大富豪の遺産を継いだせいで悪の組織に殺されかける俺と、死にかけの俺をなんとか生かそうと懸命に頑張る執事達。
ご都合主義展開で、敵も味方もモブも誰ひとり死なない安心設定。
【桜庭視点】
桔梗さんの運転で、ご主人様のお屋敷へ戻った。
車を降りると、桔梗さんが僕に声を掛けて、お屋敷へ飛び込んで行く。
「早く処置室へ!」
「はいっ!」
腕の中のご主人様は、数分前に目を閉じて、完全に意識がない。
ミッチェル様の死に顔に似ていて、思わず背筋にゾッと寒気が走る。
脈拍を測ろうと握ったご主人様の手首が、いやに冷たい。
懸命に脈を探ると、弱々しくはあるが、生きている証を見つけてほっと息を吐く。
それでも、明らかに重篤(じゅうとく=症状が重く、回復の見込みがない)状態だ。
エレベーターを待つのももどかしく、僕らは階段を駆け下りた。
地下にある医務室の処置室へ、ご主人様を運び込み、ベッドの上に寝かせた。
一旦奥へ引っ込んだ桔梗さんが、白衣を羽織って、ご主人様の処置に当たる。
「桜庭さん、薬物は、何か分かりますか?」
「いえ、残念ながら……」
どんな薬物を盛られたかなんて、医療知識や薬物の知識が皆無の僕に、分かりようがない。
桔梗さんはテキパキと、ご主人様の体温を測り、血圧を測る。
聴診器を胸に当てて心音を聞き、桔梗さんが僕に質問してくる。
「症状はどうでした?」
「そうですね……」
記憶を探り、思い出す。
薬物の判定が出来るように、出来るだけ詳細に説明する。
「まず、胸を押さえられて、すぐに顔は紅潮し、体からは力が抜け、崩れ落ちるように倒れられました。しきりに痛みや苦しみを訴えるように、顔をしかめていらっしゃって、玉のような汗を絶え間なく流しておいででした」
僕の所見(しょけん=観察や診断などの結果)を聞くと、桔梗さんは難しい顔をして少し考え込む。
薬が並んだ棚を物色(ぶっしょく=多くの物の中から、適当な物を捜し出す)し、ステンレストレーに薬や医療器具を並べていく。
「そうでしたか。不整脈が診られますし、体温と血圧が共に低下しています。アレビアチン(不整脈に対する薬)を、静注(静脈注射)する必要がありそうですね」
細い注射器と薬液が入った小さな小瓶を取り出すと、ご主人様の腕に正確に静注した。
さらに、低張電解質輸液三号液(通称「維持液」一日に必要な水と電解質の補給に使われる輸液)を点滴して、体内の薬物を薄める。
酸素吸入器のスイッチを入れ、酸素マスクをご主人様の口に被せた。
ベッドの横に置いてあった布団をご主人様に掛けて、体温を下げないように保温する。
一通りの処理が終わると、桔梗さんは大きく息を吐き出して、僕に笑い掛けてくる。
「これで、様子を看ましょう。あとは状態に応じて、投薬を繰り返します」
「お疲れ様でした、桔梗さん。これで、ご主人様は大丈夫なんでしょうか?」
やや疲れが見える桔梗さんを労い(ねぎらい=「お疲れ様」という気持ちを表し)、次に意識不明状態のご主人様に視線を移した。
相変わらず、顔色は白いまま、苦しそうな浅い息を繰り返している。
息をする度に、透明の酸素マスクが白くくもるのが、少し切ない。
桔梗さんは顔に翳り(かげり=暗い影)を見せて、うつむいてポツリポツリと言葉をこぼす。
「今は、何とも言えません。出来る限りの処置はしました。あとは、ご主人様の体力と抵抗力次第です」
「そんな……」
ここまでしても、まだ助かったと言えない状況なのか。
こんなに苦しそうなのに、何もしてあげられない。
桔梗さんのように、医師免許を取得しておくべきだった。
僕は自分の無力さを、呪った。
ご主人様に処置を施したところで、橘さんと椿さんと田中さんが帰って来た。
散々暴れ回ってきたのか、三人ともボロボロ。
ボロボロというのは服であって、怪我は大したことなさそうだ。
「ただいま! ご主人様はご無事ですかっ?」
「ご主人様は、大丈夫かしらっ?」
「ご主人様は、ご存命ですかっ?」
三人は必死の形相で、白衣をまとった桔梗さんに詰め寄った。
自分よりデッカイ三人に、詰め寄られて、桔梗さんはタジタジ(相手の気迫に圧倒されて、顔を引きつらせてよろめく)となる。
