原作改変に臨んだ結果
「アリアンヌ・ロゼルティア、お前との婚約を破棄する」
と、いうとてもお約束な出オチをかましてくれたのはこの瞬間まではアリアの婚約者であったエドワードだった。貴族階級としては両家はお互い伯爵家。二つの家が国の根幹を揺るがす程影響力があるわけでもなく、この国の中では平凡な方だ。勿論貴族として、という言葉がつくが。
エドワードは確かに周囲に人がいる状況で婚約破棄なんてことをやらかしたが、決して声を荒げるでもなくそれを耳にしたのはあくまでもその周辺にいた数名だけだ。だからこそ、いきなり水を打ったような静けさが広がる……なんて展開になるでもなく、たまたまその場に居合わせてしまった者たちはトラブルの予感に眉を顰める程度で済んだ。
トラブル、と言えばそうなのかもしれない。だが同時にゴシップの気配もふんだんに含まれていた。
その日は公爵家主催のパーティーが行われていたが、まさかこんなところでこんなトラブルに遭遇するなんて……! と一部の者はうんざりしたように、また一部の者はオラわくわくしてきたぞ! とでも言い出しそうな表情を上手い具合に隠しつつエドワードへ視線を向け注目し始める。
対する婚約破棄を告げられたアリアンヌ令嬢は、表情を一切変える事なくエドワードの言葉を静かに聞いていた。
一見すればそれは何を言われたのか理解が追い付いていないようにも見えたし、また全てを受け入れているかのようにも見えた。表情は嬉しそうでも悲しそうでもなく、むしろ無と言った方がいい。
「……わかりました。父にはわたくしから伝えておきます」
アリアンヌがどう出るか……と見守っていた者たちは案外あっさりと受け入れたそれに内心拍子抜けしなかったかとなれば嘘になる。
確か両家の家の婚約は政略であったはずだが、それでも度々社交の場で見たこの二人はそれなりに仲睦まじく見えていた。だからこそてっきりアリアンヌが泣きわめくまではいかずとも、縋るくらいはするだろうと思っていた者もいたのだ。考え方が大層下衆であるが。
あっさりと了承し、アリアンヌはそのままくるりと踵を返してエドワードに背を向ける。もう用は済んだとばかりの態度だった。
「あ……」
と名残惜しそうな態度を見せたのは、婚約破棄を宣言したエドワードであったが……流石に目撃者が複数いる中で更にアリアンヌを呼び止めるなんて真似はできなかったのかそれ以上の行動には移らなかった。
ちょっと気を引きたいがために冗談でした、というような雰囲気ではなかった。けれど、あまりにもあっさりと頷かれた事は不本意であったのだ……というのは周囲で見ている者たちからはとても理解できる態度だった。
こうして、とあるパーティーの中で行われた婚約破棄は周囲を騒がせるような事もなく、あまりにもあっさりと終わりを迎えたのである。
あまりにもささやかなそれは、その件を知らない他の貴族にまで広まるような醜聞にはならなかった。主催者である公爵家も、何かちょっとあったみたいだな、くらいに把握はしていたが自らが開催した催しを台無しにされたと怒り狂うものでもない。話題性という点でみても正直大した価値もない。話を聞かされても「あ、そう」で済んでしまいそうなくらい、どうでもいい話であった。
多くの貴族からすればそもそもそんな事があったという事すら知らないような、ちっぽけな話題。だがしかし、たまたまその場に居合わせていた者たちからすれば、その後どうなったんだろう……程度に気になる部分はあった。
政略結婚をまさかあんな場所で破棄するとか言い出すなんてエドワードってそこまで馬鹿だった? と彼の事を多少なりとも知る者たちは首を傾げたし、いやでも婚約者だからっていつも一緒ってわけじゃないし言うタイミングがあの時しかなかったのかもしれない……と多少なりとも擁護する者もいるにはいたのだ。
だが、その擁護していた声も呆気ないほど簡単に消えた。
エドワードが縁を切られ家を追い出されたからである。
その話が出てから、今更のようにパーティーで行われた婚約破棄宣言の事もじわじわと広まる事となった。
エドワードは貴族の青年として見るならば、可もなく不可もなく……といった者であった。特別秀でた何かがあるわけではないが、平均的に優秀なタイプ。だからこそ彼が家を追い出されたという話はある意味で衝撃的だったのだ。そして、そこで今更のようにそういやあいつ以前公爵様主催のパーティーで婚約破棄宣言してたぞ。大きな声ではなかったから知らない奴のが多いだろうけど、みたいな感じで話が広まるようになってしまったのであった。
そうなると同じように注目されるようになったのが、元婚約者であるアリアンヌだ。
どうして婚約破棄をされてしまったのか。
どうしてあっさりと承諾してしまったのか。
