影
暗がりの中で、ぼんやりと街灯の明かりが照っている。遠くからは時折列車の走る音が聞こえるのみで、静寂に包まれていた。
アスファルトで舗装されているとはいえ、雰囲気は大昔の畦道のようだ。雲で月が隠れかかり、やや離れた間隔の街灯に行先を託すしかなかった。ふと先を見やると、少し先から歩いてくる人影があった。
こんな夜更けに、しかもこんな田舎で人とすれ違うことなどあるだろうか、と少し疑いながらも歩みを進めた。一歩一歩進むにつれて近づく影を見ながら、ある疑問が浮かんだ。そう、一向にその人影が黒色から変わらないのだ。数本の街灯の下を歩いてもなお、その影は黒から変わることはなかった。
少しすると、雲が晴れて月明かりが差した。これほど暗かった道の向こうまで見渡せるほどの月明かりなら、影をも照らすはずと思い、向こうから歩いてくる影の方を見た。もうかなり近くまで来ているはずである。しかし、影の方に目をやると確かにいた影が消えていた。あるのは畦道に等間隔で置かれた街灯と、かすかに見える山影のみであった。
そうこうしているうちに、曲がり角まで来ていた。あと数分歩けば我が家がある。安心して歩みを進めていくと、ふと祖母との記憶が蘇ってきた。
「夜に街灯の灯りを信じちゃいけないよ。ジンジャー男が憑くからねぇ」
嗄れた声が余計に幼心に恐怖心を煽る。
「ジンジャー男ってなぁに?」
「この辺りでずぅっと昔から言われてる妖怪とも幽霊とも言えないヤツのことだよ。噂じゃあジンジャー男が憑くと知らないものが見えるらしい。そしてたちまちに影が取られて気づいた時には遠い国に行っちまうんだと。」
外はヒグラシの声が響き、風が微かに稲穂の香りを運んでいた。
もう夕暮れ時である。夜の影が忍び寄ってくる心地が、薄気味悪くもあった。
そんな記憶を思い起こしているうちに、家に着いた。家は明るく、外の闇が嘘のようであった。
風呂に入り、早めに床に就くと再び「ジンジャー男」の事が思い起こされた。まるで無限に広がるかのように、ジンジャー男の正体への好奇心とも恐怖心とも言える一種の感覚が眠りを妨げた。部屋には時計の針が時を刻む音だけが響いていた。その音はやがて、畦道の影が歩いてくる足音のように聞こえてきた。
怖くなって布団を被り、真夏の暑さをもいとわずにうずくまりながら眠りについた。
街灯に虫が群がっている。どこから来て、どこへ去っていくのか分からぬ虫たちは、この下を通る全てのものを見通しているらしかった。
或るやけに胸騒ぎのする夜に、下を通る影があった。それは、人影のようで、どこか人の纏っているものとは違うものを纏っていた。俯いているのか、どちらを向いているのか、それすらも分からぬほどの闇は、見るもの全てを取り込むようであった。かすかに透けているように見えるのは、恐らく目の錯覚であろうか。目の前で起こっている常識ならざる出来事も、虫からすれば拘泥することではないらしかった。そうしているうちに、月明かりが差してきて、みるみると影は消え失せていった。残っていたのは微かな土の香りのみであった。
やがて朝になると、いつもよりも身体が重い心地がしながら目覚めた。例のジンジャー男の正体を思う余りに夜更けまで寝付けなかったからであろう。まだ外は夏の日差しである。とはいえ、田舎の数少ない長所の水辺が多いという点で風は心地よかった。昨晩の薄気味悪い畦道も、どこか爽やかな心地であった。風の運ぶ木々の香りは、なおさら心を落ち着けさせた。
そうこうしているうちに、ひとつの疑問がポツリと浮かんだ。はて、あの影は月明かりで消えたのだろうか。それとも、明かりで透けたに過ぎず、月明かりが差していようと、昼であろうと不気味な雰囲気を纏って歩いているのだろうか。
その疑問は、長くはもたなかった。再び遠い昔の記憶がふと蘇ったのである。
身体が熱く、重い。息も荒く、胸が大きく上下している。ジリジリとストーブの音が部屋に響き、微かに卵がゆの重い香りが漂ってきていた。粥が嫌いな性分だからか、余計に身体は熱を帯びているような心地である。
薄目を開けると、傘を被ったような灯りが見える。
やがてその灯りにぼんやりと頭の中で顔をつけてみる。どうやら電球の黒点が目や口に見立てられるようであった。だが黒点などに気を留めている余裕は無くなってきた。次第に異常なまでに氷水が飲みたくなったのである。大声を張って要求すると、冬であるから氷はないと返ってきた。ふと我に返って、窓の外を見た。氷はなくとも、外は雪が重たい様子で降りしきっている。
ふと思い立って、少々薄着なのも知らんぷりしながら窓を開けた。窓を開けるのと同時くらいで口も大きく開いていた。少し上を向くと、冷たい雪が口の中に冷や水となって広がる。その感覚がとても心地よかった。やがて首が痛覚を帯びてビリリとなってきた。そろそろ仕舞いにしようと窓を閉じようとすると、ぽやり街灯が雪の隙間から覗いていた。まるで、白く染った世界に一点の色を差すような景色であったが、重く降っていた雪が粉雪と化したこともあり、その色はぼやけていた。だが、しばらく見ていると少し先の街灯まで見えてきた。
熱を出している時には、大抵が妄想を膨らませるか、薄目から見える光で遊ぶことに時間を割いていた。その中で遠くの街灯がどれほど見えるかという好奇心は、またとない遊興であった。
ひとつ、ふたつ、みっつ…いつしか声を出して何本見えるか数え始めた。気づけば、雪が部屋に入り、わずかに床が変色していた。またとない遊興も、永く続けば退屈である。次第に飽きてきたと見えて、数えるのをやめ、景色を眺めていた。辺り一面の雪と、ぼんやり照っている街灯以外に視界に入るものは無い。むしろそれが、この現象下においては、当然のことであった。
少し経っただろうか。他に何かしようにも、することがなく外を眺めていると、遠くから黒い塊のようなものが移動しているように見えた。やがて小さかったものが少しづつ大きくなり、景色にその大きさ分の穴があいているようであった。その不思議な光景を、熱の幻覚とみて、なおもぼんやり眺めていた。気づけば、三本先の街灯まで迫ってきていた時に、ようやく祖母の言いつけを思い出した。街灯の灯りを数えているうちに、街灯に夢中になっていた。全てが果たして本当に街灯であっただろうか。あの黒い塊が、祖母の言うところの「ジンジャー男」であることを悟ってからは、我に返り冬の寒さが痛いほど身に染みてきた。ビュンと窓を閉め、布団を被った。微かに身体は震えていたが、どうやら雪に濡れたらしいと言い聞かせ、恐怖心をなおも否定した。元より、自分に自分の言い訳をしているに過ぎないのではあるが、幼心のゆえか、今はジンジャー男の襲来と同等に大事なことらしかった。どれほど経っただろうか。気づけば身体の重さは取れ、異常な体温感も消え失せていた。当然、震えも収まっていたが、心の奥底には黒い塊ージンジャー男ーの姿がまだ残っているようだった。しかし、不思議にも誰かに話そうという気にはならなかった。重い蓋が、正体を塞ぎ込んでいるようであった。
蝉の声は辺り中に響いている。昨晩の怪しげな出来事は、再び遠い過去の記憶を蘇らせた。それと同時に、ジンジャー男の影が、長い時を経て蘇る心地がした。
蝉はしきりに声を上げている。森が応えるかの様に葉を揺すった。