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三年前、三十になったことをきっかけに、勤めていた出版社を辞め、フリーのジャーナリストになった。誰の指図も受けずに好きにものが書けると意気込んでいたが、蓋を開けてみれば、生活のために書きたくもないことを書かざるを得ないというのが現実だった。
書きたいこと。社会の闇を暴く、世の不条理を正す。新聞でいえば社会面に取り上げられるような内容、事柄。
2hilの記事を書いた明神智則とはどういう人物だろう。
年はいくつぐらいだろうか。まさか二十代前半ではないだろう。新入社員にいきなり特集記事を書かせたりはしないだろうから。いや、わからない。2hilは若者の支持を受けている。敢えて若い社員に記事を書かせた可能性もある。三年前で二十四、五だとすれば今は二十七、八、三十前か。
逆に、四十、五十代の可能性はどうだろう。外見の若作りもそうだが、文章でも若作りをしていないか。
家族は、結婚はしているのか、それとも独身か。2hilの復活劇に対して腹立たしさを覚えているような筆運びから、家族や親しい人に2hilの後追いをした人間がいるとみているが、娘か恋人といったところか。
外見はどうだ。太っているのか、痩せているのか。背は高いか、低いか。どんな面構えだ。優男か、はたはた強面か。
考えれば考えるほど、虚しさが募った。
古館佳彦という男は三十三歳、独身、芸能ゴシップを追いかけるフリーのジャーナリスト。食えていないのにどういうわけだか太り気味、彫は深いが顔のパーツの一つ一つが大振りなせいで「なまはげ」の異名を持ち、女にもてたためしがない。正義感溢れる好青年と勝手に想像した明神智則の姿とあまりにもかけ離れている。
大手新聞社という盤石な後ろ盾のある新聞記者という立場。明神智則は守られている。安定した収入は家庭を持つことを可能にするし、会社で行われる健康診断によって体調管理もしてもらえる。明神智則は、生きるためにあくせくせずに物を書ける環境に身をおいている。明日の生きる糧を心配せずに大手を振ってペンの剣を振るうことができる。
ペンの剣を振るう、それこそが古館が目指した場所だ。ペンの剣をまるで打ち出の小槌のように振るいながら、落ちてくる金で生活する。古館が望んで手に入れられていない生活を、明神智則という男は送っている。
嫉妬するとは、みっともない。
古館は記事を開いていたブラウザを閉じた。
仕事机兼食卓の小さなテーブルには公共料金の払込用紙がいくつも重なっている。どこかに社会保険料の用紙もあるだろう。フリーランスになってからは払っていない。
腹が鳴ったので、台所へと立った。
シンクには空になったコンビニ弁当のプラスチック容器が押し込まれている。次のゴミの日はいつだと考えながら、水道の蛇口をひねり、ポットに水を注いだ。ポットの湯が沸くのを待つ間、買い置きのカップ麺のプラスチック包装を引き剝いだ。ゴミはシンクに放り投げる。
沸いた湯を注ぎ、カップ麺が出来上がるのを待つ。箸がないと気付き、コンビニ弁当のゴミの間から割りばしを引き抜いた。いつ使った代物かわからないが、使ったのは自分だから構わないだろう。
熱々の麺をすすりながら、古館は考え事をしていた。
2hilの復活劇はマスコミを賑わせている。三年前、2hilの正体を暴こうとしていた取材を中止した理由は、2hilが死んだからだった。その2hilが「生き返った」。ならば、その正体を暴く記事の価値も復活していいはずだ。
いや、むしろその価値は三年前よりも何倍にも跳ね上がっているはずだ。なにしろ2hilは「よみがえった」と主張している。死んだ人間は生き返らない。「よみがえった」と主張する2hilは何者か。
面白いことになったと、古館は濃い味のスープを一気に飲み干した。
2hilを追う。
古館は、空になったカップ麺の容器に割りばしを放り入れた。
一発逆転、スリーポイントシュートだ。