家を追い出されて平民となって暮らしているエドワードの存在は、貴族たちからすればかつては知り合いだったけど今はほら、もう平民だからさ……と遠巻きにしている者たちばかりだったがアリアンヌは違う。彼女は貴族のままであったし、更に既に新たな婚約者が存在していた。
一体どういう理由で婚約破棄をされたのかもわからないが、本来ならばその時点で彼女には瑕疵があると思われても仕方のない事なのだ。非がなかったとしても婚約破棄された令嬢、というそれだけで傷物のような扱いを受ける事もある。
だがあからさまに噂の的にはならなかった。
何せ新たな婚約者は侯爵家の青年であったからだ。
下手な事を言ってそちらを敵に回すのはよろしくない。
それくらいは考えずとも理解できる事だ。
一体何があったのかを知りたい者はそれなりにいた。けれど、話を聞こうにも聞き出せる相手がいないのである。当事者であったアリアンヌは既に婚約者がいる状態なので、いくら気になるからとて男性が近づけば婚約者の不興を買う可能性がある。侯爵家を敵に回すまでして聞き出したい事か、と問われるととても微妙。
一時の興味本位で自分のみならず家そのものを潰すような事になるのは避けたい。
お茶会にアリアンヌを誘ってそこで何があったかを聞こうと考えた者もいたのだが、生憎と結婚の準備のために、という断りの手紙を出されてしまえばそれ以上はどうにもできない。
真相は闇の中……とばかりで一部の貴族たちはやきもきしていた。
気になる、けれど下手な憶測を吹聴するわけにもいかない。そんな事をして侯爵家が敵になったらとても困る。アリアンヌの新たな婚約者である侯爵家の青年はいかんせん人脈が恐ろしいほど広い。下手をすれば侯爵家以外も敵になる可能性を秘めているとなれば、迂闊な真似ができるはずもない。その程度には弁えている。
だからこそ、真相を知らないけれど気にはなる……そんな話題としてこの一件は完全な下火になるでもなく残り続けていた。他にスキャンダラスな話題があればそちらに食いつくが、それらが落ち着いたらまたそういやあの話はどうなったんだろうね、という具合で完全に消えるという事がなかったのだ。
未解決の迷宮入りした事件のような扱いである。デマでも真実でもせめてその後がなんとなくでもわかればまだ、こうしつこく人々の中に根付くような事もなかっただろうに。
ところが事態が変化したのは、突然と言えば突然だった。
アリアンヌ付きの侍女のもとへ、エドワードが近づいたという噂が流れたのである。
その頃にはもうアリアンヌは新たに婚約していた侯爵家の青年と結婚して侯爵夫人となっていたし、そちらに近づくのは明らかに無理であっても、彼女と共についていった侍女であれば……と思われたのだろう。街へ買い物に出ていた彼女に近づいたのを目撃していた者も数名いた。
それは市井の者もだが、たまたま街に遊びに出ていた他の家の貴族の少年たちも見ていたので噂はあっという間に駆け巡った。
とはいえ、その侍女とエドワードが会話をしたのはごくわずかな時間だ。早々に侍女が切り上げてその場から立ち去っている。エドワードもまた、それ以降姿を見せる事はなくなってしまったのでまたも事件は迷宮入り……のような事になるのかと思われたが。
真相が判明したのは、その直後の事だ。
――ビアンカ・マーレは転生者である。
転生した世界が随分前に読んだ小説ととてもよく似た世界観であった事に、ビアンカはどうしたものかと悩んだ事もあった。
内容はうろ覚えだが、ビアンカという登場人物はその作品にいなかった、それだけは断言できる。
だがアリアンヌは確か存在していたはずだ。作中ではアリアと呼ばれていたと記憶している。そんな彼女は婚約破棄をされた後、傷物令嬢として転落の一途を辿る。そうして主人公に敵対する悪役となって最後は悲惨な死を迎えた……とかそんな内容だったと思う。そういう意味ではアリアンヌも重要な登場人物とまではいかない。当て馬とか噛ませ犬とかそういう扱いだ。
世界観としては中世ヨーロッパのような雰囲気がありつつも現代日本の生活様式が所々に組み込まれている――所謂ご都合主義感満載なところだ。いやそういうのどうなん? とビアンカも最初は思ったが、しかしトイレなど中世ヨーロッパと同じ形式だったら流石にもっと問題しかないのであっさりと考えを変えた。手の平くるっくると言ってはいけない。
とりあえずトイレと風呂事情とか、不衛生よりは清潔な方がマシなのだ。インターネットとかそういうのがないというのもアレではあるが、ビアンカはそこら辺も早々に割り切って受け入れる事にした。
とはいえ、自分の人生もその流れで受け入れるとこれはマズイぞ……!? と思えたのだ。
ビアンカの生まれた家は男爵家。ところが彼女はその家の五女。家を継ぐとか以前の話だ。
