束の間の平和
2週間後、期末試験を終え、岳斗たちは夏休みを迎えた。 一学期最後の授業を終えた岳斗は一旦家に向かって、剣道の道場に着いた。
道場では、大学生くらいの年である五人ほど練習に来ていて、素振りをしている。 その練習生たちに素振りの手本を見せている男は長岡タクマで、この道場の実力者の先輩だ。 初老を迎えたばかりで、もみあげから顎を埋め尽くす濃い髭を生やしていた。
「タクマさん、こんにちは。 元気っすね」
「岳斗か 試験お疲れ様、一週間ぶりに稽古つけるか。 おい、てめえら休憩だ!」
「おっす!」
「ええ、お願いします。 今日こそあんたに勝つっす」
「ガハハハっ それでこそ俺の弟弟子だ。 一本勝負でいいな?」
「はいっ」
剣道の道場着に着替えた後、タクマと岳斗は互いに構えあって、試合を開始した。 互いの掛け声が道場内に響き渡ると同時にタクマが勢いよく駆け込んで、振り上げた剣を岳斗の面に叩き込む。
「とおっ!」
「つぅっ!」素早い反射神経でタクマの上段斬りを受け止め、岳斗から見て左下に受け流した。
反撃に、タクマの剣が元の位置に戻る前に右手に手打ちした。
「えい!」
しかし、タクマは素早いステップで左に下がって、岳斗に向き直った。
「ぬっ! 甘いぜ」
「くっ………… 速いっ!!」
岳斗とタクマの一進一退の流れに練習生たちはただただ目を見開くばかりだった。
「すごい! 2人とも引けをとってねえぞ!」
「おいおい、こりゃ、岳斗が勝つのか?」
「なにばかなこといってるんだ。 タクマさんが負けるわけねえだろ!」
「わあわあガヤガヤ」
今度は岳斗から仕掛けた。 一歩踏み込んで、正面から面に叩き下ろす。
「うらぁ!」
道場に響き渡る岳斗の気合い声……竹刀同士がぶつかり合ったが、タクマは余裕で受け止めた。
「どうした? それで全力か?」
「ぬぬぬぬっ……!!」
歯を噛み締めて、力任せに押し切ろうとした岳斗だった。
「ぬらあっ!!」タクマが岳斗の竹刀を跳ね返した。
「ッ!!」
隙が生じた岳斗の面に竹刀を叩き込もうとする。
「ぬんっ! そこだあ!」
「ふっ! 見えてるぜ!」
負けずにタクマの竹刀を鍔で受け止めて、面に叩き返そうとする。 しかし、日頃の鍛錬で丸太のように太い彼の脚のパワーに押されて、岳斗の体の体勢が僅かに崩れた。
「なっ!! 馬鹿力……」
「遅え! デェリアアーっ!」
岳斗の一瞬の隙をついて、胴に叩き込んだ。 防具の衝撃音が岳斗の脇腹を抉るように震えた。 岳斗はあまりの衝撃に思わず息に近い声を出した。
「っ! うおっ。 参りましたっ!」
岳斗とタクマは試合終了時の儀礼である蹲踞そんきょして納刀し、立ち上がり、互いに礼を行った。 いつも通りとはいえ、2人の鬼気迫る試合に練習生たちは何かを言わずにはいられなかった。
「おいおいおい あまりの迫力に言葉でねーよ」
「そうだな」
「おれら あんなに強くなれんのか?」
「岳斗はあの若さで大したもんだ」
面と頭に巻いている白布を外して、タオルで汗を拭いたタクマは目を閉じて言った。
「ふー。 なかなかいい筋行ってんなあ。 こりゃ俺もウカウカしてられん」