「皆さん、お帰りなさい。ひとまず、出来る限りの処置は、施しました。あとはご主人様の体力と抵抗力次第です……」
桔梗さんのはっきりしない答えに、三人はご主人様に視線を向けた。
ベッドに横たわったご主人様は、蒼白い顔で浅い呼吸を繰り返している。
僕は、ベッドの上に力なく投げ出されたご主人様の右手を拾い上げて、祈るように握り締めた。
橘さんも僕のマネをして、僕がいるベッドの反対側に回り、ご主人様の左手を拾い上げた。
その手を握りながら、ご主人様に向かって元気に声を掛けます。
「ご主人様! 私達は、帰って参りましたっ! ですから、ご主人様も元気になって下さいっ!」
橘さんの手に、椿さんが手を重ねた。
目に涙を浮かべながら、いつになく真剣な表情で訴える。
「そうよぉっ、せっかくご主人様にお近付きになれたのに、これでお別れなんて、絶対にイヤ! 死んだら、承知しないんだからっ!」
田中さんは、ご主人様の布団にすがり付いて、男泣きしている。
嗚咽を漏らしながら、聞き取りにくい涙声で叫ぶ。
「ご主人様、どうかこれからも、貴方の側でお仕えさせて下さいっ! ですから、死なないで下さい、ご主人様ぁあああぁぁぁ……っ」
そんな彼らに励まされたのか、桔梗さんは強い決意が宿る目で、僕らにはっきりと言い放つ。
「ご主人様は、ぼくが助けます! ですから、皆さん安心して下さいっ!」
「頼むよ、桔梗君っ! 君は私達の、最後の希望だからねっ!」
橘さんはにっこりと微笑み返し、桔梗さんに近付いて肩に手を置いた。
桔梗さんは、少し嬉しそうにはにかむ(恥ずかしがる)。
「そ、そんな……最後の希望だなんて……」
「あらぁ、そんなに謙遜することないじゃないの。桔梗ちゃんがいなかったら、ご主人様は助けられなかった。違う?」
励ます椿さんに、田中さんが便乗する。
「そうだぞ。お前は自分が思ってるよりも、スゴイんだ。もっと自分に自信を持て」
田中さんは、鼻をグズグズ言わせながら、大きな手で桔梗さんの頭を撫でた。
桔梗さんも釣られるように、嬉しそうに涙をこぼして、深々とお辞儀をする。
「皆さん……ありがとうございます……」
目をゴシゴシ擦ったあと、気を取り直して、桔梗さんは三人に声を掛ける。
「そういえば、皆さんも、怪我なさっているではありませんか。手当てをしなくては……」
「ああ、そうだった。こちらも、手当てもお願いしよう!」
明るい声で、橘さんが桔梗さんに怪我を見せ始めた。
一方、椿さんは、手鏡を取り出して顔をしかめる。
「あ~ん、もうっ、乙女の柔肌が傷だらけになっちゃったわぁっ。桔梗ちゃん、こっちもお願いっ!」
「あ、はい。橘さんの次にしますから、少々お待ち下さい」
桔梗さんが、橘さんの傷の手当てをしながら、答えた。
椿さんは少し考えて、パッと顔を明るくする。
「だったら、先お風呂行って来るわね☆ 汗掻いちゃったし、汚れちゃったんですもの。じゃ、またあとでね~♪」
椿さんはひらひらと手を振って、ご機嫌で処置室を出て行った。
それを見た田中さんが、涙を拭って立ち上がる。
「そうだ、こうしてはいられない。ご主人様がお目覚めになられた時に、お召し上がりになれそうなものをご用意しておかなければ」
そう言って、田中さんも出て行った。
秘書の僕に、今出来ることは何もない。
ただ、ご主人様が目覚めるのを待つことしか出来なかった。
桔梗さんがご主人様の心音を確認すると、渋い顔で小さくため息を吐き出す。
「一時間が経過しました。アレビアチンを、追加する必要がありそうです」
あらかじめ用意してあったらしい、注射器と薬液入りの小瓶を載せたステンレストレーを手に取る。
二回目のアレビアチンの投薬に、僕は動揺を隠せない。
「まだ、ダメなんですか?」
「快復傾向は見られますが、まだ予断を許されません(これからどうなるかは、安易に判断することは出来ず、危険な状態)。なんせ、薬物が全身に回っていましたから……」
「そうですか」
桔梗さんの言葉に、肩を落とす。
落ち込む僕に、桔梗さんが柔らかく微笑む。
「でも、ぼくが助けます。何としても」