家を継ぐのは長男がいるし、政略結婚しようにも目ぼしい相手がいない。長女と次女の婚約先を見つけただけでも充分頑張ったと言えるだろう。
あとは金目当てでロクでもない所に売られるように嫁ぐか、はたまた冒険者としてその身一つで稼ぎに出るか。生憎ビアンカは剣も魔法も扱えないタイプなので冒険者とか死ねと申すか!? となってしまう。そしてロクでもない相手へ嫁ぐのは流石に家族もそこまでするような人たちではなかった。
他の貴族の元で働く、という結果になったのはそういう意味ではある意味当たり前の流れだったのかもしれない。そしてそこがアリアンヌの家だった。
小説の中のアリアンヌは婚約を破棄された後からは坂道を転がり落ちるかのように転落の一途を辿っていく。家から追い出され、行くあてもないままに騙されるように娼館で働く事になり、性病を患う。稼げなくなったアリアンヌは娼館からも追い出され、そうして行きつく先はごろつきたちの所だった。主人公は確かそのごろつきたちがたまり場にしている場所から彼らを追い出すように依頼を受けた冒険者だ。結果として主人公とアリアンヌはお互い恨みがあるわけでもないが戦う事になってしまう。そして結果は勿論主人公たちが勝つ。
……正直アリアンヌに対して風当たり厳しくないか? とビアンカは思う。
いやだって、アリアンヌなんか悪い事した? ってくらい彼女に非がない。
婚約破棄されるような問題性のある女だった、とか無理に理由を捻り出してもその程度だ。
もっと性格が悪くて人を蹴落とすのが趣味だとか、甚振るのが三度の飯より大好物だとか、無抵抗の人間に暴力を振るうのが何より好きだとかいうような描写があればまだしも、そういうのもない。
ちなみに倒されたごろつきたちを従えていたのがアリアンヌであるという冤罪まで発生していた。
行くあてのないアリアンヌを性欲処理の都合のいい道具として無理矢理拾っていった悪党たちは、しかし何故だか周囲からアリアンヌの美貌に篭絡されたのだと思われていたのである。
色んな意味で酷い。
そんな、ある意味悲劇のご令嬢のところで働く事になったビアンカはそれはもう悩みに悩んだ。
このままもし婚約破棄されて小説の通りに話が進めばアリアンヌに待つのは破滅だ。しかも本人にそこまで非がないのにも関わらず。
侍女として働くようになったビアンカに対してもアリアンヌの対応は丁寧だった。理不尽な命令をしてくるでもなく、失敗したら勿論叱責はされるけどそれ以外で意味もなく八つ当たりめいたものを受ける事もない。
働きに対して褒めるべき点は褒めてくれるし、ビアンカから見てアリアンヌの所は良い職場であったのだ。
だがしかしもしこの後アリアンヌが家を追い出されたら。
多分彼女付きの侍女でもあるビアンカは勤め先を変える事になる可能性が高い。アリアンヌは一人娘だ。長男次男という兄がいるが、娘はたった一人アリアンヌだけ。となると、ビアンカが二人の兄のところに配置換えで働くというのはまず難しい。何分そちらの使用人は足りているので。
紹介状とか書いてくれて他の働き先を斡旋してくれるならありがたいが、そうでなければ自力で仕事を探さねばならない。
すぐに新しい仕事が見つかればいいが、そうでなければビアンカとて路頭に迷う。
冗談ではない……!
ビアンカは決意した。婚約破棄などさせるものかと。
だが、ふと思い出す。小説の中でどうしてアリアンヌは婚約を破棄されたのだったか……そうだ、どっちかってーとあいつが諸悪の根源じゃないか!! と今の今まで忘れていた事を思い出したビアンカは婚約破棄はするにしても、その後の転落人生は回避させねばと決意を新たにした。
アリアンヌの婚約者であるエドワードは有体に言えば浮気をしていた。
そして自分に非があるのはわかっていたがそれでも責を負うつもりがなかったがために、悪いのは向こうだとばかりに陰で悪評をばらまいていたのである。だからこそ、悪女のような扱いを受けて最終的に悪党どもを手玉にとっていた、なんていう噂が出たのだ。
完全にアリアンヌ被害者じゃん! という思いを持ったものの、果たしてこの世界が小説通りに進むかもわからない。もしかしたら他の理由で婚約を破棄される可能性もあるのだ。それこそ、本当にアリアンヌ側の非となるような理由でもって。
彼女が家を追い出されるような事になれば、自分の将来も危うい。今いる職場がクソならともかく、いいとこ辞めて次の職場が劣悪な環境だったらと思うとやってられない。自分の生活の安寧を守るために、ビアンカは行動に出たのである。
まずはエドワードの周辺を調査した。
そして奴が浮気をしている証拠をゲット。よっしゃここまでは原作通りだな。証拠があれば言い逃れもできまいよざまぁ!
