星に手が届くとき
差し出された手をすぐに取ることができなかったのは、それが私の長年の夢だったことを思い出したからだ。それこそ、社交界にデビューするずっと前の、子供の頃から。
ジェイクは貴族ではないので、私と一緒に踊ることはないと知ってからも、しつこくダンスの練習の相手をねだったっけ。嫌な顔をされて、絶対に相手をしてくれることはなかったけれど。
まさか、彼の方から誘ってくれる事があるとは、思わなかった。今は身分も逆転してしまったから、同情の気持ちで申し込んでくれているのかもしれない。
「……踊れるかしら。もう何年も踊っていないの」
エリサ様との特訓では、私はもっぱら男役だったからね。
「俺も今日のために付け焼き刃で覚えただけだから。ちょうどいいんじゃないですか?」
ちょっと肩をすくめて謙遜してみせるけど、そうなの? 広間では不慣れなお嬢様方を相手に、涼しい顔でリードしていたのに。運動神経良いとダンスまでさらっとこなせちゃうものなのか。
ほら、とジェイクが差し出した手を近づけてくるので、そっと手を取った。
手をつなぐのなんて何年ぶりだろう。
手袋をしていて良かったと思う。ただでさえ汗ばんでいるのに、思いのほか強くつかまれて、手汗が凄いことになっている。
音楽は中庭の噴水の音にかき消されて途切れ途切れだったけど、リードが上手いので、拍を取るのは難しくはない。
最初の緊張はどこへやら、だんだん踊っているうちに楽しくなってきた。調子に乗ってアドリブを入れてみる。
「おい! こっちは初心者だって言ってんだろ」
あわてる声がするけど、フォローは完璧だ。やるじゃん。じゃあ、これは? ターンを多く入れようが、変拍子でステップを踏もうが、ちゃんと着いてきてくれる。
「すごい、お上手ですね!」
楽しくなってくすくすと笑う私に、ジェイクは仕方ないなあという顔をして、ほんの少し笑って見せてくれた。
やがてだんだん曲がスローテンポになって、俗に言うチークタイムというやつに突入する。
片方の手は繋いだまま、もう一方のジェイクの手が背中に回されて、私の手はジェイクの肩に置く。
必然的に寄り添う体勢になる。こ、これは流石にちょっと密着しすぎかな? 今まで男性とこんなに近づいたことはない。でもダンスだし。
どうすればいいかわからなくなってジェイクを見上げると、彼はひどく真剣な顔で私を見ていた。ランタンの光に照らされていて、綺麗だと思った。
見ていられなくて、思わず俯く。この体勢だと、私の心臓がどくどくいってるの、わかってしまうのではないかしら。
「……結婚、するの?」
さっき訊きたくて訊けなかったことがするりと口をついて出た。騎士はモテる。そんなの知っている。見目も良くて有望株のジェイクがその気になれば、引く手数多だろう。
そもそも、とっくに恋人だっているのかもしれない。
「さあ。どうして欲しいですか?」
悪戯っぽく笑ってそんな事を訊いてくる。質問に質問で返さないでほしい。それからちょっと真面目な声色になった。
「あんたがするなって言うんなら、しない」
私はもうジェイクの主人でも何でもないので、そんなこと言えるわけがないのに。
「そんな事は言いません。叙任したのなら、結婚はした方が良いと思います。……あまり、人を試すようなことは言わない方が良いと思いますわよ」
ちょっとだけ腹が立ったので、たしなめるような口調になってしまう。
「別にどっちだって良いんだ。するとしても、求婚したい相手はひとりだけだし」
いつの間にか音楽は止んでいて、私たちは向かい合って立っていた。
——求婚したい相手は、ひとりだけ。
やっぱり、恋人がいるんだろうな。
ずっと聞きたくなかった事を聞かされたのに、心は平静だ。
一緒に踊る事ができて、不思議と満ち足りてしまって、この人が幸せになるためなら何でもしてあげたいような、そんな気分になっていたから。
「応援しますわ」
そう言って、笑う事ができた。のに。
ジェイクは表情を消して目を逸らした。
「それは、助かるな」
少し皮肉げに聞こえる声。どうしてだろう。
「もしかして、あまり上手くいっていないとか」
「さあ。俺なんて、眼中にもないんじゃないですか」
「え、恋人じゃないの?」
驚いて思わず言ってしまったら、溜息をつかれた。
「あのな。そもそも業務自体が馬鹿みたいに忙しいのに、更に稽古だの行事だのに駆り出されて、そんなものつくる暇があると思うのか?」
「業務内容なんて詳しく知りませんもの。……じゃあ、好きな人が?」
「そうですね」
何だか自棄みたいに言うものだから、まるでこちらが何か失言したみたいな気分になってきた。
「一度は思い切ろうとして、離れたんです。でも、もしかしたら」
そこで言葉を切ってしまったので、何て言おうとしたのかはわからない。ただ、ジェイクが、こちらを真っ直ぐに見つめてくる。瞳にランタンの明かりが映り込んでいて、星みたいだった。綺麗な星が、私をじっと見ている。まるで愛しいものを見るように。
そんな訳はないと思いながらも、馬鹿な考えが頭から離れない。
もしかして、今手を伸ばしたら、この星が手に入るんじゃないか、なんて。
「……どうして、爵位がほしかったの?」
少しだけ、語尾が震えたのを気づかれなければ良いのだけど。
「好きな人が、貴族だったからですよ」
「じゃあ、どうして、やっぱりいらないなんて」
「……その人が、貴族じゃなくなったから」
その時の私は、疲労と眠気が限界で、正気ではなかったんだと思う。見上げたジェイクの肩越しに見える東の空が下の方がうっすらと明るくなっていて、ああもうすぐ夜明けが来てしまう。この夜がずっと明けなければいいのに、なんて不毛なことを考えてしまって。
顔を近づけてもジェイクは避けようとしなかったので、安心してそのまま口を寄せた。くちびるを付け合うだけの、静かなキスだった。