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ヴィッキーの父であり、ジェイクの父母の主人でもあるハミルトン伯爵の訃報は、ジェイクにとって寝耳に水の出来事だった。
広大な土地を治める領主としては、ちょっと心配になってしまうほどの人の良さで、使用人の息子であるジェイクや兄のアーチーにも、丁寧な態度を崩さない人だった。
まさかその彼が借金を作っているなんて思っていなかったし、かろうじて埋葬に間に合ったジェイクが見た伯爵の亡骸は、よく知っているふくよかな彼ではなく、すっかり痩せこけていて、晩年の過酷さを思わせた。
「父の葬儀に来てくれて、ありがとう。ジェイク」
そう言って喪服で出迎えたヴィッキーも面やつれしていた。数年前の宮廷舞踏会の夜に見て以来だったので、余計に落差が痛々しかった。
どうして、と喉まで出かかった言葉を抑える。
どうして教えてくれなかったのか、なんて、そんなことを言う資格は自分にはなかった。
ヴィッキーからの手紙の頻度が減ったのは、単に自分への興味がなくなったからだと思っていた。あるいは、とうとう、人生の伴侶でも見つけたんだろうか、とも。
一度でも帰省すれば、それどころではないことなど一目瞭然だっただろうに。
彼女が一言も自分の苦境を漏らせなかったのは、自分のせいだ。
この屋敷からもヴィッキーからも逃げたがっていたジェイクの気持ちを、見透かされていたような気がした。
ヴィッキーの母であるマーゴット伯爵夫人は身も心も弱い人で、ここのところ寝ついていると、執事である父に聞かされた。
では葬儀の段取りも弔問客への挨拶も、細かいことは使用人がやっているとはいえ、前面に立っているのは、娘のヴィッキーなのだろう。
「……何か、俺にできることは、ありますか」
謝罪もねぎらいも、今のヴィッキーは受け取ってくれないような気がして、そんなぶっきらぼうな問いかけになった。
「もうちょっと、帰らないでいてくれる?」
話し相手になってよ、と少し笑うヴィッキーに、そんなことで良いのかと思う。ヴィッキーがジェイクに望むのは、その程度のことでしかないのか。
葬儀の面倒ごとだろうが、借金の肩代わりだろうが、彼女が望むなら、何だってやってやるのに。
ハミルトンの屋敷は、地元の人達からライラック邸と呼ばれている。
広い庭に何百本ものライラックの木が植えてあり、初夏には、白や薄紫の花が咲き、一面芳しい香りに包まれるのだ。
庭は領民に解放されるので、花を愛でる人達で、にぎやかになるのだった。
今はシーズンではないので、誰もいない。
花が付いていない枝は寂しげに見える。
そのさびしい庭をふたりで歩いていた。こうして歩くのも、随分と久しぶりだった。
「これから、どうしようかなあ」
ぽつりとこぼれた言葉は、いつもの淑女らしい口調ではなく、限りなく素の話し方だった。
「どうって」
「爵位を継ぐのか、放棄して平民になるのか、早目に選ばなくちゃね」
さらりと発せられたヴィッキーの言葉に、ジェイクは口も聞けないくらい衝撃を受けた。
平民になる。ヴィッキーが。
思ってもいなかった選択肢だった。
貴族制度という垣根は、強固にヴィッキーとジェイクの間に巡らされていて、容易には越えられないものだと、ずっと思っていたのだ。
ずっと何とかしてそちらへ行きたくて、必死だった。ヴィッキーの手を取る資格が欲しくて仕方がなかった。
駄目かもしれない、と思うことも何度もある。
騎士になってお嬢様を迎えに行くなんて、馬鹿げた夢物語でしかない。そんなことをしている間に、ヴィッキーは早々に恋人をつくり、幸せな結婚をしてしまうだろう。
でも、ヴィッキーが、こちらへ来てくれるのなら。
絶対に届かないと思っていた彼女が、自分のところまで堕ちてくるかもしれない。
「どうしたの? ジェイク。顔色が悪い」
怪訝そうにヴィッキーに聞かれて、ジェイクは我に返った。
咄嗟に顔に手をやる。自分は今、どんな顔をしていた?