だがしかしこれだけではパンチが弱い。もっとこう、完全に向こうが悪いし婚約破棄も当たり前だしアリアンヌは悪くないって事にしておかないと、アリアンヌの両親が家を追い出す結論をまかり間違って出してしまえばそれもアウト。
で、調査していくうちにエドワードの実家とアリアンヌの家とで提携して行っている事業にビアンカは注目した。トカゲの尻尾切りじゃないけど、ちょっと悪い噂流されただけでアリアンヌが家を追い出されるのはおかしい。事前にエドワードの家から何かこう、アリアンヌに関する不利な嘘情報でも流されてたんじゃないの~? と疑ってビアンカはこっそり調査に乗り出した。
こう見えてビアンカ、前世は一時期探偵事務所でバイトをしていたのでそういうのは得意だった。影が薄くどこにでもいそうな平凡な女。存在感を極限まで消して行動するためか、足音を消して歩くのは最早癖というより当たり前の行為だ。全力疾走だと足音を完全に消すのは難しいが、軽く走る程度であれば足音を消しての走行も可能。
前世の経験が大いに役立ってしまったのである。
結論から言うと、アリアンヌの母親がエドワードの家の者と浮気していた。具体的に言うとエドワードの叔父にあたる人物である。エドワードの父親とじゃないだけマシかもしれないが、それにしたって浮気はあかん。アリアンヌの父が知ったら確実にブチ切れる案件である。
この世界、カメラだとかICレコーダーといった文明の利器はないが、魔石を用いたアイテムは存在する。そのアイテムがカメラだとかレコーダーと同じような働きをしたりもするので、証拠はバッチリである。
アリアンヌが婚約破棄されただけでああも転落するとかどういう事だと思っていたが、裏でエドワードがアリアンヌの悪い噂をせっせと振りまいて、ついでにアリアンヌの母とエドワードの叔父が自分たちの醜聞を隠すためにアリアンヌを陥れたというのが見事なまでの転落っぷりの真相のようだ。実の母からも陥れられるとか、前世でアリアンヌは一体どんな業を背負ったというのか。
アリアンヌの父も話の中ではあまり存在感がなかったが、妻に浮気されてたとか父娘不憫すぎんか。これ多分母親が唆してアリアンヌを追い出した後、お父さんも騙されるか何かで財産食いつぶされるか身に覚えのない有責事項積み重ねられて離婚とかされててもおかしくないんですが……
ともあれ証拠はもうこれ以上必要ないだろ、ってくらい集めた。集める事ができてしまった。
正直ビアンカも自分で自分にドン引きした。途中で証拠集めバレたりしてあちらさんが雇ったごろつきに襲われる展開とかあってもおかしくないくらいに集めすぎてしまった。アリアンヌの母に至ってはエドワードの家と提携してる事業から資金横領してるもの。浮気相手と一緒に。こんなんバレたら一発アウトですわ。保身のためにアリアンヌにありとあらゆる罪をおっかぶせたんだろうなぁ……と、ビアンカは察してしまったくらいだ。
これらすべてをアリアンヌがやっていたのだ、となったならそりゃあ家を追い出されるわけだ。生かしてあるだけ恩赦とか言われる事だって有り得るレベル。
だがしかしアリアンヌを追放されるわけにはいかないのだ。己のそこそこゆるくやっていける職場のために。
アリアンヌの母やエドワードが己の保身のためにアリアンヌに全ての罪を擦り付けるというのなら、ビアンカもまた己の為にこいつらサクッと破滅させちゃお☆ という考えになっても正直何の罪悪感も出てこなかった。アリアンヌの為に、とかいう理由は全体の一割あればいいほうである。
そういうわけでとても神妙な顔をして「お嬢様にお話が……とても重要な事なので旦那さまにも同席していただけると……あ、奥様は結構ですので」とビアンカはアリアンヌに伝えたのである。
アリアンヌの母が不在の時を狙ったので、母も同席させた方がいいのでは? でも今いないから帰ってくるのを待ちましょうか? とか言い出しかねないアリアンヌは、そこまで言われた以上でも母も同席させた方が……と食い下がるような真似もしない。
どんな重要な話かと思いつつも、絶賛仕事中の父のところへビアンカを伴い向かう事にしたのだ。
結論から言って、アリアンヌの父の顔はびっくりするくらい赤く染まっていたし、アリアンヌの顔はその逆に真っ青だった。無理もない。
妻による裏切り。
母から見捨てられたという事実。
更には婚約者の裏切り。
いくら貴族が他者を蹴落とすような真似もする事があるとはいえ、いくらなんでもここまで纏めてやる事はなかろうよ、と言いたくなるくらいの代物だった。というか蹴落とすにしてもそれは政敵だとかそういうものであって、身内に対してそうなるとか余程の事すぎて中々考えない。
ビアンカの発言だけならアリアンヌの父も確証がないうちにそのような事を言うものではない、と窘めたかもしれない。だがビアンカはこれでもかというくらいに証拠を集めてしまっている。
全部に目を通してはいないが、一部だけ見て正直お腹いっぱいだった。
何が酷いって、アリアンヌの母はエドワードの叔父と浮気した挙句どうやら子ができたようなのだ。夫であるアリアンヌの父とそういう行為をした事はここ最近全くない。だが証拠品の中の音声が保存されたものからは、近々夫とそういう行為をするように仕向けるとかのたまっていたものもあった。托卵である。
