伍を存分に嘲ることが出来る。そうすれば少しは風当たりも弱まるかもしれない。西谷というのは北原同様分家のひとつで、北角島の西側にある名家だ。
馳走を口に運びながら、今年の冬が明けたら皇都に出仕するかと話がまとまる。
おおむね全員の顔が晴れやかなものになった。
「来年は俺が熊牛の担当かあ。今から鍛え直さないとな……」
「耕の兄上なら大丈夫でしょう」
「お前と比較されるんだぞ。大丈夫なわけなかろうが」
若干一名を除いて。
***
「すまん、向こうに着いたら連絡入れるわ!」
「おう、急げ! 馬は戻さんでいいから、どこぞで売るなりしろよ」
事態が急変したのは二日後だった。
兵伍は荷物らしい荷物も持たず、用立てられた馬に飛び乗る。
「はいやっ!」
何もかもが裏目に出た。父が本家に贈った二頭の熊牛に、本家の莫迦様が過剰に反応したのだ。「兵伍に出来たことで儂に出来ぬことなどない」と青角に挑んだものの、氷の角に手を凍らされるわ、腹を突かれて重傷を負うわで大変な騒ぎとなったのだ。
一応青角も力比べと分かっていたのでトドメは刺さずに去って行ったのだが、譲歩などしてもらえるはずもなく。
自業自得とはいえ面目が潰れてしまった莫迦様だったが、臥せった床で懲りずに逆恨みを募らせているようで。
春まで待つのも危ないと、兵伍はその話を聞いた時点で家を出ることに決めたのだった。
「さて、皇都はどんなところかな」
馬を走らせながら、兵伍はふふと口許を緩めた。
家族に別れらしい別れを告げることも出来なかったが、武門に生まれた者は家を一歩出た時点で毎度家族と別れを済ませているものだ。それにこれが今生の別れというほどのこともない。
そして、兵伍は馬上で心を躍らせていた。
皇都には蔵書館なる建物があるという。あちらであれば武門らしさなど気にせず、物語やら随筆やら、好きなものをなんでも読めるというもの。
「そうだ、蔵書館に出仕するというのも良い」
今まで培ってきた武の腕前を皇都で役立てるつもりは毛頭ない。
広い平野を馬で駆けながら、兵伍はこの先にある皇都での暮らしに思いを馳せるのだった。