私の帰る場所
——っていうかその辺でいい加減に私の眠気とキャパシティが限界を迎えて、立っていられなくなってしまった。
ずるずるとしゃがみ込む私を心配するジェイクを尻目に、さっさとベンチに座る。
「限界……少し経ったら起こして」と言い残して目を閉じて、次に起きたら馬車の中だったという。
「もうすぐ着きますよ」というジェイクの声がして、眩しさに目を開けると、見慣れた街並だった。コールマンのお屋敷へと続く道だ。
外は、もうすっかり明るくなっている。
肩には毛布。何故か私は馬車の中にいた。
「嘘っ、私どのくらい眠ってた!?」
一気に眠気がとんで、あわてて身体を起こす。
やばいやばい。これじゃ朝帰りじゃないか。今日の業務に支障が出てしまう。まだ食事の支度は始まっていないかしら。
一応、舞踏会の次の日という事で、奥様とエリサ様は寝坊させてあげられるけれど、使用人はそんな事言ってられない。
「そんなに大した時間じゃない。あれから、すぐに馬車を出してもらったから」
そう言われて周りを見回す。この馬車は小さいけれど、随分と立派なものだった。王宮のものだろう。
っていうことは、この馬車も、ジェイクが手配してくれたんだろうな。
窓から外をよく見ると、明るいけど、まだ陽が昇ったばかりという感じだ。陽の早い季節なので、みんなはまだ夢の中だろう。
これならお屋敷に着いて身支度を整えるだけの時間はあるかしら。ああ焦った。
次いで、意識がなくなる直前のことが思い出される。私ってば、自分から、キ、キスをして、そのままさっさと寝てしまって、挙げ句の果てに唇を奪った相手に帰宅の段取りをやってもらっていたという。我ながらひどい。ひどすぎる。
「ああああ……」
思わず顔を膝に埋めると、「何やってるんだ」という呆れたようなジェイクの声がした。
「何でもない。ごめんなさい、ありがとう」
顔を押し付けたまま言ったので、くぐもった声になった。
「いいえ。どういたしまして」
笑い交じりの声が降ってくる。好きな声だ。
いつまでもこうしてもいられないので、しぶしぶ顔を上げると、声をかけられた。
「起きたの?」
前の方から聴こえて来る聞き覚えのない声に、あわてて前方の小窓を開けて顔を出すと、マントを頭から被って御者台に座っている人の後ろ姿が見えた。片膝を立てて頬杖をついている。よくもまあ、あんなに不安定な格好で馬車を操れるものだ。
御者が振り向いた。ええっ、危ない。
顔は半分マントに隠れているけど、けぶるような金髪と紫紺の瞳を見た瞬間にその人物が誰なのか私でもわかった。
「あ、ハート泥棒」
遠目では何度か見た事がある。凱旋パレードや昨夜の舞踏会のような王宮主催の社交イベントで。
超絶美形で、剣技も右に出る者なし、剣術大会では会場のキャパを超えるギャラリーが詰めかけるのでとうとう建て替えることになって、生写真は馬車一台買えるほどの値段がつくという。伝説には事欠かない、この国一の有名人。
王立騎士団のエミール・ストーン副団長だった。
……え? ジェイクは何を考えてこんな人に御者の真似事なんてさせてるの? 馬鹿なの?
そんな事を考えて思わず真顔になってしまったら、ストーン副団長がけらけらと笑った。
「すごいよね、その通り名。本当に浸透してるんだ。ケリーが求婚しに行くって言うからさ、これは立ち会わないとと思って、無理矢理送る役を買って出た」
貴公子然としてる人だと思ってたけど、想像より随分と気さくな人だ。生の笑顔の破壊力半端無いな。っていうかハート泥棒って声に出してたのか私。恥ずかしい。っていうか。
「求婚」
思い切り寝耳に水で、相当間抜けな顔で隣のジェイクの顔を見てしまった。
誰に?
「……それを俺より先に本人に言ってしまうってのはどういう了見なんですかね……」
ジェイクは額を押さえている。
「放っといたら一生言えなそうだからな。さっきはすごい剣幕で馬車借りに来たから、何事かと思ったけど」
「この勢いを逃す手はないと思ったのは事実です。だけど……」
額に手を当てたまま、少し考えて、諦めたように長く息を吐き出した。そして真剣な顔でこちらに向き直る。
「さっきも言ったけど、結婚は別にどっちでも良いんだ。ただ、約束が欲しい」
「約束……ですか」
私にだったー!