既にこの家の跡継ぎが決まっているとはいえ、それが安泰だとも限らない。何らかの手段でアリアンヌの兄二人を殺してしまえば、そしてアリアンヌが追い出されれば生まれたその子が跡継ぎになる。例えこの家の血を引いていなくとも。
「――時にビアンカよ。そなた、いつから妻が怪しいと……?」
「あ、いえ。あの、エドワード様が最近アリアンヌ様以外の女性と行動しているとかいう噂を耳にしてそちらを調べた結果つるっとこちらの情報も揃ってしまいまして……」
正直ビアンカはアリアンヌの身の回りの事をする立場だ。彼女の母親とは正直あまり接点がない。だというのに怪しいと思えるような何かを見た、とか言うのは流石に嘘くさく思われかねない。
だからこそこっちは本来の情報を集めている時に偶然得てしまったものだという事にした。
流石に転生して前世で知った情報から推理しました! とか言おうものならもうそれだけで信用されない可能性が大きすぎる。そんなトンチキな理由を言われたらビアンカだって病院行けの一言で終了させてしまう。
例え真実だとしても説得力のない言葉は信用されないのだ。
机の上にこんもりと存在する音声記録魔石だとか、映像記録魔石だとかを見てアリアンヌもその父も何とも言えない表情を浮かべている。
ロゼルティア伯爵は予想外の所から降ってわいた出来事に頭がくらくらしたが、それでも、と持ち直す。怒りのあまり血管ブチ切れそうだがここで倒れるわけにもいかない。
家を乗っ取られるような事は避けねばなるまいし、ましてや大切な娘のアリアンヌをこれ以上傷つけるわけにもいかない。
「……ビアンカよ」
「はい」
「これらの魔石にかかった費用は後日支払いでいいか?」
「勿論です。あの、あとこれはとても余計なお世話かなと思うんですが……」
言ってみろ、と目で促されたビアンカはやはり小説で得た知識を用いてある提案をする事にした。
――結論から言おう。
あの日、公爵家で行われたパーティーでの婚約破棄はエドワードが宣言する以前に既に撤回されていた。
エドワードの父にはロゼルティア伯爵から話を通し、お前の所の息子婚約者放置して浮気三昧なんだがどういう事だ? あとうちと提携してる事業だけどうちの妻とお前の所の弟が浮気してる挙句資金横領してるんだけどこれもどういうつもりだ? 妻に関しては一方的にそっちが悪いとは言えないけど、娘に関してはそっちが悪いよな? という事を貴族風にオブラートたっぷりにして問い詰めた結果、それはもう愉快な結果になった。
まさか自分の弟が家の繋がりで上手く付き合ってる家の夫人と関係を持ってるとか流石に気付いていなかったし、息子も結婚を前にちょっと他に目を向けているとはいえその程度だろうと軽く考えていたのだが、出された証拠の数々はエドワードの父も卒倒しかねないものばかりだった。
今からどう言い繕ってもどうにもならないレベル。
結果としてエドワードの父はエドワード本人と話をする間もなく婚約の撤回を承諾する事になったし、更にそれ以外の賠償金も支払う事となった。
ちなみにロゼルティア伯爵は妻にも証拠を突き付けてとっくに離縁もしていた。あの男のところへ行けばいいんじゃないか? なんて追い出されたがそれが貴族たちの間での醜聞とならなかったのは、エドワードの父が話が広まらないようにしたに過ぎない。
金を横領して好き放題していた弟とアリアンヌの母は、人知れず追い出された。勿論余計な財産など渡すはずもない。むしろ今まで使った分を考えればそんなものが渡されるはずもないのだから。
お互いの家で提携していた事業に関しては、一部見直しが必要になったのでという風に持っていって上手い具合に分かれる事になった。その話題を流した事で、裏にあった人間関係のドロドロした部分はこれまた運よく目を逸らす事に成功したといった感じだった。
ロゼルティア伯爵が離縁したという話も、そこから少し遅れて妻が病気のため実家にて療養するためにどうこう、みたいなありそうな感じの話で噂を流したのでこれらの醜聞が大きく知られる事はなかったのだ。
ちなみにアリアンヌの母の実家は隣国で、実の所既に家そのものは存在していないのだがそこまで知る貴族は少ない。そこに引っかかる者が出たとしても大体の事は察するだろうしわざわざ深入りしてまで探ろうとも思わないだろう。
とはいえ勘の良い者はその後の婚約破棄宣言だとかで薄々何かを感じ取ったとは思う。
だが、出ている情報から考えられるものは精々エドワードがのたまった婚約破棄によるものから事業が分割される事になったのだろうな、という程度のもので。
ある程度の事を知る者はいたが、実際の真相を知る第三者などいなかったのである。
ちなみに追い出されたエドワードは浮気相手でもあった女の所へ身を寄せようとしたようだが、浮気相手はエドワードの顔と身体と金目当てというとてもわかりやすいものだったため、いくら顔と身体がよくても金もない男はごめんだわ、とあっさりとエドワードを捨てた。女の方に男を養うだけの財力があれば話はまた違ったかもしれないが、そうはならなかったのである。
