44 ご主人様は違います
「ライラ、あの人間の宰相の話を聞いてどう思った?」
言いづらそうに口を開いたご主人様の質問がよくわからずに再び首を傾げる。
「最低だと思っただろう?」
「はい。あの人間は、自分の欲のために周りの人間を危険に晒し、魔族の意志を奪おうとしたのです。交渉のための捕虜とは言っていましたが、魔力と意志を封じられた魔族がどんな扱いになるか……考えるだけでゾッとします」
思ったことを伝えると、ご主人様は泣きそうな顔になる。
「ご主人様?」
「……余が、余がライラにしたことも、同じことだ」
「え?」
「余は、ルドラにライラを作らせた。ライラを余の命に逆らえぬようにし、この屋敷に閉じ込めた。ライラの意志など無視して。余は、余のためにライラの自由を奪い、意志を封じた。それはあの人間となにが違う? あの人間は意志を封じたまま望みを叶えようとはしていなかったのだから、余の方が悪質だ。余は……ライラに酷いことをしていた」
言われていることをゆっくりと飲み込む。ご主人様が、あの人間と同じ? 私が、意志を封じられている?
「私は、意志を封じられてなどいません」
思いの外硬い声が自分の口から溢れる。私の心の中には、沸々と怒りがわいていた。
「ルドラ様に聞きました。私がご主人様を慕う気持ちは、作られたものですかと。ルドラ様は、ご主人様の命に逆らえないこと以外には何もしていないと言っていました。だから、私がご主人様を慕い、側にいるのは私の意志です」
ルドラ様に私のことを聞いたとき、そう言われたのだ。だから、私がご主人様を慕うこの気持ちは、私自身のものだ。
ご主人様の目を見て、はっきりと伝える。しかし、ご主人様は私から目を逸らす。
「それは……生まれてから余の側しか知らぬからではないか? 余は、余以外の者との接触をほとんど許さなかった」
「確かに屋敷から出る前の環境では、私にはご主人様以外の選択肢はなかったかもしれません。けれど、私は外に出ました! レオナルドやルミエールと知り合いました! お姉様やルドラ様とも、前以上に関わりました!」
じわりと視界が歪む。あまりに腹が立ちすぎて、目からぽろぽろと涙がこぼれ落ちる。
「私は、ご主人様以外を知りました。でも、私が側にいたいのはご主人様です。私は、私の意志でここを選んだのです。あの人間と同じ? あの人間は、魔族を一個の人格を持つ者として扱っていなかったではないですか。初恋の相手の代わりとして、道具のように。ご主人様は、私を私でいていいと、代わりではなく、私でいいと言って……どこも、どこも同じではないです」
泣きたいわけではないのに、次々と溢れる滴は止まらない。ご主人様は、何もわかっていない。私が、どうしてあんな無謀なことをしたのか。屋敷からすら出たことのない私が人間界へ行くなど、どれだけ恐ろしいことだったか。
外の世界への憧れは確かにあった。けれど、それ以上に不安だった。その不安に蓋をして自分を奮い立たせたのは、ただご主人様のためを思ってのことだった。
代わりでもよかった。ライラ様の代わりであっても、それでも私はご主人様の側にいたかった。それは、ご主人様しか選択肢がなかったからではない。だって、お姉様は私を誘ってくれた。けれど、私は。
「私は、ご主人様が私の名前を呼んで、微笑んで撫でてくれるだけで幸せになれるのです。私を……私を勝手に不幸にしないでください」
私はご主人様の側にいて、ずっと幸せだった。きっと、この先だってずっと幸せなのだ。
「だが、ライラは一度こちらに戻った後も、人間界へ行きたがったではないか。この屋敷の中が窮屈だと、わかったからではないのか」
こんなに言っているのに、まだそんなことを言うご主人様に苛立ちを覚える。なんてわからずやなのかしら。
「そんなの、外が楽しかったからです。たくさんのことを経験しました。私は、外の世界の素晴らしさを知ったのです。だからなんだというのですか。それでも、私が帰る場所は、ご主人様の側しかあり得ないのです。それとも、外へ出る私のことはいらないのですか?」
「違う! そうではない……本当に、ライラは余の側にいることに、無理をしていないのか?」
「先ほどからずっとそう言っています。私は、前の私と違ってご主人様に従順なだけではなくなるでしょう。今だって、こんなことを聞いてくるご主人様に怒っています。外にだって出ようとするでしょうし、我が儘も言うかもしれません。それでも、私の居場所は、ご主人様の側しか考えられないです」
私はもう、ご主人様の命に従わなくてもよくなった。それでもきっと、ご主人様の言うことは聞いてしまうだろう。でもそれは、ご主人様が私の嫌がることを命じたりしないから。ご主人様はずっと、私を大事にしてくれていた。屋敷にいた頃はライラ様の代わりだったかもしれないけれど、ご主人様は私を一人の人間として慈しんでくれた。もしご主人様があの人間のように身勝手な欲望のまま私を扱っていたら、私はご主人様を慕ったりはしなかっただろう。
「余を……許してくれるのか」
「許すも何も、私はご主人様に何もされてません。ご主人様は、あの人間と全然違います」
やっと私の言っていることを受け止めてくれたのか、力の抜けた顔をしたご主人様はソファの背もたれに沈む。
「ではライラ、これから余のことは、ご主人様と呼ぶな」
「え?」
「もう余の名は知っているだろう」
頭の中に名前が浮かび、頷く。
「……余は、ライラを失ってから、余の名を呼ぶことを誰にも許さなかった。だが、それはもう終いだ」
座り直したご主人様は、私の目を見て言う。
「ノアと。なぜか使用人のように振る舞っていたが、そもそもライラは余の使用人ではない」
私は音を出さずにノア様、と口を動かす。
フェデリックに名を明かした時にどうして、と思っていたけれど、いざ自分がご主人様の名を呼ぶと思うと、なんだかむずむずする。
「どうした? ……余の名前など呼びたくないか?」
私は慌てて顔を左右に振る。呼びたくないのではない。なんだか座りが悪いのだ。
「呼んでくれ、ライラ」
しかし懇願するような顔のご主人様の願いを断るなんてできない。
「ノア様……」
絞り出した声はか細かった。けれど、舌に乗った言葉が音になって耳に届くと、じわじわと温かいものが胸に満ちていく。なんだか、以前よりずっと距離が近づいた気がするのだ。
私に呼ばれたノア様は、柔らかく微笑んで私を見る。
「えと、使用人じゃないとすると、私はこれからどうしたら?」
「ふむ。ハーブティーはこれからも淹れて欲しいが、屋敷の仕事はしなくてもよい。これからは外に出ることも増えるだろうし、そんな時間はなくなるだろう。文字の勉強もしないといけないしな」
これからは自由に外へ出て、色んなところに行けるのだと実感が伴う。それに、人間界では文字が読めず何度か困ったので、それも教わることができると聞いて口元が緩む。
「ありがとうございます、ノア様」
お礼を言うと、優しい顔をしたノア様は、私の頭をくしゃりと撫でる。
「余は、多くのことを間違えた。これからは、ライラとも、魔王としての役目とも向き合っていくつもりだ。余の側でこれからも支えてくれるか?」
「はいっ! 当然です!」
私が勢いよく返事をすると、ノア様は少し驚いたように目を見開いた後、晴れやかな笑顔でありがとう、と言った。
私はノア様のこの笑顔が曇ることがないよう、全力で支えになろうと、強く強く心の中で誓った。




