大富豪の遺産を相続するプレッシャーに圧し潰されそうな俺と、今日は全裸じゃない執事達。
変態が、本気出して来た。
六畳一間の安アパートに入ると、「帰ってきたーっ!」って、感じがする。
とにかくあの豪邸じゃ、何もかもが堅っ苦しくて、全く気が休まらない。
俺はご機嫌で歌なんて口ずさみながら、ポイポイッと服を脱いで、シャワーを浴びる。
温かい湯を浴びると、全身にのしかかっていた疲れも洗い流されるようだ。
椿が丁寧に塗ってくれた化粧品なんかも、全部洗い流してしまう。
やっぱ、素顔が一番。
今まで何の手入れもしてこなかった俺に、化粧品なんて無用の長物。
ユニットバスの鏡に、自分の体が映った。
曇りガラスを手で拭って、マッチョポージング。
うん、俺だって悪くない体型をしてるよな、と自画自賛(じがじさん=自分で自分を褒める)。
全裸執事なんかにゃ、負けないぜ。
なんて、対抗意識を燃やしてどうする。
ちょっと恥ずかしくなって、顔をパンパンと軽く叩き、体をざっと洗う。
タオルでガシガシ拭きながら、バスルームを出る。
服を身に着けながら時計を見れば、出勤時間をとうに過ぎていた。
「ヤッベッ!」
大慌てで外へ出ると、見たこともない真っ赤なスポーツカーが停まっていた。
すぐ横には、ダークグレーのスーツに、赤のカラーシャツ、黒ネクタイを身に着けた若い男が立っていた。
モデル並みの綺麗な顔に、シャープなノンフレームメガネを掛けている。
ん? どっかで、見たような……?
男は俺と目が合うと、飼い主を待ちかねた犬のように、嬉しそうに駆け寄って来る。
「お待ちしておりました、ご主人様! この桜庭春樹、命を張ってあなた様をお守り致しますっ!」
歌うように高らかに宣言する桜庭に、通りすがりの会社員や学生達が、何事かとジロジロ見ている。
うわぁ、なんつー恥ずかしいマネしてくれちゃってんのっ!
慌てて桜庭に、耳打ちする。
「お前、桜庭かっ。見違えたぜ。私服か、それ? 服着れば、普通にかっけぇんだな。ってか、お前、外で俺を『ご主人様』って呼ぶな、恥ずかしいっ!」
「何故です? ご主人様は、ご主人様でしょう?」
不思議そうに、長いまつ毛をバッサバッサ瞬かせる桜庭に、言い聞かせる。
「良いか? 俺はまだ、正式に相続してないんだから、まだご主人様じゃないのっ」
「では、何とお呼びすれば?」
「普通に、名前で呼べば良いんじゃねぇか?」
「では、川崎様」
にっこりと笑顔で呼ばれると、営業スマイルの店員に呼ばれてるみたいだな。
俺はうーんと小さく唸って、訂正を促す。
「それも、堅苦しいな。名前に『さん』付けとか、どうよ?」
「では、虎河さん」
「おっ、それそれっ! それが、一番しっくりくるっ」
他に、俺に「さん」付けするヤツはいないし、呼ばれた時に気持ちが良いがした。
俺が笑顔で頷くと、桜庭も大輪の花が開いたようにふわりと笑い返す。
「虎河さん」
「おう、さくらちゃんっ」
「さくら……ちゃん?」
たった今思い付いたあだ名で呼ぶと、桜庭は微妙な顔をした。
イタズラ心に火が点いて、俺はニヤニヤ笑いながら桜庭を指差す。
「『桜庭』って、ちょっと言いにくいからな。これから、お前のこと『さくらちゃん』って、呼ぶことにしようと思ってさ」
「さくらちゃんじゃありません! 僕の名前は、桜庭ですっ!」
どうやら桜庭は、お気に召さなかったようだ。
初めて見る、笑顔と鬼神以外の表情に「こんな顔も出来るんだな」と、嬉しくなった。
にこにこお綺麗に笑ってるだけじゃ、お人形さんと変わらないぜ、さくらちゃんよ。