こうして路頭に迷ったエドワードは日々微々たる稼ぎしか出ない仕事でもって食いつないでいたわけだ。
そんなエドワードがビアンカに接近したのは、どうにかこの生活から脱却しようとしたからだった。
婚約者だった頃に何度かビアンカとも顔を合わせている。直接ロゼルティア家に行ったところで追い返されるのは目に見えていたし、既にアリアンヌは嫁いでいる。嫁ぎ先に行こうものならエドワードはタダでは済まなかっただろう。
もうアリアンヌは結婚して夫がいるというのに、それでも彼女とよりを戻せば何もかもうまくいく、とエドワードは思い込んでしまっていた。そもそもよりを戻せるはずもないというのに。大体浮気して陰でコソコソ自分の悪評を流していたような男とよりを戻そうと考える女、普通に考えているはずもないだろうに。
浮気されていたという事実を知ったアリアンヌは確かにショックを受けていたし、更には自らの悪評まで捏造されて流されていたという事に傷つきもした。
アリアンヌが手弱女であったなら今でもきっと塞ぎ込んでいたに違いない。だが今の彼女には浮気もしないし自分を愛してくれる伴侶がいる。夫と、かつての婚約者だったことすら正直黒歴史な存在とを比べたとして――何故、いけると思えるのかビアンカは不思議でならなかった。
そのあたりを丁寧にビアンカも指摘したのだが、でも実際に自分と会えばアリアンヌもわかってくれる!! と根拠なんてどこにもない断言をされる始末。
うっわこいつの脳天斧でカチ割りてぇ……とビアンカが思うのも無理からぬ事だった。手元に斧がないからやらなかったけど、あったらやってた。エドワードがこの時点で生きていたのは、道端に斧が落ちていなかったからだ。彼は運が良かった。
うっかり通りすがりの樵が「おっとオラの仕事道具の斧を落っことしてしまっただよ」とかやってたならその時点で死んでいたのだ。
たまたまうっかり仕事道具を落とすような樵が通りすがらなかった事をエドワードは天に感謝すべきなのだろう。
――さて、エドワードがアリアンヌに取次いでくれとビアンカに迫っていた事は既にある程度の者たちは知っていた。けれどビアンカが何といって彼を追い返したのかまで知る者はいない。
だがそれを知る機会は、思わぬところで訪れた。
ビアンカの一つ上の姉、彼女もまた家を出て他の貴族の令嬢の所で侍女として働いているのだが、そんな彼女とばったり街中で遭遇したのだ。ビアンカもその姉もお互い時間は余っていたので、久々の近況報告のような感じで近くのカフェへと足を運んだ。
そこは平民もそうだが、身分のあまり高くない貴族たちもそれなりにいたし、身分が上であろう貴族も時折お忍びでやってくるような場所だった。
ある意味噂の人でもあるビアンカの姿を見かけてか、興味本位でカフェにやってきた者たちもいた。
ビアンカはそれに気付いていたけれど、まぁいいか、と見ないふりをしていた。姉も久々にお話しましょう、と誘ってきたが、ビアンカは姉が何を聞きたいか勘づいている。
だが正直ちょっとだけ気乗りはしなかった。
エドワードを追い返した言葉に関して、ちょっとどうかなと我ながら思っていたもので。
渋るビアンカに、姉は苦笑を浮かべていた。
「淑女としてあり得ない言葉を使ったとしても、仕方ないわ。だって彼、最初に断った時に食い下がったのでしょう? 話し合いがマトモにできないのなら、多少言葉が汚くったってやむなしよ」
まぁそれにしたって限度はある。
ビアンカの姉はこの時点でビアンカが「うるせぇこの馬鹿! 二度と顔見せんな!」とかそんな低俗な発言でもしたのだろうと思っていた。貴族としても身分の低いビアンカが庶民が使うような崩れた言葉遣いをしていたとしても、まぁ仕方ないわよね……とも。
周囲で聞き耳を立てていた者たちも同じような考えだった。
既に平民となったエドワードに、貴族としての振る舞いで煽りに煽って返す言葉がないうちに立ち去ったとか、考えたとしてもその程度だった。
店内にいたビアンカの知り合いも、できれば聞かせていただきたいわ、なんて声をかけ始める。見ればほとんどの席はあの時何があったのかを知りたい野次馬で満ちていた。
お前ら全員暇か……と言いたい衝動にかられたものの、中には自分よりも身分が上だと思われるお忍び貴族がいたのでその言葉は呑み込んだ。
姉一人くらいならまぁ、とか思っていたが流石に店内の客ほとんどが耳を大きくしてワクワクしているのを見て、ビアンカは大分悩んだ。いや、周囲に野次馬根性丸出しなのがいるな、とはわかっていたけれどまさか姉と一緒になって知りたいなんて声をかけてくる事までは想定外だったのだ。
ここで言わないと何だか後々面倒な事になりそうな気がする。
でも、言うのは躊躇われた。何故ってここが飲食店であるがゆえに。
「……あの、正直お食事中に話すようなものじゃないのですが、それでも……?」
悩んで悩んだ末に、ビアンカはそう声を絞り出した。姉に向けてというよりは、周囲で耳をそばだてている者たちに向けて。
恐ろしい事にビアンカのその言葉に、誰もやっぱやめとく、とはならなかった。
「あとから苦情とか困りますけど本当に……?」
「構わん話したまえ」