誰か別の人のところにでも結婚申し込みに行くのかと一瞬思ってしまったので、内心ですごくほっとしてしまった。ずっと抑えていた想いは、一度あふれ出したことで、歯止めが利かなくなっている。
「やっぱり身分が違うから別の人と結婚する」なんて言われた日には、号泣しながら追いすがってしまいそうだ。やばいな。
「そう。それと、言っておきたいことも」
こんなに歯切れの悪いジェイクを見るのは初めてで、凝視してしまう。言っておきたいことと聞いてあらゆる最悪を想定するのは、私の癖だ。でも、やっぱりよくわからない。本人の口からちゃんと聞きたくて、先を促す。
「俺の受勲が決まった時、あんたが……貴族じゃなくなった時に、さっさと迎えに行けばよかったと、後悔したんだ」
確かに。平民と平民なら、こんなに葛藤する事はなかった。私が侍女になってから、ちょくちょく顔を見せるようになったけれど、物理的に距離が近くなったからかなーとか思っていた。あとは没落した元雇い主の顔でも見てやろうっていう気持ちがあったのでは、なんて。
私がそう言うと、ジェイクはまるで石を飲み込んだような顔をした。
「弱っているところにつけ込むみたいなのは嫌だった。自分の中の吐き気がするような感情に気づかなければ、まだマシな行動ができたかもしれないとは思う」
吐き気がするような感情、って何だろう。
そこを隠す気はないらしい。懺悔をするような沈痛な表情で口を開く。
「貴女が、身分も家族も家も失くした時、旦那様を悼む気持ちや、心配や哀しみがあったのは本当です。でも同時に、喜んでいる自分もいた。俺はあの時、何を思ったと思う?」
私は黙ってジェイクを見ていた。声音は抑えられているけれど、目には激情が湛えられている。何ひとつ見逃さないようにと、瞬きすら忘れて、私たちは見つめ合った。
「『これでこのお嬢様は俺の隣に堕ちて来た。この人を、俺のものにできるかもしれない』」
予想外の言葉に、茫然としてしまった。
「最低だろう? 怒ってくれていい」
言葉を失くした私に耐えられなくなったように、ジェイクが目を逸らして、自分の固く握りしめた拳を見た。少し震えているように見えた。
最低? 言われてみたら、最低なのか。
馬鹿だなあ。こういう、言わなくても良い事を言ってしまうのが、ジェイクだよな。
そんな事を言ったら、ジェイクの受勲と騎士爵叙任を喜べなかった私も同類ではないか。ちなみに私は言わないよ。
今、鳥肌が立つくらい、嬉しいことも。
「いやー、ケリーの馬鹿正直にはびっくりさせられるな。いつも女なんて興味はありませんって顔して剣ばかり振ってるお前にこんな一面があったとはね」
ストーン副団長が割り込んでくれてほっとした。怒るのも笑って許すのも違う気がしたから。
話が終わるまでお屋敷に着いてしまわないように、馬車の速度を落としてくれていることにも、さっきから気づいている。
「馬鹿はいらないと思いますわ。正直は彼の美徳ですの」
そう言って、こっそりジェイクの拳に自分の手を重ねる。手袋はいらない気もしたけど、素手はちょっと恥ずかしい。よし、もう震えていないな。
ジェイクは約束が欲しいと言った。これで答えになるだろうか。
こちらを見下ろすジェイクに、はにかんだように笑う。少し笑い返してくれた。
まるで子供の時に戻ったようだ、と思う。あの頃は隣にいるのに何の遠慮もいらなかった。
「それにしても身分差なんか気にしてるんだ。うちも貴賤だよ」
「そうなのですか!?」
あっけらかんとストーン様が明かした事実に、全力で食いついてしまった。
ストーン様は侯爵家のご出身のはず。だったら、奥様が下級貴族……もしくは平民なのか。突如心強い仲間が現れた。
エミール・ストーン王立騎士団副団長。この方自身は超のつく有名人でありながら、奥様の情報は一切表に出てきていない。
先鋭化した一部のファンが暴徒化しないように詳細を伏せているとか(どんだけだよ)、この国の英雄である彼には敵も多いため、奥様に危険が及ぶのを避けるためだとか、何処かの国のお姫様といったやんごとない御身分の方と結婚しているだとか、実は結婚はフェイクだとか、いろいろ言われているが、本当のところは謎のままだった。
ジェイクは心得顔だったので、騎士団の人達は流石に知っているのだろう。