「頼りにしていますよ、桔梗さん」
僕は、希望を捨てたくなかった。
何よりも、ご主人様を失いたくはなかった。
両親を失い、ミッチェル様を失い、もうこれ以上、大事な人を失うのは、怖かった。
これ以上、大事な人を失ったら、もう僕は人を愛せなくなる。
愛することに、恐怖を抱くことだろう。
だから、ご主人様が僕にとっての、最後の希望なんです。
【虎河視点】
「目覚められましたか」
「桜庭……」
目を開くと、桜庭の顔がどアップが見えた。
朝、目覚めると、いつも桜庭の顔がある。
最初の一週間は、毎朝ビビッてたけど。
最近は、すっかり慣れてしまった自分がいる。
慣れたっつーより、慣らされたって感じが正しい気もしなくはないが。
しかし、いつもと何か違う。
キングサイズのベッドじゃない、シングルベッドだ。
ツルツルすべすべの、シルクシーツじゃない。
普通の真っ白いシーツだ。
顔には、プラスチックで出来た酸素マスクが、紐で固定されている。
なんだか全身が重くてだるくて、間接があちこち痛い。
心臓のドクドクと鼓動する音が、やけにうるさい。
なんで?
目が覚めたばかりで、状況が把握出来ていない。
まだぼんやりしているけど、思い出そうと頭を廻らせる。
えっと、確か、「グレートオールドワン」に薬を盛られたんだっけか。
で、俺の命と引き換えに、ミッチェルの遺産を要求された。
あの時、正直なところ、遺産なんてどうでも良いと思っていた。
むしろ、喜んで手放すぐらいの気持ちだった。
だって、遺産を手放せば、ただの川崎虎河に戻れる。
遺産を継がされたせいで、俺の人生は大きく変わってしまった。
いきなり執事が五人も付いて、豪奢(ごうしゃ=ムダにぜいたく)な豪邸に住まわされてさ。
しなくても良かった大出世を果たし、命まで狙われて、死に掛けて。
本音をいえば、あちこちに多額の寄付をしたのだって、とっととこの莫大な遺産から開放されたかったからだ。
世界を変えたいと思ったのは、事実。
貧困にあえいでいる人々を助けたいって気持ちも、ウソじゃない。
でも、金を持て余し、金に振り回されている感が、否めない。
「金の切れ目が、縁の切れ目(かねのきれめが、えんのきれめ=金がなくなったら、あっさりなくなる人間関係)」
そんな薄っぺらい人間関係なんて、欲しくない。
純粋に「俺」という存在を認めてくれる人間と、仲良くなりたい。
だから、金で雇われている執事なんて、うっとおしいと思っていた。
金がなくなったらいなくなる執事なんて、要らないと思っていた。
でも、桜庭は違ったらしい。
コイツは、俺を主人としてではなく、ひとりの人間として見てくれていた。
『もし、対等な立場になったとしたら、僕は虎河さんと友達になりたいっ!』
真剣な桜庭の言葉が俺の心に突き刺さり、気持ちを大きく揺さぶった。
だから、確かめないと気が済まない。
「なぁ、桜庭」
「なんです? ご主人様」
心配そうな顔で、桜庭が俺の顔を覗き込んできた。
本当に綺麗な顔をしてるんだよな、コイツ。
執事なんかじゃなくて、もっと表舞台に立てば良いのに。
例えば、モデルとか歌手とかさ。
芸能人になったら、スゴく人気が出るに違いない。
もったいないよな、俺の執事なんか。
「俺と対等の立場になったら、友達になってくれるって、本当?」
「何をおっしゃっているのですか」
桜庭は少し驚いた顔をした後、すぐに小さく笑った。
そうだよな、こんな質問バカげている。
ホント、何言ってるんだ、俺は。
あんなの、「売り言葉に買い言葉」ってヤツだよな。
「友達になりたい」なんて、その場限りの言葉に決まっている。
そんな言葉を安易に信じた俺が、バカだったんだ。
と、思ったら、桜庭はとても綺麗な微笑みを見せた。
「ええ、そうですよ。大それた(だいそれた=常識から大きくハズレた)考えですが、僕はずっと、ご主人様の友達になりたいと思っておりました」
「え?」
「例え、あなたが文無しになろうとも、あなたがいらないとおっしゃるまで、お側にいます」
「マジで?」
「マジです」
あんまり真剣な顔で忠誠を誓うから、俺は信じるしかなかった。
信じて……良いんだよな?