よりによって身分が上っぽいお忍び貴族から言われてしまった。
「この話他に吹聴するにしても、エドワードに言った言葉はやむなく、だったのでその、わたしが普段から下品だとかそういう風な感じには……」
「安心したまえ。フォローはしよう」
うむ、と鷹揚に頷かれてしまってはもうビアンカに逃げ場はない。
姉だけに話すくらいならどうにかなっただろうに……とは思うものの今更だった。
仕方なくビアンカは「とても汚い表現になるんですけれど……」と前置きしてから話始めたのだ。
エドワードに向けて放った言葉を。
――そもそも、エドワードとの復縁などあり得るはずがない。アリアンヌが万が一彼の事を許したとしても、夫となった侯爵が許さないだろう。何せ彼、小説の中では主人公たちに力を貸す側だった。
実の所彼はアリアンヌに恋い焦がれていたのだが、その時点でエドワードとの婚約がされていたためにその恋心は秘めたままだった。しかしその後アリアンヌは婚約破棄されてしまうわけだ。
その後、本当ならすぐにでもアリアンヌとの婚約を結ぼうと思っていた青年だが、婚約破棄された翌日とか流石に不幸のどん底にいるだろう令嬢に対してどうなんだろう……と少し時間を置く事にした。
小説内だとその間にアリアンヌは家を追い出され転落人生が始まるわけだが、青年がどうにか手を打とうとしているものの対応は後手に回りっぱなしだったのだ。
そしてごろつきを手玉にとっているという噂が出回った頃には、真相を確かめたくて主人公たちに依頼を出したとかそういう感じだった。
出会うタイミングがもうちょっとどうにかなっていれば、侯爵である青年はアリアンヌを救えたかもしれない。だが彼女は小説内では助かる事もなく死んだのである。
アリアンヌの母の浮気と、エドワードの浮気の一件をロゼルティア伯爵にぶちまけた時、ビアンカはある提案をした。
この侯爵青年にアリアンヌとの婚約持ち掛けてみたらどうでしょう、と。
ロゼルティア伯爵は彼の名を出された時、あまり接点がないため躊躇った。それでなくとも身分は侯爵が上。向こうから持ち出された話ならともかくこちらから持ち出すとか礼儀を欠いていると言われてもおかしくない行為になる。
だがビアンカはそれでもその案を出した。
上手くいけば青年は恋い焦がれていたアリアンヌを妻に迎え入れられて幸せ。アリアンヌも傷物令嬢なんて噂が出る前に相手が決まるかもしれない。ついでに侯爵家と縁が繋がればロゼルティア家も安泰でどっちもハッピー。まぁダメ元で是非、とビアンカが言った結果、とても悩んだロゼルティア伯爵だったが最終的に本当にダメ元で手紙を出してみたのだ。
結果、とても色よい返事が返ってきた。というか食いつき具合がすごかった。
ほとんど接点なんてなかったからアリアンヌだけが最初のうちは戸惑っていたが、エドワードと違い自分をとても大事にしてくれる青年に気付けばあっという間に恋に落ちていた。
そんな幸せいっぱいな二人の仲を裂けるとも思えないが無駄に不快感を振りまきに来ようとしていたエドワードに対して、ビアンカが優しくしようと思うはずもない。
「以前何かで見たか聞いたかしたんですけれど……えぇ、その、浮気ってほら、知らないようにやってくれるならされてる方は知らないんだから無いのと一緒じゃないですか。でも、知ったらやっぱり不快ですよね。
なんていうか、トイレとかにカトラリー落っことしたとして、拾って綺麗に洗ったとしても、それを使えるかってなったらやっぱほら、気持ち的にはイヤじゃないですか……
そもそもトイレにカトラリー持ち込むなって話だけど、例えですよ? そういう話を前にどこかで……えぇ。
それで、エドワードにもそう言ったんですけど、それでもしつこくて。
綺麗に洗ったなら大丈夫じゃないか、とか彼ホントにちょっと前まで貴族だったかどうかも疑わしい事言いだしちゃって……あ、このたとえ話で駄目なのかって思ったから、つい。
あの、ここから先本当に汚い話なので。大丈夫ですか……? そうですか。では。
例えばの話だけど、貴方がトイレに行ってう●こしたとするでしょ? で、それ流したとしてよ? その時点でもうそのう●この事なんてどうでもいいわけじゃない? 流しちゃえばあとはもう下水から処理場まで流れてくだけだし、わざわざ思いを馳せる事もないわけ。
でも、そのう●こがよ? 何を思ったか処理場から逆流して下水遡って貴方の家のトイレに戻って来て『やっぱり貴方の所にいたいので戻ってきました。受け入れて下さい!』なんて言ったとして、あんた、素直に尻の穴向けて受け入れるの? そりゃ出す前は体内にあったわけだけど、出した後、下水流れてった他の汚れもついたであろうう●こを体内に戻そうとか考える? あり得ないでしょ。絶対なんか変な病気持ってそうだもの。
で、そのう●こ同然の男によりを戻そうなんて言われて、うちのお嬢様が有難がると思う? むしろ汚らわしい以外のなにものでもないんだけど。てか、旦那様と比べて貴方が勝てる要素ある? 身分は平民落ち。浮気するような節操のなさ。これだけでもうう●こすぎるでしょ。そんなのとどうしてくっつこうとか思うのようちのお嬢様が。
ね? う●こはう●こらしく弁えて下さいません?