人間なんだからさ、喜怒哀楽を示してみろよ。
俺は何だか楽しくなってきて、何度も連呼する。
「さくらちゃん、さくらちゃん、さくらちゃんっ」
「もう、止めて下さいよっ! あなたがそうやって、嫌がらせで呼ぶんでしたら、僕もあなたを『成金(なりきん=急に金持ちになった人)にわか野郎』って呼びますよっ!」
キッと睨み付ける桜庭が、反撃に出た。
『成金野郎』と言われて、めちゃくちゃ腹が立った。
「――おまっ! いきなり、何なのっ? 『成金野郎』って、酷くね? それって、ただの悪口じゃん! どういう態度の変化なんだよ、お前っ?」
「あなたが、『さくらちゃん』って呼ぶから、イラッと来たんですよっ!」
声を荒げる桜庭は、豪邸の中で執事やってた時とは別人のようだ。
でも、そんなやりとりが、ちょっと嬉しかったりする。
桜庭は時間を確認すると、「あっ」と驚きの声を上げる。
「もう! こんな時間じゃないですかっ! こんな、おふざけをしている場合じゃありません。早く、車に乗って下さい」
怒りながらも、さり気なく俺をエスコートして、後部座席のドアを開けた。
俺が乗り込んだのを確認すると、ドアを閉め、桜庭は素早く運転席へ着いた。
グンッと、体にG(Gravition=重力加速度)が掛かって、思わず苦笑。
「コイツ、運転手には向いてないわ」
「君ね、今すぐ辞めてもらっても構わないんだよ?」
出た! 事業部統括部長の得意技『辞めても構わない』
大幅に遅刻した俺に向けられた、部長の第一声はそれだった。
そこから、クドクドとお説教が始まる。
「大体ね、『弁護士先生に呼ばれたんで、ちょっと出てきます』って言って、そのまま直帰するって、社会人としてあり得ないでしょ。一回会社に戻ってくるか、戻れなくても電話のひとつも寄越すとか、連絡手段はいくらでもあったでしょ。それから……」
「……すみませんでした」
このオッサンのお説教は、とにかくねちっこくて長いんだ。
いや、分かってるんですよ、俺が悪いってことは。
おっしゃる通り、仕事ほっぽり出して勝手に帰るなんて、一社会人としてあり得ないですよ。
俺だって最初は、弁護士先生との話が終わったら、すぐ戻るつもりだったんです。
でも、まさか、あんな空前絶後(くうぜんぜつご=後にも先にも、めったに起こらない非常に珍しいこと)の展開が待っているなんて、普通思わないじゃないですか。
などと、言おうもんなら、説教が長引くのは目に見えているので、黙っておく。
頭と肩を下げて、反省の態度を見せながら、ひたすらお説教が終わるのを待った。
お叱りの言葉が一通り終わったところで、部長が俺を指差す。
「で? 扉の隙間から、殺人ビームでも発射しそうな勢いでガン見(がんみ=スゲェ見る)してくるストーカーみたいなの、誰?」
「は?」
言われて振り返ると、部長の言う通り、執務室の扉の隙間からこちらを覗いている桜庭がいた。
驚きのあまり、声が裏返る。
「さくらちゃぁああぁあぁんっ?」
「だから、『さくらちゃん』って呼ぶの止めて下さいよ、虎河さんっ!」
隙間を覗く姿勢のまま、腹立だしそうな声で桜庭が言い返してきた。
いや、それ、傍から見たらスゲェマヌケな格好だぞ、桜庭。
部長が苛立った様子で、デスクを指でトントン叩く。
「川崎君、アレ、なんなの?」
「あ、アレはですね、桜庭といって、なんか色々残念なイケメンで……」
たどたどしく俺が説明を始めると、桜庭がバーンッと扉を開け放つ。
社交ダンスみたいなムダに華麗な足運びで、スタスタと俺に近付いてくる。
その足運び、今必要だった?