「ご主人様、お加減はいかがでしょうか?」
心配そうな顔をした桔梗がやって来て、体調を伺ってきた。
いかがって、言われてもなぁ。
ヒドい風邪を引いたあとみたいに、だるくて仕方がないんだ。
心臓も、なんだかおかしな動きをしているし。
規則正しい動きじゃなくて、不自然なリズムを刻んで、踊っているかのようだ。
そのせいか、時々胸が締め付けられるように痛むことがある。
しかも、手足がいやに冷たくて、痺れを感じる。
ああ、あれだ。
真冬に雪の中で、一日中全力ではしゃぎまくった後。
一日中動いていたせいで筋肉痛と疲労感、しかも雪で手足が冷え切ったって感じ。
まぁ、心臓が不規則な動きをするってのは、普通じゃありえないけどな。
酸素マスクをしなきゃいけないほど、酸欠になることも、日常生活ではそうそう無い。
これをどう伝えようかと、ちょっと考えて、出した結論は。
「大丈夫、ちょっとだりぃだけだ。あとは、寝てりゃ治るって」
俺は桔梗にこれ以上心配掛けないよう、いっちょ前に強がって笑って見せた。
実際、治すには寝るしかないしな。
「本当ですか? 良かった」
それを聞いた桜庭は、ほっと安心したように微笑んだ。
でも桔梗は、笑わなかった。
桔梗はグッと下唇を噛み締めて、少し目を伏せた。
あ、バレてる。
コイツ、時々、妙に察しが良いんだよな。
悲しそうな目と真剣な声で、語り掛けてくる。
「ムリしないで下さい。ご主人様は、死に掛けたんです。ぼくの目は、ごまかせません」
「ごまかせないって……?」
俺が聞き返すと、桜庭が訳知り顔で大きく頷く。
「ええ。桔梗さんは、医師免許を取得しています。ご主人様の薬を中和して下さったのも、桔梗さんです」
「え? 桔梗が?」
俺は驚きを隠せず、桔梗を凝視した。
人は見かけによらないとは、良く言ったもんだ。
臆病な猫みたいで、残念な美少年だと思ってたけど。
コイツ、実は、スゲェ頭良かったのか。
だって、医師国家試験って、むちゃくちゃ難しいんだぞ。
確か、医者になるには、まず医学部正規課程六年制を修了する。
医師国家試験に合格して、ようやく医師免許証が交付される。
あれ? ってことは、桔梗って、結構年いってんのか。
小柄で美少女みたいな外見だから、年下かと思ってたんだけど。
こう見えて、俺よりずっと年上かもしれない。
「そうだったのか……ありがとう、桔梗」
「いえ、ぼくは自分が出来ることを、出来る限りやっただけで。ご主人様がお命を取り留められたのは、ご主人様の体力があってこそで……」
もじもじと手をいじりながら呟く桔梗が、見た目も併せて、なんともいじらしい。
ったく、可愛いヤツめ。
俺は破顔(はがん=思った通りの出来栄えだと、満足してにっこりする)して、桔梗を褒める。
「桔梗が頑張ってくれなかったら、俺は死んでた。お前は、命の恩人だ」
「そんな、命の恩人だなんて……」
桔梗は顔を真っ赤にして、首を大きく横に振った。
ホント、コイツは自分を過小評価(かしょうひょうか=実際よりも、小さく見積もる)しすぎなんだよな。
きっと、子供の頃に褒められる機会が少ない、要領の悪いヤツだったんだ。
施設にも、同じように要領の悪くて、お人好しな子がいた。
手柄をあげても誰にも認められなかったり、手柄を横取りされたり、濡れ衣を着せられたり。
不当な扱いを受けてきたから、自分に自信がないんだ。
真面目に努力しても、その努力が認められないなんて、それじゃ可哀想だ。
だったら、これからは俺がいっぱい褒めてやろう。
思い返せば、今まで俺は執事達に自分の考えを押し付けてばかりで、あまり褒めたことはなかったかも。
