36 私は代わりじゃない
私は迎えにきたルドラ様と一緒に転移して魔界へ戻った。この前まで人間界に残れることに喜んでいたはずなのに、今は人間界にいることが辛かった。こんなによくわからない感情の揺れなんて経験がなくて、どうしていいかわからない。
「ライラ」
「ご主人様……」
転移した先にご主人様が待っていた。嬉しいはずなのに、嬉しくない。
「ライラ、話をしよう」
「私は……ちょっと疲れているので、今日は休ませてください」
話したくない。そう思ってしまった。
ご主人様にこんなこと言うなんて、使用人としても失格なのに、私はどうしても今は一人になりたかった。
傷ついたような顔をするご主人様に罪悪感を覚えるけれど、もう少し私の胸が落ち着くまで待って欲しい。
「魔王様。ライラ様は慣れない人間界でお疲れなのでしょう。しばらくはこちらにいるのですから、今日は休ませて差し上げたらいかがですか」
ご主人様は小さな声で、それもそうだな、と言って部屋を出て行った。一人になりたかったのに、私に背を向けるご主人様を見て、なんだか悲しい気持ちになる。
私はなんで自分勝手なのだろう。
「……ルドラ様」
「どうしました?」
ルドラ様は柔らかく微笑む。
「私、何かおかしいのです。胸がムカムカしたりきゅうっとしたり。一人になりたかったのにご主人様がいなくなると悲しくて。私は……私はどうすればよいのでしょう」
私は普通の人間ではないから、作られた人間だから、もしかして何か不具合でも起こっているんじゃないかしら。そう不安を吐露すると、ルドラ様はゆっくり首を横に振る。
「違います。ライラ様は、外の世界でたくさんの刺激を受けて、成長しているのです。変化のない日常では感じなかったさまざまな感情が芽生えているのでしょう。それは喜ばしいことですよ」
「せいちょう」
これが? こんなにままならない気持ちが、成長だというのだろうか。
「ライラ様が、人間とは少し違う過程で成長しているのは事実です。けれど、ライラ様は人間界へ行かれてからどんどん人間らしくなっていると思います。人間は……いえ、魔族もですが、その本質は自分勝手で感情的なものなのです。以前のライラ様のように、ただ魔王様のためだけに在ることを何よりの喜びとし、見返りも何も要せず、何も求めない、という形こそ歪なものだったのですよ」
色々ご不安があるなら、これを機に私に吐き出してください、ライラ様を作ったのは私なのですから、とルドラ様が私を促す。
私は聞きたいことがたくさんある。私は、私のことを何も知らない。人間がどういう生き物なのかも、私と人間の何が違って、何が同じなのかも。
ルドラ様は、私の疑問に一つ一つ丁寧に答えてくれた。
私とご主人様が話をすることになったのは、それから三日後のことだった。
教えてもらった様々なことを飲み込んで消化して、やっとご主人様と冷静に話ができるようになるのに、少し時間がかかってしまった。
ルドラ様が何か言ってくれたのか、ご主人様が私を急かすことはなかった。
ご主人様の部屋の前でふぅ、とひとつ深呼吸する。
胸の中のもやもやの正体も、この三日でなんとなくわかった。そして、自分がどうして欲しいのかも。ご主人様に何かを求めるなんて、こんな傲慢なことを願うなんて、いいのかどうかわからない。けれど、何も言わなかったら、私はずっとこの不快なものを抱え続けないといけないのだ。私の願いは叶わないかもしれない。でも、それでも、どう思っているかを知って欲しい。
覚悟を決めてノックをすると、程なくして中から「入れ」と聞こえてくる。少し汗ばむ手で扉を開けると、背筋を伸ばしてソファに座るご主人様と目が合った。
ご主人様に目で促され、向かいに座る。
何から話せばいいのかしら。言いたいことは決まっているのだけれど、どうやって伝えるかは何も考えていなかった。
「ライラは……」
私がまごついていると、ご主人様が口を開いた。