この上なく幸せそうに、笑っていなかっただろうか。
悲嘆にくれている、ヴィッキーを目の前にして。
結局その後、ヴィッキーは、爵位の全てを他人同然の遠縁に譲渡する手続きをして、領地を去った。
屋敷の使用人は、そのまま残れることになった。一部の希望者には暇を出したが、それでも大部分の者が職を失わずに済むことにヴィッキーは安堵していたようだ。
ヴィッキーの母親であるマーゴット元伯爵夫人は、都会での生活が出来ない人だった。
社交シーズンでさえ、王都に出ようとはせず、領地に引きこもりがちだったのだ。
未亡人となった彼女は、通常なら実家に戻るところだが、実家は既にマーゴットの兄が継いでいた。話し合いの末、資産家の家に嫁いだ仲の良い妹の家に世話になることになったらしい。
体調も思わしくないので、のんびりとできる、比較的田舎に領地を構えている妹の屋敷が最適だった。
母娘が当面暮らしてゆくだけの金額は、持参金の返還という形で、新ハミルトン伯爵から手渡されたようだ。
ヴィッキーはそれをそっくり母親に渡してしまったのだと、マーゴット本人から聞いた。
伯爵の喪が空けて、いよいよ当主の転居が近づいてきた日、ジェイクも再びハミルトン領に戻っていた。
ハミルトン邸の執事で父親でもあるアルベルトに、奥様が会いたがっていると伝えられて、マーゴットの自室——元々は伯爵夫婦の部屋だった——に招かれたのだ。
マーゴットは生成りのワンピースに下ろし髪という格好で、ロッキングチェアに腰掛けていた。
もともと儚げな人だったが、更に線が細くなっている。
大分起き上がれるようになったが、まだ無理は禁物だと聞いていた。
ヴィッキーとジェイクが小さい頃、屋敷の探検と称して、勝手にこの部屋に入ったことがある。
ジェイクの父親のアルベルトに引くほど怒られ、それを取りなしたのがこのマーゴットだった。
あの頃は、光で満ちていたように見えたこの部屋も、喪が空けたとは言えカーテンが閉めきられて、転居の準備でがらんとしている。陰鬱な印象を受けた。
あの人の良い伯爵の死が、どれだけこの明るかった家に影を落としたかを考えると、胸が痛い。
自分でさえこうなのだから、ヴィッキーやマーゴットの喪失はどれほどのものだろう。
マーゴットはジェイクに、きちんとした格好で挨拶出来ない詫びをした。
「今日はジェイクに、お礼が言いたかったの。ずっとヴィッキーと仲良くしてくれて、ありがとう」
「……俺は何もしていないです。ヴィッキー様が気安くしてくれるのを良いことに、側にいさせて頂いていただけで」
そしてそれが辛くて、結局離れた。
「そんなことない。ジェイクが葬儀に帰って来てくれて、あの子がどれだけ救われた顔になったか。あの日、ヴィッキーは、爵位を放棄することを決めたのよ。それまでは、結婚して伯爵を継ぐか、迷っていたみたい。三十も歳上の、でっぷりとしたお金持ちの男爵とね」
ジェイクにしてみればぞっとするどころの話ではなかった。ではもしタイミングが遅ければ、自分は帰省早々ヴィッキーの結婚話を聞く羽目になっていたかもしれなかったのか。
「使用人総出で止めても、聞く耳なんて持たない子でしょう。貴方の顔を見て、やっと冷静になったみたい。王都に出て働くのも悪くないかなって、そう言ってくれたの。あの子は自分で幸せになれる子だから、領地などに縛られることはないのよ。当主の代わりは、他にもいるのですもの」
「俺もそう思います」
ヴィッキーは自分で幸せになれる、というところに同意して頷くと、マーゴットは嬉しそうに笑った。
「ジェイク。時々でいいから、ヴィッキーの様子を見に行ってあげて欲しいの。貴方も騎士団に入ったばかりで、色々忙しいと思うけど、王都であの子はひとりになってしまう。貴方の姿を見ることができたら、どれだけ心強いでしょう」
ジェイクはマーゴットを安心させようと力強く請け合う。
「大丈夫です。王都は俺の庭みたいなもんです。出来ることは何でもします」
「ありがとう。心強い。変な男性が近付きそうになったら、追い払ってあげてね」
いたずらっぽく発せられたマーゴットのこちらの言葉には、一瞬反応できなかった。もちろん、できることならそうしたい。だが自分にそんな資格はあるのだろうか。
あれ以来、ジェイクはヴィッキーと顔を合わせられないでいる。
「恐れながら、奥様。こいつはまだまだ未熟者です。お嬢様を任せるなど、百年早いかと存じます。まあ、虫除けぐらいにはなるかもしれませんがな。——ジェイク。お嬢様に近づく不埒な輩がいたら、片っ端から引き剥がせよ」
口を挟んだのは、部屋の隅に控えていた執事のアルベルトだ。この父親は、昔から、実の息子のアーチーやジェイクに辛辣で、ヴィッキーには甘い。主従という関係がそうさせていたのかと思っていたが、単に娘に甘い父親のそれに酷似しているだけのようにも見える。
「アルベルトさん。もう、奥様でもお嬢様でもないわ。ジェイクも、もう使用人ではないのだから、できることなら、善き友人として、あの子に接してあげてくれないかしら」
マーゴットが使った友人という言葉に他意はないだろうか。それとも、牽制だろうか。
そんなことを考えてしまう自分にも嫌になる。
身の程知らずにも、ずっとヴィッキーの恋人になりたかったのだと、そう告白したら、マーゴットはどんな表情をするだろうか。
父親には、大体ばれている気がするので、今更である。ありとあらゆる牽制を受けてきた。
取りあえず、その場で頷く以外に、何ができただろう。