ラストダンス
こほん、と咳払いしたのはアニスだった。
「私の存在なんてすっかり忘れてるでしょう、2人とも」
ジェイクとふたり、はっとする。
「いえ、忘れていたわけではないのですよ? だって、ほら、ジェイク……様、が怒るから」
「そこで俺のせいにするんですか!?」
「冗談ですわ。ジェイク様、アニス様、助けていただいて、ありがとうございます。お二人の慈悲深く勇敢な行動によって救っていただいたこと、感謝の念に堪えません」
「そのわざとらしい敬語、止めませんか。死ぬ程気持ちが悪い」
きちんとお礼を言おうとしたら、ジェイクには顔をしかめられた。何なのさ。
「そんなこと言ったって、ジェイク様だって、子供の頃、私がどんなに普通に接して欲しいとお願いしても、態度を変えなかったじゃないですか」
そう、うんと小さい頃は、一緒に遊んでいたのに、ある時から急に線を引かれたようによそよそしくなったのだった。
私はそれが悲しくて、随分と駄々をこねたっけ。
「……あれは、使用人としての立場を忘れるなと親父に叩き込まれたんです」
「だったら、私も同じです」
この国で貴族として生まれ育った以上は、良くも悪くも、身分階級というものは身体に染みついている。
今の私は平民で、ジェイクは准貴族。そしてアニスは伯爵令嬢。
こうして貴族という立場を失ってみて、それまで無自覚に持っていた特権意識というものに気づいて自己嫌悪に駆られることはあるけど、だからといって、ふたりに対等な口をきく気には到底なれない。
「なんか、ほんとにお邪魔みたいだから、行くわね……」
呆れたようにため息をついたアニスがさっさと踵を返そうとする。
「待って、一人じゃ危ないですってば」
「じゃあ広間まで送っていってくださる。早く行かないと、演奏が終わってしまうわ」
「そ、そうね」
慌てて歩き出そうとした時、不意にジェイクがアニスの手を取った。
「アニス・ローレンス様」
「は、はい」
「先程は、失礼致しました。おかげで、ヴィッキー嬢も事なきを得た。ご協力、感謝致します」
そして手袋に包まれた指先に軽く口付けをする。
ちょっと、さっき私の言葉はわざとらしいとか言っていたくせに、自分は随分と貴族然とした仕草が身についているじゃないの。
アニスもなんだかぽーっと頬を染めているし。
「どういたしまして。……ヴィッキーにこんな素敵な知り合いがいたなんて、全然知らなかった。私たちが恋の話に興じている時も、親しい殿方がいるなんて、おくびにも出さなかったんですもの」
「私は、使用人の息子でしたから。まったくそういう間柄ではないのです」
「ふふ。でもわかったわ。ヴィッキーがやたら頑なだった理由。あまりダンスのお誘いにものらないし、踊ってもせいぜい一曲。高嶺の花って評判だったのよ」
「アニス様!」
言わなくていいの、そういう事は。
そう、私はずっとこのジェイクにエスコートされるのが夢だったのだ。国中のお嬢さまがたが憧れて止まない宮廷舞踏会でのデビューも、はじめての社交用のドレスもダンスも、大して印象に残っていないぐらい。
初めての舞踏会の日、誰よりも先に見せに行ったドレス姿は、魚の死んだような目で一瞥しただけで顔を逸らされたけれど。
アニスを大広間に送り届けて、(ちょうどセドリック様が指揮台に上がったところだった)、この辺で私たちも解散かなと思っていたら、ラストダンスのお相手を血走った目で探しているご婦人方に恐れをなしたっぽいジェイクに、中庭に誘われた。
中庭は広間に比べると薄暗いものの、庭木の枝に下がっている無数のランタンの灯と、それをきらきらと反射する噴水の水が綺麗で、ぽつぽつと恋人達がくつろいでいた。
みんなお互いに夢中で、周りのことはそんなに目に入っていない感じだ。今日の舞踏会でカップル成立した人達かな。いいな。
休憩には丁度いいかも。そういえば私、休みたかったんだった。
「疲れた……」
空いているベンチを見つけて座り込む。
騎士爵であるジェイクより先に座るのは、礼儀がなっていなかったかな。いいや。隣をぽんぽんと叩く。大人しくジェイクがそこに座った。
「どうでした、初めての舞踏会は」
眠気が襲ってきたので、会話を振ってみる。まあ苦手だろうなとは思っていたけど、予想通り嫌そうな顔をしたので、ちょっと笑ってしまった。
「勲章なんて、もらうんじゃなかったな」
ぽつりと漏らしたとんでもない愚痴さえ、ジェイクらしいと思ってしまう。