「奥様を迎えるにあたって、まわりの説得はどうなされたのですか? その……反対される方も多かったのでは?」
「説得? そんなものが必要?」
この国は、貴族と平民が結婚する、いわば貴賤結婚を嫌う。貴族にとって婚姻とは、家同士の繋がりを作るもので、当人同士の好悪など二の次三の次のようなところがあるのだ。
逆に言うと、爵位持ちの家と新たに誼を結んだり、結束を深めたりという理由以外での婚姻は、まったく意味のないものだと考えられていると言っていい。
そんな事は貴族の生まれなら嫌と言うほどわかっているだろうに。心底不思議そうに訊いてくるので、こちらが面食らってしまった。
ああ、と合点したように呟く。
「貴女はきっと、家族に可愛がられて、貴女自身も、自分の中に流れているこの国と貴族の血にも誇らしさを感じているんだろうな」
私はおずおずと頷いた。確かに、今は亡き父を私は敬愛していたし、この国への畏れと敬いは、文字を読むよりもはるか小さい頃から教え込まれてきた。
「俺達にはそういうのがまったくないんだ。家族へも、国へも。だから階級なんてものは、どうだって良い」
それは綺麗な笑顔だった。……が、仮にも一国の騎士団の副団長として、この言い方はいろいろ不味いのではないだろうか。
「副団長、それ以上は言わない方がよろしいかと!」
ジェイクが慌てて止めている。大丈夫。聞かなかったことにするから。
ずいぶんと時間をかけて、馬車がコールマンのお屋敷に着いた。馬車には見る人が見ればわかるところに王宮の紋章が付いているので、騒ぎにならないよう正門前に停められず裏門へ回ってもらう。
早朝の、人が少ない時間で良かった。
ストーン様はジェイクを待っている間に少し寝ると言って、さっさと馬車の後ろの座席部分に潜り込んでしまった。そう言えばこの方たちも昨夜はあまり寝ていないんだった。
本来なら送ってくれたお礼にお茶ぐらい出すべきだったが、この有名人を屋敷に通したら、大変な騒ぎになるだろうか。
「あの人がいいって言うならそれでいいでしょう。本来はかなり自由な人だから」
と、日頃のストーン様をよく知るジェイクがそう言うので、お言葉に甘えさせてもらうことにした。
ジェイクは玄関まで送ってくれるらしい。誰かに会ったら挨拶したいと言ってくれたが、この朝帰りの釈明をしてくれるのかな。
別に人に言えないことはしてないと……思うんだけど。してないよね?
それに、まだ誰も起きていない頃じゃないかな。料理人のトールさんと、女中頭のマーガレットさんは朝が早いので、今ごろ忙しく立ち働いているだろうが。仕事の邪魔をするのもな。
少し考えて、お客様や御主人様一家が使う正面玄関ではなく、使用人用の入り口からそっと入ることにする。
ジェイクにはちょっと失礼になるけど、朝っぱらから呼び鈴を鳴らすわけにもいかないので、許してもらおう。
歩きながら、考えていた事を提案してみた。
「私、まだしばらくは、この仕事を住み込みで続けたいのですけれど」
エリサ様も社交界に出られたばかりで色々とお教えしたい事があるし、弟のスタンリー様は来年学校に入られるので、その準備もあるし。
ジェイクもあっさり頷く。
「俺も、まだ宿舎の方が気楽で良いです。何かあったら、新米の俺達が真っ先に駆けつけなくてはいけないので」
なるほど。まだ下っ端の方というわけか。大変だなあ。
「でも、もし何年か経って、お互いの仕事も落ち着いて余裕が出てきたら、一緒に住みたくなるかもしれませんわね」
どきどきしながらそう言ってみると、ジェイクは嬉しそうな顔をしてくれた。
「その時は、お互いの職場の中間地点にでも、家を用意しよう」
ジェイクが嬉しそうにしているのを見ると、じゃあ今すぐにでも、と言いたくなってしまう。
でも言わない。今はまだ、私の帰る場所はこの郊外のタウンハウスなのだ。
すっかり手に馴染んだ御屋敷の裏口のドアを開けると、入ってすぐに、台所へ続く小部屋がある。
使用人はここで食事を取るので、小さなテーブルと椅子が据え付けてある。
そのテーブルに、突っ伏して寝ている人影を見つけた。
多分頑張ってすごく早起きをして、私の帰りを待っていたのだろう。力尽きてすやすやと寝息を立てている、エリサ様だった。
私は嬉しくなって、ジェイクと顔を見合わせて笑った。
読んでいただいて、ありがとうございました。