俺の横へ並ぶと、桜庭が怒声を張る。
「『アレ』だの『残念なイケメン』だの、いい加減なこと言わないで下さいっ!」
「いや、だって、その通りじゃん……」
俺に言うだけ言うと、今度は桜庭は部長に向き直る。
部長に向かって、営業スマイルを浮かべて、丁寧にお辞儀をする。
「これは失礼。申し遅れました、私は桜庭春樹と申します。この度、川崎虎河様を護衛させて頂くことと相成りました、秘書兼執事でございます」
「は? 川崎君、一体、何やらかしたの?」
部長は、意味が分からないといったキョトン顔をして、俺を見る。
そんなこと言われたって、俺だって困るわ。
俺もずっと意味分かんなくて、混乱しっぱしなんだもん。
「い、いえね、俺はね、なーんも悪いことはしてないんですよ。これには、ちょっと深い事情がありまして」
「ふぅん? 深い事情ねぇ。そんな複雑な話なの? それとも、私には話せないようなこと、やらかしたワケ?」
詰め寄る部長に、俺は何も言えなくなる。
う~む、困った。
遺産相続の件は、部長に話しても良いものなのだろうか?
俺自身としては、事情が事情だけに、やむ得ず相続すると決めたものの。
正式に相続するって、加藤先生にも言ってない。
正直、まだ相続する覚悟も決まっていない。
俺が唸って悩んでいると、一歩前に踏み出した桜庭がハキハキと喋る。
「僭越(せんえつ=身分を越えて、出過ぎたことをする)ながら、私からご説明させて頂きます」
「さ、桜庭……」
俺が目配せする(めくばせする=目だけで、何かを伝えようとする)と、桜庭はフッと小さく笑う。
「ここは、包み隠さずお話ししましょう。そちらのお方にも、重大なお話しだと思いますので」
「重大な話?」
疑り深い目つきで、部長が繰り返した。
桜庭は改めて部長に向き直ると、立て板に水(たていたにみず=水が流れるようにスラスラ話す)のごとく、語り始める。
「こちらにおわします、川崎虎河様は、此度(こたび=今回)、故ピート・ミッチェル様の遺産をご相続されることと、相成りました」
「……か、川崎君が、ミッチェル氏の遺産をっ?」
部長は面食らって(めんくらって=突然のことに慌てて)、声を張り上げた。
そりゃ、驚くわな。
ほとんど面識がない(めんしきがない=お互いを知らない)大資産家から、莫大な遺産を相続されるなんて、普通思わないよな。
俺だって、半信半疑だもん。
今も「本当は、手の込んだドッキリなんじゃないか」と、思っている。
ドッキリだったら、どんなに良かったか。
桜庭は、にっこりと綺麗に微笑むと、歌うように高らかに続ける。
「つきましては、大株主でもあったミッチェル様が、所有および運用していた御社の株は、全て川崎様のものとなります。今後はこのお方のお言葉ひとつで、御社が大きく傾くこととなるでしょう」
「そ……そんな……」
桜庭の話が進むにつれて、部長の顔色は悪くなり、もはや顔面蒼白。
デスクに両手を着いて、よろよろと椅子に腰掛ける。
部長が気の毒になってきて、俺は桜庭にそっと囁く。
「お、おい、さくらちゃんよ……あんま、部長をイジメてやるなよ……」
「僕は、あくまで、事実をお伝えしたまでです」
怒りのこもった低い声で、桜庭が俺に囁き返した。
桜庭は部長に向かって、さらに畳み掛けるように続ける。
「なお、川崎様が万が一、相続を拒絶された場合、犯罪組織『グレートオールドワン(偉大なる古きもの)』へ寄贈されることになります。これがどういうことか、お分かりになりますよね?」
「そ、そうなったら、我が社は……いや、世界はおしまいだ……」
とうとう部長はデスクに突っ伏して、頭を抱えた。
止めたげて! 部長のライフは、もうゼロよっ!
