1.春の匂いを感じながら①
あれはもう2年も前のことだ。
あおが学位を取得して修士課程に入ったばかりの頃だ。
4月に入ったばかりで、まだサクラが花びらを落としているころだった。あおは大学の門を、リュックを背負いながら通り過ぎるところだった。少し風の強い日だった。サクラはすでに満開を通り越して、枝には無数の葉を覗かせている。
あおは学位入学の当時を思い出しながら、院生としてこの大学にまだなお居座る気分を、どうにもならない面持ちで考えていた。建物のひとつ一つを眺めると、大学というものに入学することすらあまり理解せずに来てしまったことをあおは思い出す。この巨大な建物の中で自分が何をして、何ができるのか不安を抱えながら当時を過ごしたときのあの感覚が、今日のあおには同じように宿っているようだった。
刈安からは数週間前にメールが来ていた。大学の卒業旅行やら、友人の就職祝いなどで、卒業後は無用な忙しさを立て並べて、刈安からのメールをおざなりにしていたのも、あおからしてみれば、仕方のないことだった。あおは記憶のどこかで、現実が壁のように立ちはだかっている様を想像しながらも、卒業と言うバカ騒ぎに現を抜かすのも動作ないことのように思っていた。そして入学式の直前、彼の携帯に刈安から電話が来たのは、しかしそれも当然のことだった。
開口一番刈安はあおを少ししかりつけるように話した。
「卒業できたからって少し浮かれてはいないか——?」
しかしあおからしてみれば刈安から頼まれたことは余計なことの一つに他ならなかった。
「何も初めからこの事案に関しては乗り気じゃなかったんだよ」
それがあおの返答である。
「なにいってるんだよ——」
刈安は笑いながらそう言って、あとは何も言わずに電話を切ってしまった。
あおは長い冬を超えて晴れて大学院へ入学したような気持になっていた。暖かな春の空気とその匂いを感じながら、心は少し浮かれていた。しかしその浮かれた心に何か理由があるわけでもなかった。どちらかといえば彼の場合悩み事にさいなまれていることの方が多かった。このとき彼が浮かれていたのはただ単に春になったからというほかは何もない。この気候が彼にとって何かを待ちわびていた感覚に近かっただけであり、それは単に冬が寒かったからということのほかは何にも説明できるものがなかった。
けれども、冬の寒さはあおにとって非常に苦痛であったことは事実だった。あおは、学位取得までの4年を真冬のような寒さを味わう気持ちでやり過ごしていた。あおはいつも自分は何者であるのか――。その問いを繰り返し、骨身を削る思いで、学位の研究課題に取り組んでいた。それは自分自身の存在をどう律するかの問題であった。このままのらりくらり大学で適当に単位を取っていても、自分が何者になれるのかは一向に答えの出ない難問であった。ましてや、自分がやっていることの意味も分からない。夢ばかりを追いかけて、実体のない存在を想像するだけの所業が続く。考えることは重要であるかもしれないが、生活の端に自分の身を置いたとして、その時、ただ考えるということだけでは、あおが何者であるかはどこにも答えとして存在しなかった。
自分は何者なんだ――。
あおはいつもそんなことを思っていた。そして夢想の彼方にある理想の人物を想像し、冷めきった心を温めるために自涜した。
その日、通学の初日は白く輝くサクラの花びらがあおの目の前で数えきれないほど舞っていた。そしてその花びらを見る目の中で、黒い影が、瞬く中で感じられるのを彼は静かに認めていた。あおは孤独をかみしめていた。学部時代の友人とはみんな別れて、自分一人でこの大学に居残った気分であった。それは取り残された敗残兵のように労を浮き彫りにしているようだった。自覚的に疲労を覚えていた彼は、どこの誰ともかかわりたくはなかった。もしかすれば、静かにこのまま一生を終えることもあるだろうかと心の一番奥で思うこともあった。しかしそれは誰にも聞かせることのないあおの独り善がりな思いであった。
グレイのアスファルトを踏みしめながら、地べたを這う花びらが、茶色く汚れていくのを見ていると、サクラなど所詮刹那な美意識を見せびらかしている厄介なものでしかなかった。空もまだ晴れ晴れとしていない春先の気候は、暖かくなったといえどもまだ肌寒く、彼は痛みをまだなお癒せることなく自尊心をむやみやたらと卑下して、心を閉ざしているのであった。
受講のガイダンスほど無駄に時間を費やすものはないと思っていた。——自分には時間はない。無意味な焦燥感が常にあることもあおは知っていた。周りでは彼の知人が話をかけてきたり、昔話をしたりするが、あおはそのほとんどを情景の中へと追いやっていた。思い出すのは刈安の一言であった。
これからの生活ですがれるのはそれくらいであった。自ら行動しようとも今は思えない。暗雲の中でもがいている青二才だと自らを卑下するほかに何の手立てもなかった。