俺はご主人様として、ちゃんと良いことをしたら、褒められるということを教えてやらなくては。
それで、少しでも自信を取り戻して、ネガティブを克服出来たら良いな。
俺は拳を作って、軽くトントンと桔梗の胸を叩く。
「何言ってんだよ。お前は、良くやったじゃないか。本当に心から感謝してる。だから、胸を張って良いんだ」
「そうですよ。僕からも、お礼を言わせて下さい。桔梗さん、ご主人様を助けて下さって、ありがとうございました」
きっちりと礼儀正しく、桜庭が桔梗に向かってお辞儀をした。
俺と桜庭に礼を言われた桔梗は、今まで見たことがないくらい、ものスゴく嬉しそうな顔で笑った。
「……どういたしまして」
容態が安定したところで、ずっと気になっていたことを聞いてみる。
「あの後、どうなったの?」
「アジトにいた人間は全員、警察に突き出しやりました」
俺を心配して様子を見に来た橘が、ドヤ顔で答えた。
おお、やるじゃん。
しかし、その顔はすぐに曇る。
「ですが、『グレートオールドワン』はとても巨大な組織で、今回壊滅させたアジトは支部のひとつに過ぎません」
「そうか」
支部をひとつ潰したところで、安心は出来ない。
むしろ、恨みを買って、報復に来るかもしれない。
「これからも、ご主人様は、私達が命を懸けて守ります」
「ありがとう、頼りにしてるよ」
執事達の気持ちは、正直嬉しい。
でも、いつまた「グレートオールドワン」に襲われるか分からない。
これからもずっと、命を狙われ続けるのか。
そう考えると、気が重いな。
「おはようございますっ!」
ようやく体調が戻り、俺は久々に出勤した。
俺の姿を見て、スタッフ達がざわ……っとなる。
中山が、心配そうな顔で声を掛けてくる。
「よう、具合はどうだ?」
「おう、バッチリよ! 俺は、体力だけが取り柄だかんなっ!」
明るく元気いっぱいな声で応えたが、信憑性に欠ける(しんぴょうせいにかける=信頼出来ない)と、みんなそろって顔をしかめた。
まぁ、無理もない。
死にかけて、一ヶ月ほど療養していた。
職場では、病気で長期入院していたことになっている。
これで、心配しない方がおかしい。
『グレートオールドワンに拉致られて、殺されかけちゃったよ事件』は、社内では部長のみが知っている。
部長には、頭痛薬と胃薬を進呈するべきかもしれない。
「こんにちは、川崎さん」
「ああ、どうも、加藤先生」
俺の事情を良く知るもうひとりの人物が、例によって、昼休みにやって来た。
作業の手を止めて、加藤先生に駆け寄った。
血色の悪い不健康そうな顔、ひと目でブランド品と分かるスーツに身を包んでいる。
左の胸元には、金色の弁護士バッジが輝いていた。
加藤先生がここを訪れるのは、もはや日常と化している。
弁護士って、結構忙しいと思うんだけど、親身に俺の相談に乗ってくれる。
最近は、いつも一緒に昼飯を摂る、飯友達となりつつある。
俺と桜庭と加藤先生は、以前行った大衆食堂で昼飯を食うことにした。
日替わり定食を三人前頼み、待っている間に加藤先生が神妙な面持ちで口を開く。
「先日は、ずいぶん大変な目に遭われたようで、お気の毒様でした」
「もう、ホンット大変でしたよ! 危うく、死ぬかと思いましたもんっ!」
俺が苦笑交じりに話すと、横に座った桜庭がうつむいて低い声で呻く。
「もし処置が間に合わなかったら、本当にお亡くなりになっていたかもしれません……」
「お前らのおかげで、こうして生きてるけどな。これからも頼むぜ!」
「もちろんですっ!」