さすがに見かねて、桜庭を制する。
「もう止めろよ、桜庭。これ以上イジメたら、部長の胃に穴が開いちゃうぞ」
「ですが、ここはしっかり、ご説明しないと……」
「いや、みなまで言わなくても、分かるよ……」
部長がげっそりした顔を上げて、弱々しい口調で続ける。
「川崎君は、この世界の行く末を双肩に担う(そうけんにになう=重い責任を負うべき存在)ことになったんでしょ? だから、その、桜庭君だっけ? が、張り付いてるってことなんだよね?」
「ええ、その通り。僕は、川崎様を守る使命を帯びております。僕の他に、四人の者達が影ながら見守っています」
「えっ? そうだったのっ?」
今度は、俺が驚く番だった。
てっきり、俺の身辺警護をしているのは、桜庭だけかと思っていた。
そんな俺を見た桜庭がニッと不敵に笑って、指をパチンとひとつ鳴らす。
すると、四人の執事達が入ってきて、壁に沿って一列に並んだ。
「お分かり頂けたでしょうか?」
桜庭が問い掛けると、部長はもはや驚きすぎて声も出ないようだ。
可哀想に……部長、今日は仕事にならないかもな。
「虎河さんの仕事は、なんですか?」
色々ありすぎて真っ白になった部長の執務室から出ると、桜庭が質問してきた。
俺は撮影機材が保管されている倉庫へ向かいながら、軽く答える。
「基本、雑務だよ」
「雑務っ? あなた様ほどの立場の方が、雑務……っ!」
何故か、ショックを受けた桜庭が、真剣な顔で俺に詰め寄った。
「いや、だって俺、ただのバイトだぜ? それが急に『ミッチェルの遺産を継げ』って言われて、こんなことになって。未だに、夢見てるみてぇで信じらんねぇよ」
名声・富・力、全てを手に入れた男、川崎虎河。
いきなり、国ひとつ動かせるくらいの巨額の富を手に入れた。
金で買える物なら、何だって手に入る。
豪遊だって、し放題だ。
そんな誰もが憧れる夢のような話は、本当に夢だ。
現実は違う。
これだけの大金を手にしてしまったら、人の見る目が変わっちまう。
金を持っているというだけで、俺の社会的地位や存在価値が上がる。
でも、それは喜ぶべきことじゃない。
みんな、俺を俺として見なくなる。
「成り上がり」として、軽蔑する者も現れるに違いない。
嫉妬の目を、向けられるかもしれない。
財産目当ての犯罪者に、命を狙われるかもしれない。
横にいる桜庭も、ミッチェルの金で雇われているだけだ。
ミッチェルの金がなかったら、出会うことすらなかった。
橘も、椿も、田中も、桔梗も。
みんな、金で繋がっているだけの関係。
ミッチェルの後釜(あとがま=跡を継いだ人)だから、優しくしてくれる。
それだけだ。
俺を金づる(簡単にお金を出してくれる人)として見ないでくれ。
俺は俺だ。
俺を俺として見て欲しい。
なんで、俺なんだ。
なんで、俺を選んだんだ、ミッチェル。
今すぐ俺を、俺に戻してくれ。
それでも、俺はこの立場を受け入れなければならない。
きっとそれが、俺に課せられた使命なんだ。
今のところ、俺が財産相続することを知る者は少ない。
豪邸にいる使用人達と、護衛に就いている執事達。
弁護士の加藤先生と、今説明をした部長くらいだ。
職場の人間達は何も知らないから、今まで通りで安心する。
いつものように雑務に追われていると、同じバイト仲間の中山が、気軽に話し掛けてくる。
「よう、川崎。今日はずいぶん、重役出勤だな。お前、まーた何かやらかしたんだろ?」
「まあな。部長に、こってり絞られちまった」
ハハハと、適当にごまかして笑う俺を、中山も声を立てて笑う。
「ったく、毎度毎度懲りないねー、お前も」
「別に、俺、悪気ねぇもんっ」
「悪気がないとか、なおさら悪いわ」
ひとしきり笑いあった後、中山が眉をひそめて耳打ちしてくる。