「余のことが、嫌になったのか?」
「違います!」
思わず大きな声を出してしまった。もしそうなら、こんなに私は苦しい思いなんてしないのに。あまりに何もわかっていないご主人様に、怒りが沸いてくる。
「私は! ご主人様を嫌だなんて思ったことありません! 私は、私は……ただ、私を見て欲しくて」
感情が昂って視界が滲んでくる。
「私が、ライラ様の代わりに作られたことはわかっています。もともと、私に与えられたのはライラ様の代わりという役割なのだと、理解しています。それを嫌だとは思っていません。けれど、でも……」
どう言っていいかわからない。私はライラ様の代わりかもしれないけれど、私には私の気持ちや考えがあって、それはライラ様とは違って、だから……。
「ライラ」
俯いているとご主人様が少し鋭い声で私を呼ぶ。反射的に顔を上げると、感情の読み取れない表情をしたご主人様と目が合った。
「ライラを、余の愛したライラの代わりにそばに置いたことは、事実だ」
ぎゅうっと、これまでで一番強く胸が絞られる。やはり私は……。
「だが……ライラ」
ご主人様はふわりと表情を緩める。
「よく考えたら、お前は全くあのライラと似ていない」
「え?」
懐かしむように目を細めたご主人様は、似ていないのだ、と続ける。
「あやつはとんだ跳ねっ返りでな。余の言うことなど聞かないし、魔界へきてからもしょっちゅう人間界へ足を運んでいた。余に転移させてな」
くくっと笑いながら、ご主人様はライラ様との思い出を語っていく。
ライラ様は、何度教えても敬語が最後まで身につかなかったとか、外が危険だと言ってもこっそり抜け出すのをやめなかったとか。
想像していたライラ様とご主人様が語るライラ様が違いすぎて私は唖然とする。
「情にも厚くてな、どこの誰とも知らぬ人間の不幸に涙して、関わりのない魔族の怒りに同調する。……ライラはよくハーブティーを淹れてくれたが、雑なのか、毎回味が違った」
ご主人様は、すっと表情を真剣なものに戻し、私を見据える。
「見た目しか似ていないな」
似ていると、前は思っていたはずなのにな、とご主人様は呟く。
私はその言葉をどう受け取ってよいかわからず、何も言えない。
「余は……確かにライラを、ライラ達を、あのお転婆の代わりにそばに置いた。だが、ライラ達があやつと違うことなどわかっていた。わかっていたが、余はずっと逃げていたのだ。現実から、ずっと」
そう言って、ご主人様はゆっくりと目を瞑る。
「ライラが人間界へ行ってしまったことを知った時、余はやっと、現実を受け入れた。ルドラ達にも怒られてな。わかっていたのだ、本当は。あのライラはもういない。余のそばにいるのは、別の人間だ」
私はごくりと唾を飲み込む。それは、どういう意味なのだろう。もう、私は要らないということなのだろうか。
「それでもなお、ライラがあのライラでなくとも、余のそばにいて欲しいのだ。余がライラを心配するのは、代わりだからではない。まだ十年しか生きていない、外のことを何も知らないライラのことが心配でたまらないのだ。大事だと、思っている」
ぶわりと、胸の中に温かいものが広がる。視界がきらきらと明るくなったような心地がする。
「私は、ライラ様の代わりではないのですか?」
「違う。もし、ライラに何かあったら、余はそのことを悲しむだろう。次またルドラが別のライラを連れてくるとしても、深く悲しむだろう」
ああ、この言葉だけで、この言葉だけで十分だと、私の心が歓喜する。
胸のムカムカは消え失せ、羽が生えたように身体が軽く感じる。
「私は、私としてご主人様のそばにいてよいのですか?」
声が震えているのが自分でもわかる。
「ライラに、そばにいて欲しいのだ」
瞬間、目から次々と滴が溢れてくる。喉の奥がひくついて、私はしゃくりあげながら泣いた。
ご主人様は私が泣き止むまで、繊細なガラス細工を扱うように優しく私の頭を撫で続けてくれた。