二カッと笑い掛けると、桜庭はパァッと花が咲くように嬉しそうに笑った。
桜庭は、加藤先生に向き直ると、真剣な顔で告げる。
「今後も、このようなことが起こらないとは、限りません。あれから僕は、片時(かたとき=ちょっとの間)も虎河さんから離れないと、誓いました」
「それが賢明(けんめい=判断が確かで、問題を適切に処理出来る)でしょうね」
にっこりと微笑んで、加藤先生が軽くうなづいた。
俺は「ははは……」と、乾いた声で笑った。
加藤先生は、知らない。
コイツ、本当に片時も離れなくなっちまったんだよ。
起きている時はもちろん、食事も風呂も寝る時も側にいる。
トイレすら、ついてくる。
さすがに、大の時は入って来ないけどな。
昼飯→法律相談事務所という流れが、すっかり出来上がっている今日この頃。
奥の相談室へ通されると、例によって例のごとく、秘書さんが紅茶を運んできてくれる。
ほとんど、食後のティータイム状態。
加藤先生はこう見えて、熱い男なんだよね。
実は隠れヒーローオタクで、「正義と悪」について語らせたら、何時間でも平気で語る。
「川崎さん、『正義と悪』とはなんでしょう?」
「そうですね……『正義』は人を助けることで、『悪』は人を苦しめること……でしょうか」
「『正義と悪』……その価値観は、人それぞれでしょう。悪には悪の信念(しんねん=自分の考えが正しいと信じて、疑わない気持ち)があり、正義にも正義の信念がある」
静かな声で言う加藤先生に、俺は首を傾げる。
「『悪の信念』って、なんですか?」
「『正義』も『悪』も『自分が正しい』と、信じているんですよ。どちらも、自分が『正義』なんです」
「『勝てば官軍、負ければ賊軍』って、言葉もありますよね」
「そうです。信念はどうあれ、『最後に勝った方が正義』だから『正義は、必ず勝つ』は、ある意味真理なんです」
「でも、負けた方が『悪』って、なんかめちゃくちゃ理不尽ですよね」
「『正義』と『悪』は表裏一体で、強い方が『正義』で、弱い方が『悪』になるのです」
「それって、変ですね」
「変ですよね」
加藤先生は、手帳を取り出して、ボールペンで棒人間を描き始めた。
棒人間に×を描き足して、ペン先でトントンと叩く。
「例えば、ある人が無実の人を殺したとします。これは『正義』ですか? それとも『悪』ですか?」
「普通に考えたら、『悪』ですよね」
「では、この殺人者を死刑にしたら、それは『悪』ですか?」
「それは……『悪』……ではないですね。かといって、『正義』かって言われると、それも違うような」
「殺人犯を、死で持って罪を償わせる。結果的に、人を殺しているのに『悪』でも『正義』でもない。不思議ですねぇ」
「確かに……」
「戦争で、兵士達はみんな『自分は正しい』と信じて、殺し合っている。じゃないと、自分を保てませんからね。果たして『正義』とは、なんでしょうね」
加藤先生は、紅茶をひとくち飲んだかと思うと、話題を切り替える。
「それはさておき。本日は、川崎さんに良いアイデアをご提供しようかと思いまして」
「良いアイデア?」
俺がオウム返しすると、加藤先生が頷く。
「ええ。昨日、半身浴をしている際にふと思いついたんです」
「半身浴するんですか、加藤先生」
また、意外な一面を発見して、俺は目を丸くした。
加藤先生は目を細めて(嬉しかったり、興味のあるものを見たりして、思わず笑みを浮かべる)、語り出す。
「半身浴は、体にも心にも良いのですよ。アロマキャンドルを灯したり、アロマオイルや入浴剤などを入れて、ゆっくりとぬるめのお湯に浸かるんです」