「で? さっきから、こっちをじーっとガン見してる、ストーカーみたいなの何?」
「あー、あれね。別に咬み付いたり、暴れたりしないから、シカトしといて」
そう、部屋の外から顔を覗かせてガン見してくる視線に、俺はずっとさらされている。
今更説明の必要はないかもしれないが、あれは桜庭だ。
ぺったり張り付きたがる桜庭を「仕事にならないから」と、追い出した。
見ているだけなら構わないと許可したら、ずっとああしてる。
不審人物として、見られても仕方がない。
見た目だけなら超絶美形なのに、残念なことになってるよ、さくらちゃん。
「え? 何? マジで、ストーカーなのかよ? 警察呼んだ方が良くね?」
徐々に真剣な顔になっていく中山に、俺は苦笑して手を左右に振る。
「大丈夫大丈夫、害はないから」
「害はないって、お前ね。変なヤツに目ぇ付けられやすいんだから、気を付けろよ」
「目ぇ付けられやすいかぁ? 俺」
聞き返すと、中山は呆れ顔でワザとらしい大きなため息を吐く。
「あー、ヤダヤダ、これだから天然は……。とにかく、ヤバいと思ったらすぐ警察呼ぶんだぞ? 何かあってからじゃ、遅いんだからな?」
「だから、大丈夫だっつの!」
俺がムッとして唇を尖らせると、中山はやれやれと肩をすくめる。
「ま、お前、危機感足んねぇからな。いざとなりゃ、俺が助けてやんよ!」
上腕二頭筋が光り輝くマッスルポーズを決めて、中山は得意げに笑った。
何を隠そう、中山は肉体強化が趣味のガチムチ兄貴だ。
いつもプロテインを飲んでいて、プロテインが主食なんじゃないかと、疑いたくなる。
俺は声を立てて笑いながら、ポンポンと中山の腕を叩く。
「そりゃ頼もしいな。頼りにしてるぜ、中山」
「おう、任せろ。何かあったら、いつでも言ってくれや。じゃ、俺これ運んでくるから、またな」
「おう、またな」
中山は重い機材を軽々と担いで、倉庫を出て行った。
カッコイイなぁ、同じ男として、筋肉はやっぱり憧れだよな。
なんとなく、自分の体を見比べる。
俺もそこそこ筋肉はあるんだけど、ムキムキマッチョには程遠いな。
すると間もなく、俺のスマートフォンから電子音が鳴り始める。
ディスプレイには、見覚えのない番号が表示されていた。
誰だ?
普通、電話番号登録されてるヤツから掛かってきた場合、相手の名前が表示される。
電話番号しか表示されないってことは、知らない番号。
備品の問い合わせの電話だろうか?
もしかしたら、弁護士先生かもしれない。
弁護士先生は、俺の電話番号を知っているはず。
いや、「グレートオールドワン」に、俺の電話番号がバレたのかもしれない。
遺産相続後、初めて掛かってきた、見知らぬ電話番号に警戒する。
携帯電話を耳に当て、慎重に応じる。
「もしもし、どちら様ですか?」
――なんですかっ? 今のガチムチアニキはっ! あんなに親しげに、あなたにベッタベッタイッチャイッチャしてっ! ハッ! まさか、あの男といかがわしい関係なんですかっ? あなた警戒心ゼロだから、誘われるまま、ホイホイついて行ったんじゃないでしょうねっ? お尻は無事ですかっ? これからは、あなたのお尻も守りますっ!
「ってお前、桜庭かいっ! っつーか、お前、マシンガントークで、何言っちゃってんのっ?」
電話の相手は、部屋の外でガン見してる桜庭だった。
何故だか分からないが、興奮気味で、早口でまくし立ててきた。
言ってることが意味不明だし、マジなんなの、この残念なイケメン。
うん、ヤベェわ、中山。
警察呼んだ方が良いかも……。
まるで、さっきの話がなかったかのような、穏やかな口調で桜庭が電話越しに話す。
――これ、僕の電話番号です。電話帳に、登録しておいて頂けますか?
