9 そして人間界へ
屋敷へ戻ってきた商人様は、なんだかよくわからないものをたくさん持っていた。説明されたけれどよくわからなかった。
私は促されるままベッドに横になって目を瞑る。何かがちくりと刺さったような気がした次の瞬間には、意識がすとんと沈んでいった。
「……ま……ライラ様」
誰かに呼ばれて目を覚ますと、満足そうな顔をした商人様と目が合う。
「さて、これでライラ様は魔王様の命令に反する行動ができるようになりました」
そう言われても、何も変わった気がしない。首を傾げながら手を握ったら開いたりしていると、商人様がそれと……と話を続ける。
「ライラ様の身体の作りは人間なので、護衛に私の眷属をつけます。何かあれば、この子が守ってくれるでしょう」
そう言った商人様の掌に、ちょこんと小さな緑色のトカゲがいる。こんな小さな子が護衛になるのだろうか。
「普段はこのサイズですが、戦うときには大きくなりますのでご安心を。あと、お金が必要になりますから、こちらもお持ちください」
じゃらじゃらと音がする布袋を渡され困惑する。
「……どうしてここまで……」
「言いましたでしょう。私は少し怒っているのです。ライラ様は私が作った最高傑作でもあるのに、それをあんな風に言うなんて」
トカゲは商人様の手から跳躍して私の腕にしがみ付き、するするとよじ登って私の肩の上に収まる。
「荷物はこのマジックバッグに入れてお持ちください。さあ、魔王様に気づかれる前に出なければ」
商人様に急かされて荷造りをする。すぐに行くつもりではあったけれど、こんなに急いで行く必要があるのだろうか。
ああ、でもここはもう私が居てはいけない場所だから、出ていかなければならないのか。
少し寂しい気持ちになりながら、荷造りを終えた私は玄関の前に立つ。今まではご主人様に禁じられていたため、この先に足を進めることができなかった。そのことに違和感はなかったけれど、よくよく考えたらそれも本来おかしなことなのだろう。
商人様はいくつか私に言い含め、私が頷くと目を細めて頭を撫でた。
「さあ、いってらっしゃいませライラ様。何かありましたらそのトカゲに言ってください。その子と私は繋がっておりますから、万一の時には私も駆けつけましょう」
商人様に見送られ、私は生まれて初めて屋敷の外に足を踏み出した。
屋敷を出た私はてくてくと一本道を歩いて行く。こんなにあっさり、外の世界へ出られるなんて。
庭に出ただけであんなに新鮮な気持ちになったのだ。外の世界の広さに、私はわくわくする気持ちを抑えられない。
お屋敷の周りには他に建物がなく、どこまでも続く緑の景色についるるると歌ってしまう。
私が勇者を連れてこられたら、ご主人様は褒めてくれるかしら。また、あの優しい目を向けてくれるかしら。
「……人間界へは……魔界の裂け目に行けばよかったはず」
魔界と人間界は本来繋がっていない。けれど、何故か魔界には空間が歪んでいるところがあって、そこを通ると人間界へ出られる、らしい。多分、何らかの魔法が関与しているのだろうけれど、私にはよくわからない。
魔界の裂け目ってどこにあったっけ。
根本的なところに気付いてハッとする。商人様に道を聞いておけばよかった。
どうしようと焦っていると、前方から誰かがこちらへ向かって歩いてくるのが見えた。
頭の中に、商人様から聞いた四番目のライラ様のことが思い浮かぶ。まさかと思って緊張で体を固くしたけれど、現れた人を見てほっと肩の力が抜ける。
「あらぁ。ライラちゃんじゃない」
それは、淫魔族のお姉様だった。
「お姉様、お久しぶりです」
お辞儀をすると、お姉様は少し何かを考えるようにしてから、うんうんと頷く。
「なるほどね、そういうことね」
私がきょとんとしていると、お姉様は私の頭を撫でながら言う。
「ダグの坊やに魔王様のことを聞いて、心配していたのよ。そしたらあのトカゲ野郎から連絡があって、目が覚めたって言うじゃない? 偉そうに来る時間まで指定されて……。多分ここでライラちゃんと会わせるためだったのねぇ。私は転移魔法使えないから」
トカゲ野郎とは商人様のことだろうか。
「それで? どうしてライラちゃんはこんなところにいるのかしら?」
「あの……私、勇者に会うために人間界へ行きたいのです」
「はあ!?」
お姉様は長い睫毛に縁取られた、宝石のように輝く青い瞳を瞬かせる。
