初恋の話でもしましょうか
屋敷に戻ると、エリサお嬢様が、予想通り何か言いたいことがあるような顔でこちらを見てくるが、何食わぬ顔でお茶の用意をする。
実は、あのマドレーヌの残りももらっちゃったんだよね。甘すぎるから、持って帰っても食べる奴いなくて腐らすだけだ、とか言って。
私も少し、目をきらきらさせすぎたな。
どうしようか少し迷ったけど、一緒に出すには量が微妙すぎるので、ありがたく、後で自分の部屋で頂くことにする。
何だかんだで人が良いのよ、ジェイクは。
だからこそ、受勲の報告は、嬉しかったけど、少しさみしくもあったのだ。
私が平民になったら、今度はジェイクが貴族になってしまうのだもの。
美しく盛り付けられたお菓子と私が淹れた完璧な紅茶に一応歓声はあげてくれるものの、どこか気もそぞろなエリサ様。
ほらお菓子! ちゃんと見て! 普段使いのものより上等なやつだから!
奥様と弟のスタンリー様はちゃんと喜んでくれていて、とりあえず私の買い物は報われた。お二人がいらっしゃる場では、さすがに何も言われなくて安心した……けど。
「ヴィッキー!」
部屋に戻る私を、エリサ様が追いかけて来た。やっぱりね。しょうがないなあ。にこやかな笑顔を作って振り返る。
「エリサ様、淑女たるもの、廊下を走ってはいけませんね」
「聞きたいことがあるんだけど、今日ヴィッキーの知り合いだっていう男性が訪ねて来たんだけど、ちゃんと会えた? あの人はヴィッキーの恋人!?」
やんわりとした注意をあっさり無視して直球の質問をぶつけてくる。
「恋人ではありませんわ。昔うちにいた者ですの。お嬢様に取り次ぎを頼むなんて、礼儀のなっていないことで申し訳ありませんでした」
「それだけ?」
「それだけです」
いまいち納得しきれていない顔で見てくるけど、本当に何も隠してないのよ。
「素敵な方だったわ。背が高くて、しゅっとしてて。わざわざうちに訪ねてみえるなんて、てっきりヴィッキーと親密な方かと思ったのに」
うん、普通はそう思うよね。でも違うの。朴念仁なだけなの。何も考えずに、ただ報告しにきたんだろうなあ。
「そういえば、エリサ様のファーストダンスのお相手ですけれど、奥様に訊いたら、エリサ様と私に任せるということでした。どなたか踊りたい方はいらっしゃいますか? 出来るだけ、ご希望を叶えられるように頑張りますわよ」
「わからないわ。うちってこの国に親戚いないから、知り合いの殿方なんて、ほとんどいないもの」
「お友達の、ご兄弟だとか、お知り合いとか」
エリサ様はちょっと考えて、首を振った。
「やっぱり、いいわ。一緒にダンスを踊りたいと思う方は思い浮かばない。ヴィッキーに頼んだ方が、良い方連れてきてくれそう」
「まあ、責任重大ですわね。舞踏会には、色々な殿方がいらっしゃいますから、エリサ様と合う方に、巡り合えたら良いですわね」
「何だかぴんとこないのよね。この国に来る前は、男女問わずにたくさん友達がいたのに、こっちに来て貴族になった途端、男の人と遊んじゃ駄目。その代わり舞踏会に行ったら必死でパートナーを捜しなさい、って。貴族の恋愛事情がよくわからないわ」
確かに、その気持ちは少しわかる。
貴族階級に生まれると、結婚は家同士の誓約みたいなもので、恋愛感情の有無なんてほとんど気にならないのが当たり前だと思っていたけれど、当たり前のように自由恋愛できた立場の方が、いきなり縛りだらけの貴族のルールを見ると、違和感だらけだろうなあ。
ふと、エリサ様が思いついたように言った。
「ヴィッキーって、昔は貴族だったんでしょう? じゃあやっぱり、舞踏会に出たりした? 初めてのダンスは誰と踊ったの? エスコートは?」
他人のことだと目を輝かせるな、この子は。割と聞きにくいこともこうさらっと言われると、苦笑するしかない。
「ええ、これでも、まあまあダンスのお誘いは多かったんですよ。最初のダンスは……三つ年上の従兄だったかしら」
いや、違うな、その頃従兄は留学中でこの国にいなかった。そうだ、それで、友人のお兄様にお願いしたんだった。名前は、忘れてしまったな。
そう言うと、エリサ様は大きな目をまんまるにして驚いていた。
「ヴィッキーったら、信じらんない! いっつも初めての舞踏会は一生思い出に残る大事なものだから、完璧になるまで練習しなさいって言うくせに、自分はちっとも覚えていないじゃない!」
「そうねえ、練習は大事だと思います。だってみんなの前でダンスを失敗でもしたら、ずっと恥ずかしいじゃないですか」
ふと、この年下の主人に、誰にも打ち明けた事のない私の初恋を、告白してみたくなった。
「その頃私には好きな人がいたので、そちらに夢中でしたの。素敵なドレスもダンスも、その方に見てもらえないなら、どうでも良かったんでしょうね」
「……好きな人が、いたの?」
「ええ、エリサ様よりもずっと小さい頃からね。誰よりも一緒にいたのに、お城へは一緒に行けないと知った時、眼の前が暗くなったものです」
結婚できないのは何となく知っていたけれど。
執事のアルベルトさんは、幼かった私達にも厳しく身分について説いていたけど、その理由がはっきりわかった時、子供ながらにショックで、しばらくダンスの練習も勉強も、ボイコットしてしまったほどだった。
「どんな方?」
「うーん。武骨で、剣術にしか興味がなくて、朴念仁で、すぐに私を置いて遠くへ行ってしまうような……」
「あ、あんまり、素敵な人に思えないけど」
「でも、優しい人です。肝心な時には絶対に見捨てないで、手を差し伸べてくれる方」
しまった、自分で言っておいて、もの凄く恥ずかしい。
「ヴィッキー、もしかして、それって」
エリサ様は敏い方なので、何となく誰のことを言っているのか分かったのかもしれない。
私は何も言わずに、指を口の前に立てて、秘密ですよ、のポーズをした。
こくこくと頷くエリサ様に笑って、レッスンの再開を告げる。
「そういえば、廊下を走ったんでしたね。もう一度、ドアの前から歩き直してください。エレガントにね。王宮では、それこそどんな細かい立ち振る舞いも、必ず誰かから見られているものですよ」