「うん、それは構わないんだけどさ。っつーか、なんで、電話掛けてきたんだよ?」
そもそも、電話を掛ける距離じゃない。
距離にして、十mくらい。
桜庭は、少し不服そうな声で、言い訳する。
――お仕事中ですから、お邪魔してはいけないと思いまして。先ほど、追い出された手前、お声掛けするのも気兼ねしまして。
「すでに充分、邪魔してるよ? ガン見されててスゲェ気まずいし、周りのみんなも、怪しんでるぞ」
俺がやや低い声で、注意を喚起した(ちゅういをかんきする=忘れている重大なことに気付かせ、自覚させようとする)。
しかし桜庭は、悪気なく答える。
――そうおっしゃられましても、虎河さんをお守りするのが僕の使命ですから。
「お前もさ、他の執事達みたいに、隠密行動出来ないワケ?」
呆れてため息交じりに言うが、桜庭は譲らない。
――僕は、あなたの秘書兼執事です。あなたのお傍を離れるワケには参りません。
「あーそぉ……ミッチェルの時も、同じことしてたの?」
力なく聞くと、桜庭は力説する。
――もちろん、ご主人様のお傍にいるのは、当然です!
当然か。
それってやっぱり、俺の為と言いつつ、俺の為じゃないよね。
「大資産家」を、守っているだけだ。
俺そのものに、価値はない。
金がなくなったら、コイツは俺の側を離れて行く。
だったら別に、俺じゃなくても良かったんじゃないか?
運命を受け入れる、国を守ると決めたはずなのに、俺はまだ迷っている。
話が急展開すぎて、気持ちがついてこないんだ。
頭では理解しているのに、心が納得出来てない。
所詮、この世は金なんだ。
ただ生きているだけでも、金が掛かる。
金がなければ、生きていけない。
金があれば、金で買えるものはなんでも手に入る。
人間は、強欲だ。
だから人は、金を求める。
金欲しさに、金があるヤツに人は群がる。
分かっている、分かってはいるんだ。
いくら御託を並べても(ごたくをならべる=クドクドと、自分勝手な言い分ばかり言う)、仕方がない。
こんなあやふやな気持ちのまま、遺産を相続して良いんだろうか?
俺は何も言えなくなって、通話終了ボタンを押した。
「おはようございます、川崎さん」
「あ、どうも。おはようございます」
悶々としていたところ、加藤先生が職場へ顔を出した。
今日も不健康そうな顔に、静かな笑みを浮かべている。
どうにも俺は、加藤先生が苦手だ。
何というか、滲み出る雰囲気っていうか、空気っつーか。
そういうものが、なんでか分からないけど怖いんだ。
「きのとぐり」とかいう、謎の言葉で脅されたからかもしれない。
加藤先生は「おはよう」と言ったが、もう昼近い。
「もしよろしければ、お昼ご飯ご一緒しませんか?」
「そうですね、ゆっくりお話もしたいですし」
ここで遺産の話はしにくいので、昼休憩の許可をもらう。
「すみませーん! ちょっと、外で飯食って来まーすっ!」
職場の連中に声を掛けて、加藤先生と職場を離れる。
当然のように、桜庭も後ろからついてきた。
さっき、色々言っちゃったせいか、桜庭との距離が遠い。
仕方がないので、振り向いて手招きしてやる。
「なぁ、桜庭もこっち来いよっ。飯一緒に食おうぜ!」
「そんな! ご主人様と執事が食を共にするなど、恐れ多い」
真剣な顔付きで、桜庭が小さく首を横に振ったので、俺はケタケタ笑って桜庭に駆け寄る。
「良いから良いから! 堅っ苦しいこと言うなよ」
「では、今すぐ、レストランに予約を……っ!」
慌てて携帯電話を取り出す桜庭の手を、俺はにっこり笑いながら抑える。
「昼間っから、そんな高いとこで食事しなくて良いって。近場で済まそうぜ」
「ち、近場って……」
動揺する桜庭とは反対に、加藤先生は俺の意見に同意する。
「そうですね。近場で済ませて、あとはじっくりと話し合いに時間を使いましょう」
「あ、そっすよね」
じっくり腰を据えて、加藤先生と話っていうのは、ちょっと苦手。
まぁ、加藤先生だって、仕事だからな。
俺は取り繕うように、無理矢理明るく振舞う。