「ちょっと、ちゃんと説明して頂戴」
私は勇者がライラ様の生まれ変わりであることや、自分がライラではないと言われたこと、これからやろうとしていること等を説明した。
説明が終わってお姉様の顔を見ると、ひくひくと口の端を引きつらせていた。
「全く……全くあの魔王様は、まだそんなに拗らせていたのね! ああもう鳥肌が立つわ! ぞわぞわする! ねぇライラちゃん、そんなクソ重執着拗らせ野郎なんて放っておいて、私のところで楽しく過ごさない?」
私はお姉様のことも大好きだった。だから、とても魅力的なお誘いではあるのだけれど。
「……私は、ご主人様のために生まれたのです。だから、ご主人様のためにできることをしたいのです……。もし全て終わったら、お姉様のところに行ってもいいですか?」
私が言うと、お姉様は肩をフルフルと震わせてからガバリと私を抱きしめた。大きな胸に顔を挟まれて息ができない……。むーむー言っていると胸から解放された。
「ああ! なんで健気なのライラちゃん! あのクソ野郎には勿体ないったらないわ! ……仕方ないわね。私が魔界の裂け目まで連れていってあげるわ」
私は目を見開く。
「あのでも……今からご主人様のところに行くのでは……」
「いーのいーの! 多分あのトカゲ野郎もそのつもりよ。それに今魔王様に会ったら怒りでぶちのめしてしまいそうだわ。ライラ様を想うのはいいのよ? けど、こんなに周りを巻き込んで……だったらライラ様と一緒に死ねばよかったのよ」
お姉様はずいぶんお怒りのようだった。
「ライラ様を忘れられないならそれでもいいのよ。けどね、だからといってライラちゃんを傷つけていいわけがないのよ。これまでどれだけライラちゃんに救われていたか……あの馬鹿野郎は何もわかってないのだわ」
そう言ってお姉様はまた私の頭を撫でる。
「否定されて辛かったでしょう。私たちもライラちゃんの存在に救われていたのよ。ライラちゃんがいたから魔王様は穏やかに日々を過ごせていたし、私たちも狂った魔王様と戦わなくて済んだのよ」
「いえ……私は……」
脳裏にご主人様の凍えた瞳が浮かぶ。私を突き放す、あの瞳。私を拒絶する、あの瞳。私は生まれてからずっと、ご主人様のためだけに生きてきたのに、「ライラ」として生きてきたのに、その全てを否定されたような気持ちだった。
私はご主人様のために頑張るんだ、私にはまだご主人様のためにできることがあるんだ、とそう思って人間界へ行くことを決め、あの時感じた気持ちの正体を見ないようにしていた。
でも、あの瞬間を思い出すと、それだけで視界がぼやけてくる。そう、私は、辛かったんだ。悲しかったんだ。
「こんな健気な子を泣かせるなんて……ああ、本当腹立つ。さあ、ライラちゃんが屋敷からいなくなったことをあのクソ野郎が気付く前に行っちゃいましょう」
商人様もお姉様も、ご主人様に気付かれる前に行こうと言う。それが何故かよくわからないけれど、早く行きたいのは事実なので頷く。
「よし、そしたら私にちゃんと捕まっていてね」
お姉様は私を抱きしめ背中の翼を大きく広げる。慌ててお姉様にしがみつくと、足が地面から離れる。
「わあ……!」
どんどん地上から離れ、下を見るとたくさんの緑が広がっていた。
ああ、あれがお屋敷で、あの道をずっといった先には町のようなものがあるのね。
景色を眺めていると今度はどこかへ向かってどんどん進んで行く。速度も上がって行き、私は抱きつく腕に力を込める。キキッと音がして、なんだと音のした方を向くと、トカゲも私に必死にしがみついていた。
しばらくして、ふ、と突然動きが緩やかになる。
「ふぅ。ライラちゃん、あれが魔界の裂け目よ」
お姉様に言われて顔を上げると、何もないはずの空間の一部が、ゆらゆらと歪んでいるように見える。
「私も一緒に行きたいところだけど、一応魔王様の様子を見に行かなきゃいけないのよね。どうやらトカゲ野郎の眷属もついてるようだからきっと大丈夫でしょう。色々不安だけど、まぁ死ななきゃなんとかなるわ」
そしてそのままゆっくり歪みへ近づいて行く。
「さて、これ以上近付くと吸い込まれちゃうのよね。そんじゃ行くわよ!」
そう言ってお姉様は私を抱える。
あれ? と思う暇もなく、お姉様は私を魔界の裂け目に向かって投げた。
「えっ……ええぇぇえ!!」
私の絶叫は、私自身とともに魔界の裂け目に吸い込まれていった。