5 穏やかな日々は突然に
その知らせは突然の来訪者から告げられた。
「魔王様!!」
ご主人様の部屋に急に現れたのは、初めて見る魔族だった。
というより、私はレイ様以外のお客様のお出迎えをしたことがなく、普段ご主人様と会っている魔族の方をほとんど知らないのだ。
ご主人様に勉強を教えてもらっていた私は突然のことに驚き、目をぱちくりさせていた。今日はお客様がくる予定はなかったはずなのに。
「……余は魔王を引退した。もう魔王ではない。今は別の魔王がおろう。お前らしくもない」
ご主人様は低い声で不機嫌そうに来訪者に告げる。
「……っ失礼いたしました」
焦った様子の来訪者は、深く礼を取った。
ご主人様より頭一つほど大きい体躯に太い腕、厳しい顔つきの迫力に驚いたけれど、それより何よりその格好に私は息を飲んだ。
血塗れなのだ。
きっとあの赤い色は血の色。服は一部破けている。一体何があったのだろうと、私の背筋がざわざわする。とても、とても嫌な予感がする。
「しかし……現魔王様は……討たれました」
「なに?」
「勇者が現れたのです。城の守りの者も多くが命を失いました。勇者も深傷を負ったため、魔王様を倒した後人間界へ逃げましたが、きっとまたきます。ですから……今一度魔王の座にお戻りください」
「それは……」
ご主人様は言葉を失っていた。
私は勇者と聞いて目を丸くする。それは、人間の中でも魔族と対等以上に戦える稀有な存在。物語や歴史の勉強の中でしか知らなかった伝説。それが、今この時に現れたなんて。
しかも、魔王様を倒したなんて。
「このまま城を落とされれば、勇者を中心として人間達が魔界へ攻め込んでくるでしょう。きっと奴らはこの豊かな魔界の土地を求めているのです。勇者以外の人間など本来とるに足りませんが、指揮を失った状態のまま数で攻められればどうなるかわかりません。どうか、ご決断を」
来訪者は深く頭を下げた。
それを見るご主人様の夜色の瞳は揺れていた。迷っているようだった。
「人間に城を落とされれば、いずれここにも人間が押し寄せるでしょう。そうすれば、ライラ様も巻き込まれることになるやもしれません」
ご主人様がぴくりと肩を震わせた。瞬間、一雫の水滴が落ちたときの水面のように空気が揺れる。
「ほう、余を脅すか。偉くなったものだな、ダグラス」
「っ……事実です」
ご主人様に睨まれ一瞬息を詰めた様子のダグラス様だったが、それでもはっきりと断言する。しかし顔を上げたダグラス様の額には、先ほどまではなかった玉のような汗が浮いていて、ご主人様に気圧されているのがわかる。
しばらくダグラス様を睨んでいたご主人様は、相手が折れないことを理解したのか、はぁ、と嘆息した。
「……わかった。しかし余が魔王となるのはあくまでも仮だ。早急に王の器のある者を探せ。その者が見つかるまで、余が玉座に座ろう。ただし、夜はここに戻る」
「魔王様、感謝いたします」
ダグラス様はほっとした様子で礼を取る。そして、現状を把握する必要があると言って、ご主人様を伴って城へ転移していった。その際ご主人様は私を見て、心配するなとばかりに優しく微笑んだけれど、私はあまりの怒涛の展開にただただぽかんとしているだけで、何も言うことができなかった。
勇者が現れて魔王様が亡くなって、ご主人様が魔王様に……?
ただ、ひたすらに嫌な予感がしていた。