「それは、良さそうですね」
興味津々といった顔で、桜庭が大きく頷いた。
俺に顔を向けると、桜庭はもんのすげぇ良い笑顔で俺に声を掛けてくる。
「ご主人様、さっそく今夜にでもやりましょうっ!」
「お、おう……」
俺が若干引き気味で答えると、加藤先生も頷く。
「ぜひ、お試し下さい」
「はぁ……」
風呂かぁ。
正直俺は、長い時間風呂に入ってるってのが苦手なんだよな。
どっちかってーと、烏の行水(からすのぎょうずい=パッと入って、パッと出る入浴スタイル)。
アパート暮らしだった頃は、手軽にシャワーで済ませていた。
出来れば、肌に噛みついてくるような熱~い風呂に入りたい。
限界まで我慢して、冷水を頭からバシャーッて浴びるのが気持ち良いんだ。
サウナで大量の汗を流して、水風呂にドボーンッてのも最高だね。
「おっと、話が脱線しましたね」
加藤先生が、閑話休題(かんわきゅうだい=この話は、置いといて)とばかりに、前置きをして話し出す。
「私が思いついたアイデアというのは、『ブレイカータイガー』についてです」
「それは以前、加藤先生が否定したじゃないですか。『施しは、正義ではない』と」
桜庭がやや不機嫌そうに、聞き返した。
「それとこれとは、話が別なんです」
加藤先生は、首を横に振って続ける。
「せっかく、ヒーローとして市民権を得たんです。この人気を、使わない手はありません」
「どういうことですか?」
俺は加藤先生が言いたいことが分からず、首を傾げた。
やれやれとひとつため息を吐くと、加藤先生は語り始める。
「今、『ブレイカータイガー』の特撮ヒーロー番組を作れば、高視聴率を叩き出すんじゃないでしょうか」
「あ、そっか」
考えてみれば、特撮番組って、かなり大きな金が動くんだよ。
金が循環して、景気が良くなれば、治安も良くなる。
良いこと尽くめじゃないか。
上手くいけば、の話だけど。
「加藤先生の話が上手くいけば、景気は回復するでしょうね。しかし、大コケ(大失敗)した時が、かなり痛いんじゃないすか?」
俺が加藤先生の顔を覗き見ながら探りを入れると、加藤先生の顔からスッと笑みが消えた。
静かな口調で、加藤先生が語り出す。
「ええ、確かに。今までに視聴率を獲得出来なかった特撮は、悲惨な末路を辿っています。製作会社はもちろんのこと、出資したスポンサーも大きな痛手を負いますし、株価を下げることになります。出演俳優も仕事を干され、いつしか人々の記憶の片隅に残る黒歴史となること間違いなしです」
それを聞いて、俺は自分の顔が引きつるのを感じた。
小さく「ふーむ」と唸ると、加藤先生は腕を組み、目を閉じて考え込む。
「新番組は、製作会社やスポンサーにとって、大きな賭けです。成功すれば天国、失敗すれば地獄……」
さすがは、弁護士先生。
社会のしくみに、詳しくていらっしゃる。
まずメディアが、この話に乗ってくれるか。
最初の一歩でコケたら、何も始まらない。
いや、待てよ?
今の俺の立場は、名ばかりとはいえ、総合メディア企業の専務。
しかも、金なら有り余るほどたくさんある。
金と権力を揮えば(ふるえば=力を発揮すれば)、番組のひとつくらい作れるんじゃないか?
金と権力に頼るって、俺はあんま好きじゃないんだけど。
使える手は、いくらでも使う。
「加藤先生! やらない後悔より、やった後悔です。俺の手で『ブレイカータイガー』の特撮番組を作りますっ!」
俺はニッコリ笑って、大見得を切った(おおみえをきった=自信のあることを強調する為に、大げさな言動をした)。
少しでもお楽しみ頂ければ、幸いに存じます。