「先程の、フィオニール子爵の御令息のことだけど」
正直に言おう、ファーストネームが出てこない。
ジェイクも誰のことだって顔をする。
「もしかしたら、王宮か騎士団の方に、何か言いがかりをつけてくるかもしれない。勲章を着けた騎士団員に、暴力を振るわれたとかなんとか。もしもそんな事があったら、私に言ってください。証言しに参りますので」
あの人の前で思いっきりジェイクの名前を呼んでしまったこと、少し気になってる。まあ、大丈夫だとは思うんだけど……。不名誉な話をしたくないのは、お互い様だろうから。
「ああ……、あいつか。別にいいよ。騎士団もその程度の苦情は日常茶飯事だろ」
「そうなの?」
何しろ高潔と慈悲をモットーとする我らが王立騎士団のことだ。わずかな瑕疵も勲章剥奪の原因になるのかと思っていた。
「何せ誰にも負けないっていう自負にかけては国を代表する人達の集まりなんだ。今日みたいに人前に出る日は団服を着て澄ましてるけど、裏ではその辺の荒くれ者連中より遥かに酷い」
ええー、聞きたくなかった。
「ジェイク様は、大丈夫? そんな集団に囲まれてて」
子供の頃からガキ大将気質というか、近所の子供達従えてたジェイクの事だから、それほど心配はしていないけれど。
明かりに照らされた横顔がふっと笑った。
「13歳から士官学校にいるんですが? 今更じゃないですかね」
確かに。士官学校は寄宿舎制なのだ。いきなりいなくなって、それからあんまり帰ってこなくなったもんな。
「何だって、騎士なんかに」
ぽつりとこぼれた愚痴は、存外はっきりと響く。
「え?」
「だって、士官学校なんてほとんどが貴族か騎士の息子か、ずば抜けて成績の良い特待生ばかりでしょう。そこまでして騎士になりたかったなんて、全然知らなかった」
きっと、しなくても良い苦労もたくさんしただろう。危険も多い仕事だし。
ジェイクのお父様のアルベルトさんは、優秀な執事だ。
当主の代わったハミルトン伯爵家で、相変わらず差配を振るっているはずだが、もし私たちと一緒に屋敷を出ていかなくてはいけなかったとしても、彼ならきっと就職先には困らなかっただろう。
そのアルベルトさんのコネクションを全部捨ててでも、うちから出たかったのかと、当時は随分ショックを受けた。
「親父の跡を継いで、執事にでもなると思ってた?」
「う、うん……、いえ、執事じゃなくても、何か事業をやるとか、アーチー様のお手伝いとか」
ジェイクのお兄さんのアーチー様は、貿易商をやっていて、世界中を飛び回っている。
本当は、私専属の執事になってくれるって、小さい頃は言ってくれたくせにって言いたかった。
言わなかったけど。
結果的に、うちは没落したし、ジェイクは騎士になったのだし、これで良かったんだなとは、今になって思う事だ。
「……俺は、爵位が喉から手が出るほど欲しかったんだ」
「え、本当? 全然知りませんでしたわ」
「言えるわけない、格好悪くて」
格好悪い? そうかな。意外ではあるけれど。貴族なんかに興味ないと思ってた。
「騎士団に入って騎士爵を叙任するのが一番手っ取り早く爵位もらえる方法だったから」
手っ取り早いって……。誰でももらえるわけじゃないし、それこそ血のにじむような努力をしなくてはいけなかっただろうに。
「良かったですね。長年の夢が叶って。だったら冗談でも、さっきみたいなこと言ったらだめですよ」
「さっきみたいなって?」
「勲章もらわなければ良かったとか何とか」
「あー、あれは本音です」
「何でよ。ずっと欲しかったんでしょう?」
なんだこの人。情緒不安定か。
「やっぱり必要がなくなったと思った矢先に、叙任することが決まったんです。やたらと縁談は持ち込まれるし、ダンスは覚えさせられるし、ろくなことがない」
心底うんざりしたようにジェイクは言う。
そうか、縁談……。世襲でないとはいえ、結婚も貴族の仕事のひとつみたいなものだから、当然といえば当然か。へこむなあ。もしも私が伯爵令嬢のままだったら、張り切って立候補したかな。
何となく、ふたりで黙ってしまった。
開け放したバルコニーから広間の音楽が、噴水の水の音に混ざってここまで届いてくる。
音楽が少し途切れた。ラストダンスが始まるのだろう。
最後のダンスは基本的に本命と踊るものなので、実は私は貴族時代も一度も踊った事がない。
そんな事を考えていたら、隣のジェイクがふと立ち上がった。そして私の正面に立って、手を差し伸べてきた。
「俺と踊って頂けませんか」