そこに着物を着た上品なお婆さんが道場の奥の戸を引いて現れた。 彼女はおひさ。 岳斗の祖母であり、タクマが下宿してる家の主である。
「みんな頑張ってるねえ。 饅頭と麦茶用意したよ」
おひさが持っている赤いお盆に乗っている数十個の饅頭には、初雪のように白砂糖がふっくら饅頭の上に散らばっていた。 それは練習で汗を流した岳斗たちにはこれ以上ないご褒美だった。
「おひささん!! ゴチになりまーすっ!」練習生が目を輝かせて、一斉に駆け寄った。
「おお ヒサさん! ご馳走になるぜ」タクマもひとつ手に取った。
「おや 岳斗。 あんた、また強くなったなあ」
「ばーちゃん、あんがとな。 でも、タクマさんにはまだ勝てないなあ」
「そりゃそうだ。 この俺に勝つにゃ100年はえ〜んだよ」饅頭を半分口に入れながらしゃべった。
「さっきウカウカしてられんと言ったのはどこのどいつですか?」
「バカヤロー ありゃ言葉のあやだ。 おお、この味は餡子だ。 ダハハハハ、うめえぜ!」断面の餡子を見ながら、豪快に笑った。
午後五時過ぎ、修行を終えた岳斗は家に帰る途中で、とある店に寄った。
そこは猫カフェで、店名は「春の日だまり」と書かれていて、横に青黒い猫が描かれていた。 岳斗が店に入ると、奥に炊き上がったばかりのいい香りがするコーヒーを淹れているおじさまがいた。 彼は岳斗行きつけのカフェの店主の船橋英一郎で、白髪が混ざった立派な顎鬚を蓄えている。
「おお 1週間ぶりじゃないか? 岳斗君」
「ええ お邪魔しますよ」
英一郎は岳斗の来訪に喜び、微笑みを作った。
「来てくれて嬉しいよ。 わたしの可愛い子たちも君を待ち焦がれていたのだよ。 ふふふ」
ふと、天井ほどの高さで5段あるキャットタワーの最上層から猫の鳴き声がした。 岳斗は猫たちが喋っていることをなんとなく理解している。 岳斗が見るとそこにはロシアンプルーの青猫が座って、見下ろしていた。 彼は日向だ。
「ミャオーん にゃ、にゃお (待ち焦がれていたのはあんたのほうだろ? 久しぶりだな、岳斗)」
今度はカウンターの向かい側の赤黒革仕様ソファから杏が岳斗に声をかけた。 彼女はアメリカンショートヘアの金眼白猫だ。
「にゃ! ナァーン(あー 岳斗君だっ! おひさー)」
「にゃあーん ミャオ、ミャー(おーい がっちゃん。 チュールちょーだいよー)」
杏の近くのテーブルの下で横になっていたふっくらボティの黄色い猫が岳斗の胸に飛び込んで、頬を擦り寄せている。 彼女はきなこで、猫種はラクドールである。 岳斗はきなこを両腕で抱き直して言った。
「きなこよ、いくらなんでも食いすぎだろ。 また重くなったぜ」
「んにゃ ミャ、ミャン(なによ。 レディーにそんなこと言うもんじゃないわよ)」
岳斗に歩いてきて、きなこに軽口を叩いたこの茶トラは虎次郎だ。
「にゃにゃ、んなーん、にゃおーん(ダハハハ 岳斗はんはそんなこと気にするたまじゃないねん。それにオメー、なんやえらい丸くなっとるの。ボーリングできそうやな)」
きなこの耳がイカ耳になって、岳斗の胸から虎次郎の前に着地した。
「にゃ…………シャアーーッ! (言ったわね…………? じゃあ貴方に転がってやるわ!)」
きなこは軽口言った虎次郎に勢いよく転がって、ストライーーーク!