――と、申し上げましたところ呆然となさったので立ち去るなら今だ! と……」
ビアンカが話し出す前はざわざわとしていたカフェの中は、今ではしんと静まり返っていた。
確かに汚い表現だった。
汚いとしか言いようがない。
う●こと連続で言われて正直ちょっと食欲が失せた者もいた。平気な者もいたけれど、まぁでもやっぱりいい気持ちはしない。
けれども話を聞きたいとのたまったのはこちら側。ビアンカが無理矢理聞かせたわけではない。気まずそうな顔をしているビアンカに文句を言える者などいなかった。
話したまえ、とか言ってたお忍び貴族も何と言っていいのかわからない、といった具合で「Oh……」と声を漏らすだけだった。びっくりするくらい発音が良かった。
「あの、他の方にお話するにしても、その……」
「あぁ、配慮はしよう」
お忍び貴族が頷いた事で。
その場にいた一同もそうだね、とばかりに頷いた。
公爵家主催のパーティーで行われた婚約破棄から始まった一連の出来事はかくして終わりを迎えた。婚約破棄自体大っぴらだったわけじゃない。だからこそその顛末もそこまで大っぴらにはならなかった。
いや、大っぴらにするには難しいものがあったという方が正しい。
だがそれでも、じわじわとその話は広まっていったのだった。
さて、ようやくあの一連の出来事がどうなったか、を知る事のできた者たちは溜飲が下がったわけだがそうならなかった者もいる。
カフェには貴族たちだけではない。平民だって一応いた。
そしてエドワードが平民となってから多少関わるというか話をする事があった者も中にはいたのだ。
エドワードが日銭を稼ぐための仕事などで関わる程度の間柄、といった具合であったが。
そんな者たちはエドワードと会うたびに揶揄うように、
「よぅ! う●こ野郎」
なんて声をかけたりもしていた。
ビアンカに散々う●こ呼ばわりをされた後のエドワードは人前に極力出ないように仕事を選んでいたのだが、けれどそこで関わる者たちにまでそう言われるようになり――気付けば彼は街を出てしまったようだ。
アリアンヌとの復縁は不可能。更には最低限の関わりしかない者たちにまで揶揄われる始末。
であればこの街に留まり続ける理由もないのだろう。
他の土地ならば、まぁ、この街よりはエドワードに関しての噂はそこまで広まっていないと思われるし、やり直せるかもしれない。
小説の中のエドワードは正直婚約破棄をした後浮気相手とくっついたとかどうとかいう程度にしか出てこなかったので、その後の人生が幸せかどうかは微妙な話であったけれど。
間違いなく彼は今、小説の中のエドワードよりも不幸であった。
とはいえ、自業自得である。
そしてもう一人。
この一件の後、周囲の環境が変わった者がいた。
ビアンカである。
彼女はアリアンヌの夫である侯爵に、にこやかに諜報員として働くように言い遣わされた。
目立たず周囲に紛れるその技能。足音なども立てず静かに潜入できる特技。個人的にこれで戦えるだけの力があれば暗殺者などに向いていたかもしれないが、ビアンカはそういったものは壊滅的だったので血なまぐさい方向に転換する事もなく、しかし危険が付きまとってそうな予感しかしない仕事をするように言われてしまったのである。
アリアンヌを救うため集めた証拠の一件。
そのついでにロゼルティア伯爵の妻だった女の裏切りの証拠まで集めてしまう手際。
それは侯爵から見てもまさしく素晴らしいものだった。
ついでにアリアンヌの新たな婚約者にと自分を推したのもビアンカであるという話を妻から聞いて、これはもう諜報員こそが彼女の天職であろうと思ってしまったのだ。
彼がアリアンヌを愛しているという事は秘めていたのだ。そもそも出会いだってほんの一瞬、一目惚れのようなものだった。今の今までその想いに気付いた者などいなかったのに、ビアンカだけはそれをどうしてか見抜いたのだ!
こんな逸材を侍女にしておくだけだなんて、そんな勿体ない事できるわけがない!!
というわけで、ビアンカは拒否権何それ美味しいの? とでも言いそうになったものの言えるわけもなく、侯爵家の諜報員として働く事になってしまったのだ。この家が安泰であるなら妻のアリアンヌも安全であると言われてしまえば逆らえるはずもない。
ゆる~く働いていくつもりだったのにどこで間違ったんだろう……と思わなくもなかったが、しかしアリアンヌを助けなければ路頭に迷っていたかもしれない。助けないという選択肢は存在してなかった。
小説の内容通りにしていれば、間違いなくアリアンヌの最期は悲惨なものだっただろう。だからこそその内容に逆らうように変えるべく動いた。
結果としてきっと自分の運命も大きく変わっただけだ。
とはいえ、ゆるく働ける職場からは程遠くなってしまった事にややしばらくビアンカは嘆く事になったのである。お給料がとんでもなくアップしたのが救いかもしれない。