6 予想よりも早く
その日の夜、戻ってきたご主人様は眉間にシワを寄せ、険しい顔をしていた。
私は少しでも心を休ませて欲しくて、気持ちを穏やかにする効能のあるハーブティーを用意した。
「ありがとう、ライラ」
ハーブティーを口にして、少しだけ肩の力を抜いた様子のご主人様の表情を見て安堵する。
「あの……勇者って……」
「安心せよ。余が堅固な結界を張ったゆえ、この屋敷内へ余以外の者が転移してくることはもうない。ダグラスには緊急時のために結界に転移許可を与えているが、それだけだ。だから、勇者がここへくることはない」
私が心配しているのはそんなことではない。
「ご主人様は……大丈夫なのですか」
ご主人様は少し目を見開いてから微笑んだ。
「余は亡くなった魔王より強い。勇者などねじ伏せてくれる」
ご主人様が誰よりも強いことは知っている。けれど、ずっと背筋をざわつかせるものが消えないのだ。どうしても嫌な予感がする。
私はあからさまに不安な顔をしていたのか、ご主人様は困ったように眉を下げて、私の頭をゆっくりと撫でる。
「心配するな。ライラを一人にはしない。必ずここへ戻ってくる」
私はご主人様を信じるしかなかった。
それから三日ほどは何もない日々だった。けれど、毎晩帰宅したご主人様は疲れている様子で、どこか神経が張り詰めていた。
私は少しでも心を安らかにして欲しくて、毎回ハーブティーを淹れていた。それしか、私にできることはなかった。
けれど四日目、帰宅してすぐ、ご主人様の部屋からけたたましい音が鳴った。ダグラス様が、ご主人様が屋敷に戻っている間に勇者が来たときのために設置した魔道具が危機を伝えてきたのだ。
ご主人様はすぐさま転移して消えてしまった。
いってらっしゃいも、言えなかった。
私にできるのは、ただ、祈ることだけだった。
ご主人様の安否が気になり、ベッドに入っても眠ることもできずにいると、深夜に突然ご主人様の部屋の方からガタガタという音が聞こえてきた。
帰ってきた!
そう思って居てもたってもいられず、部屋を飛び出してご主人様の部屋へ向かう。逸る気持ちを抑えられずにノックも忘れて扉を開け、目に飛び込んできた光景に衝撃を受ける。
そこには確かにご主人様がいた。
血塗れの状態で。
「ご……ご主人様……」
夜色の瞳は閉ざされ、血に塗れて固まった長い髪は煌めきを失っている。微かに上下する胸から息があるのはわかるけれど、腹部からは止めどなく赤いものが流れている。血と一緒に、ご主人様の魂が少しずつ失われているように感じた。
あぁ、なんてこと、なんてことなの。
足から力が抜けて震え出す。呼吸もままならず、喉からはヒュッヒュッと音がする。
「ライラ様!! ここに通う商人がいたでしょう! 彼を呼んでください!」
ご主人様と一緒に転移してきたダグラス様に怒鳴られ、私は驚きで呼吸を取り戻す。勢いよく頷いてから商人様の連絡魔道具に連絡すべくキッチンへ走る。
キッチンに置いてある連絡魔道具を乱暴に掴んで、魔力を込めて呼びかける。早く……早く……!
「……はい。ライラ様? こんな遅くにどうされたのですか」
「商人様! あの! ご主人様が血塗れで! ダグラス様が商人様を呼ぶようにと!」
状況をうまく説明したいのに上手く言葉を紡げない。けれどそれだけで商人様は察したようで、屋敷の前へ転移するから門を開けるように言われた。
「商人様!!」
「魔王様はどちらです!?」
いつものローブで現れた商人様はフードを被っておらず、初めてその顔を見る。普段ならば気になるはずなのに、とにもかくにも早くご主人様のところへと、商人様の手を引っ張って走る。
「ダグラス様! 商人様を呼びました!」
部屋へ入った商人様はすぐさまご主人様の元へ駆け寄り、腹部に手を当てる。すると、ほわほわと暖かそうな光がご主人様を包み、ご主人様の魂の流出が止まる。
商人様は光魔法が使えるのですね。
魔族はあまり光魔法とは親和性がないと聞いていた。一部の系譜の魔族だけにその適性があると。
きっとそれは商人様の系譜なのでしょう。
光が収束すると、ご主人様がゴフッと血を吐き、微かに瞼が開く。
あぁ、無事だった。よかった。
私は安堵で全身から力が抜け、その場にへたり込んだ。緊張で強張っていた足も腕も震え出す。
そして、ご主人様は口を僅かに開いて言った。
「勇者は……「ライラ」の生まれ変わりだ」