「ヒャアーーン!(どわぁーーー!)」アホ虎は勢いよく吹っ飛ばされた。
「やれやれ、相変わらずにぎやかな奴らだぜ」
元気な子たちに呆れながらも心安らかな岳斗に青目のシャム猫がコーヒーを淹れたことを知らせてくれた。
「にゃおん ミャ、ナーン(岳斗君、こんちわ。 マスターがコーヒー淹れてくれたよ)」
「おお、カイト サンキュー」
岳斗はそう言って、カイトを撫でながらカウンター席に座る。 英一郎からコーヒーとお菓子が岳斗の前に置かれた。
「本日のコーヒーはブルーマウンテンだ。そんで、デザートは岳斗君の母さんの牛から絞った牛乳のクリームを包んだロールケーキだよ」
英一郎が手間をかけて研いでくれたコーヒーからジャマイカの畑と向こうに太陽を受けて輝いている緑豊かな山が脳内に溢れてくる。
「おお ありがてぇっす いただきます」
コーヒーを嗅いで、ゆっくり飲み始めた。 味を堪能して、幸せの息を吐いた。
「いやあ……コーヒーもなかなか奥深くまで染み渡るな」
コーヒーカップを皿の上に置いて、ロールケーキを口に頬張った。
「おお……! ロールケーキもしつこくない甘味だが、それでいて、濃厚だ」
「いやあ、相変わらず舌が肥えてるね。 さすが常連だ」
しばらくして、優雅な食事を終えた岳斗は立ち上がって、日向のいる奥のキャットタワーに歩いて行った。
「さて、食い終わったぜ。 日向 遊ぶか?」
「……んにゃ(……ふん、仕方ねーな)」
そう言って、キャットタワーから華麗にまいおりた日向は岳斗がボールを投げるのを取るのを準備していた。
「ほれっ」
「んにゃ」
高くジャンプして、口でうまく捉えた。 そして、首を回して投げ返した。
「にゃっ(ほれ、もう1回だ)」
「あいよ」
猫たちとの話や戯れを楽しんだ後、岳斗は店を出て、沈みゆく夕日を眺めて、帰った。
家に着いた時、牛小屋から1人の女の人が出てきた。 彼女は如月るり子。 2年半前くらいから邦子に連れられてきて、北海道にやってきた。 そして、住み込みで邦子の仕事を手伝っている。
「あっ 岳斗君、おかえり。 試験お疲れ様ー。 お母さんが仲良い農家から野菜もらってきて、きょうの料理にするって」
「へえ なにを作るんだろうな」
「材料からして、多分鍋だと思うけど。 美味しそうだよねー」
「そうだな 母ちゃんの料理はいつもうまい」
食卓に集まった四人はいただきますして、鍋をつつき合っていた。
「いやあ 夏に食う鍋もなかなか悪かねえな。 冷たいビールによく合う」
「肉の量、脂もなお良しやな」
「ほんとうまい。 幸せ〜」
「あらあら、気に入ってくれたわね。 北海道の野菜ってやっぱり、いいわ」
鍋を食べ終わり、片付けも終わった後、岳斗はさくらを膝に乗せて、るり子とFPSシューディングゲームをしていた。
「が 岳斗君っ ヘリからRPG撃ってきたよー やばいやばい!」
「落ち着け RPGを向けてきた時が奴らの最期だぜ」
RPGを男が向けると、岳斗はクレバーにスナイパーで奴の頭をうまく射抜いた。
「わあ! やったあ こっちもRPG拾ってきたよ 反撃じゃー」
るり子は姿勢が崩れたヘリに手榴弾を放った。 哀れなヘリは爆発で空中分解して、ビルの下に落ちたようだ。 隣のビルの人質を救助して、ゲームクリア。
「あー、やったあ! どうなることかと思った」
「いやあ、面白いもんだなあ。 『戦争クソ野郎のギフト 涙と血と汗の宝石を取り戻せ』ってゲーム、最初はクソゲーの匂いがプンプンしてたのにな」
「何事も見かけによらないわけだね。 あ、もう10:30だ。 おやすみなさい」
