プロローグ 風に街へと飛び出してみて
あの人にあったら何を話そうか——。あのときひたすらにそう思った。街じゅうをフラフラと歩けば時おり往来の中で通り過ぎたあの人を見つける。おどろいて振り向いてみると、しかし違う人だった。人違いと分かると何かしら失望感に襲われた。そんな気分は恋しさに似ている。けれど実際、直接顔を合わせたとき、その恋しい感情をどうしてか恐ろしいほど深い海の底へ沈めて溺死させてしまう。陽気さはいつまでも陽の目を見ることがなさそうだ。部屋中、箪笥やら押入れを覗きこんで、どこかここかとそんな浮かれたような気持ちを探しだそうとしても、そんなもの、飾り気のない自分の部屋にある筈もない。そうしているうちに、どうしてそうなのかと痛まれなくなり、気が狂うのではないかと恐ろしくもなる。その場の照れくささと、そののちにくる羞恥心のダブルパンチである。やがて、カーペットの上でゴロゴロ本を読んでいる間にそれらのことを全部忘れる。――そして今もあの人に誤解されたまま生きている――。
藍鼠みどりと会ったのはいつのことだったか、もうだいぶ前のことで覚えていない。煤竹あおは、絵葉書や年賀状の類を整理しながらそう思った。みどりの写真がその中から一枚テーブルに山になったそれらを落としてしまった瞬間ひょいと顔を出したのだ。
確かはじめは刈安に名前を聞いて会って見ることにしたのだ。だいたい刈安も勝手なのだと、今となっては思う。それもしかしあおの怠慢だ。断ろうとすれば断れたのだ。どちらともつかない気持ちのために、あのとき〝ああ〟と応えてしまったがために、役目を負わされたのだ。
そのためか刈安が持ってきた案件はやけっぱちに進めることにしていた。しかし抜かりを見せるつもりはなかった。それにしても刈安はなんであおにあの案件を引き受けさせる気になったのか、正直なところあおにはわからなかった。あお自身がしばし刈安相手に話をしていたためか、それとも周りが信用できなかったためか……。考えたところでよくわからない。あおはわからないことをわからないまま引きずっていることにむしゃくしゃした。あおはみどりの写っているその写真を見てひと思いに引き裂いて捨てた。