「そ、そうだ! 俺、美味い店知ってるんですよっ! そこ行きません? 加藤先生、好き嫌いとかあります?」
「いえ、特には」
「だったら、そこ行きましょ。桜庭もな?」
桜庭にも声を掛けると、きょとんとしていたが、素直についてくる。
「分かりました、ご一緒しましょう」
「よっしゃ!」
俺が大きく手振り身振りで、とある食堂へ案内した。
広くもなけりゃ、綺麗でもない。
家族経営の小さな食堂だ。
おふくろの味っつーか、家庭の味って感じなのが美味いんだ。
孤児で施設育ちの俺は、「おふくろの味」ってものを知らない。
だから、「家族」とか「おふくろの味」ってヤツに、憧れを抱いている。
「こ、ここですか……?」
信じられないといった顔付きで、桜庭がポツリと呟いた。
食堂の前に立ち尽くしている、桜庭の肩を軽く叩く。
「見た目は、あれだけどな。旨ぇんだぞ、ここの飯」
「では、入りましょう」
戸惑いなく入って行く加藤先生に、俺と桜庭も続く。
店内は騒がしく、まだ昼前だというのにサラリーマンがぽつりぽつりいる。
オシャレな店じゃないので、女性客は少ない。
店内に入るやいなや、明るい女将さんが声を掛けてくる。
「いらっしゃーい、お好きな席をどうぞー」
「はーい」
俺は軽く返事をして、四人席へ向かった。
桜庭が俺が座ろうとした椅子を、うやうやしく引いて優しく微笑む。
「どうぞ、お座り下さい」
「お前ね、こういうとこではそういうことしないの。TPO(Time Place Occassion=時間・場所・場合)をわきまえろよ」
俺が注意すると、桜庭は驚いたような顔をして慌てて謝る。
「は、はい! 失礼しましたっ!」
「分かれば良いから、お前も座れよ」
いきなり大声でそんな謝られたら、こっちが困るだろうが。
苦笑しつつ座るように示すと、桜庭は申し訳なさそうに席に着いた。
そんな俺らのやり取りに動ぜず、加藤先生が店内に掛けられたメニュー表を見ている。
「ここは、何がおすすめなんですか?」
「なんでも美味しいですよ。手ごろな日替わり定食なんていかがです?」
「では、それで」
加藤先生が軽く頷いたので、桜庭もメニュー表を見ながら俺に声を掛ける。
「虎河さんは、何になさいますか?」
「俺も日替わり」
「では、僕も同じにします」
桜庭が答えたので、俺は軽く手を上げて女将さんに向かって声を張る。
「女将さーん! 日替わり三つねーっ!」
「あいよー、日替わり三つー」
女将さんが答えながら、グラスに入った水を持ってきた。
喉が渇いていたから、さっそくグラスに手を伸ばす。
グビグビ喉を鳴らして水を飲むと、桜庭が険しい顔をしている。
「あなたには、警戒心が足りませんね」
「何だよ、警戒心って?」
空になったグラスをテーブルに置き、俺は首を傾げた。
「よくも、そんな無防備になんでも口に出来ますね。命を狙われるかもしれないのに、もし毒でも入っていたら、どうするんですか」
あまりに真剣な表情で語る桜庭に、俺は呆れてため息を吐く。
「お前ね、普通、こんなとこで毒とか盛らないだろ。大体、今の俺なんか殺したところで、何の得もないし」
「いいえ、ありますね。もし、相続前にあなたがお亡くなりになった場合、自動的に遺産は『グレートオールドワン』のものになりますから」
冷然(れいぜん=どんな事態にも動じることなく、冷ややか)たる態度で、加藤先生が答えた。
親の仇である「グレートオールドワン」の名を聞いて、黙っていられる桜庭ではない。
鬼神と変じた桜庭が、地の底から聞こえてくるような低く呟く。
「そんなこと、断じてさせません」
「うわ、桜庭こえぇ……」
俺がドン引きすると、桜庭が真剣な声で言い聞かせてくる。
「これ以上勢力をつけられたら、ヤツらの思うがままです。仇を討てないどころか、もっと大事なものを失うかもしれない。その為にも、あなたには何としても生きていて頂かなくてはならないのです」
「そっか、そうだよな……」
結局俺は、桜庭からそういう目でしか見られてないんだ。
少しでもお楽しみ頂ければ、幸いでございます。
問題がありましたら、迷わずご指摘下さい。