「おやすみ、るり子」
数日後、岳斗は家で友2人とクトゥルフ神話TRPGをやっていた。 キーパーは大抵岳斗がやる。 3日に渡って繰り広げられた『ドラゴンズ&ダンジョン』のシナリオを終え、余韻が残ったまま、別腹の短編ホラーシナリオをやっているところである。十次郎は「狩野正男」、新吾は「南奈恵」の探索者を請け負っていた。
岳斗が淡々とストーリーの中の説明をしていた。
「朝起きたら、君らは6間のコンクリートの部屋に閉じ込められていた。 しばらくすると、壁から何かの気体が噴射するような音が聞こえるだろう。
アナウンスが聞こえてきた。
『貴様らには目障りだった。 いま、この部屋に毒ガスが注入されている。 貴様らの命はもって10分だ。 ぜいぜい口から泡を吹き出して、苦しみながら死んでゆくが良い ふふふふふ』
そう言ったきり、なにも喋らなくなった。 さて、君らはどうする?」
「keeper、質問だ。 この部屋には何があるんだ?」
「君らが通ってきたノブ付き鍵付きのドアと何個かの椅子と1つのテーブル、一枚の大きい透明ガラスの窓。 そして、奥に一際存在感を放つ暖炉があった」
「じゃあ 椅子をガラスに投げるぜ」
「おーけー じゃあ椅子を持ち上げられるか筋力抵抗だ。 STR7だから、成功率は40%か」
「そんな重たいのか?」
「鉄で作られているからな。 新吾 1D100で振ってみろ」
「コロコロ 37成功だ!」
「じゃあ 君は重い椅子をなんとか持ち上げることができた。 投げるなら、投擲36%だな」
「それを見た正男は投げるのを手伝おうとするぞ」
「分かった じゃあ70%で成功でいいよ」
「頼むぜー コロコロ 24よっしゃ 成功だ」
「じゃあ、君らは普段からの仲良いコンビネーションで椅子をガラスに投げることに成功した。 だが、ガラスは割れるどころか傷すらつかなかった」
「ええっ! やべーやん」
「ここで毒ガスが効いてきたみたいだね。 CONロール 2人とも振ってみろ」
「コロコロ 63失敗だっ!」
「37成功だ」
「じゃあ 奈恵は毒ガスの影響で痺れて、体が動かなくなってしまうが、正男は平気だった」
「奈恵っ! まずい……そうだ! 暖炉は煙突につながっているはず。 奈恵を抱えて逃げるぞ。 keeper、奈恵を抱えて、暖炉をくぐって煙突から逃げる!」
「よし、いいだろう。 STR対抗と登攀に成功したら逃げられるってことでいいぞ。 正男のSTRと奈恵のSIZから、成功率は65%そして、登攀は80%だ」
「頼むぜ、女神様~。 コロコロ36、72! やったぜ」
「ならば、君たちは見事、煙突から逃げられた。 そして、大きな山を見る事ができる。 しかし、地鳴りとともにその山が突然動いたように見えた」
「一体どういうことだ? 山が動くなんて」
そこで、岳斗がモンスターを召喚しようとする怪しい魔術師のような微笑みを浮かべた。
「あなたたちはすぐその山の正体がわかってしまった。 それは口からタコのような触角をぶら下げて、手に細長い爪を持っている。 体の色は緑色で、表面が嫌悪感を抱かせるほどのヌメヌメした体液が漂っていた。 しかしながら、なぜか見るものを狂気に陥れるその邪悪な雰囲気は人間の世界のどんな言葉でも語れないだろう。
さあ お待ちかねのSANチェックだ! 1D100!」
「ぎょえーーーーーーーー」
「どわーーーーーーーーー」
岳斗はキーパーとしての仕事を終え、2人と別れた。 ゲームの後片付けを終わらせ、横になった。
「ここんとこ平和だな。 あの戦いが夢かのようだ」
その日は何事もなく、本当に平和だった。