2 私の世界
「あっ」
今日はご主人様にお客様が来る日だと聞いていたから、洗濯のお手伝いをしようと思って洗濯物を運んでいた。よたよたと歩いていたら、庭に続く窓が開いていたようで、抱えていた洗濯物の上に乗っていたハンカチが風にさらわれ外へ飛んでいってしまった。
伸ばした手をするりと避けたハンカチは、庭の真ん中辺りに着地する。
「どうしましょう」
私はご主人様にお屋敷の中から一歩も外に出てはいけないと言われている。それは庭も同じ。
庭ならいいのではと思って聞いてみたこともあるけれど、ご主人様は頷いてくれなかった。ご主人様の許しが得られない以上、庭に出るわけにはいかないのだ。
「そもそも、どうしてこの窓が開いていたのかしら」
庭を睨みながらぶつぶつと呟いていると、誰かの足音が耳に入る。少し急いでいるようなその音はどんどん近づいてくる。
「ああ、ライラ嬢。こんなところでどうしたのですか」
そこには執事服を纏った二足歩行の山羊がいた。彼はご主人様の眷属で、執事の役割を担っている。執事なら羊にすればいいのに……と思ったけれど、そう言ったらご主人様に微妙な顔をされた。
「あの……執事さん、ハンカチが飛んでいってしまって」
「ああそうでしたか。……窓が開いてたのですね。ということは……」
執事さんは庭へ出てハンカチを拾うと、きょろきょろと辺りを見回す。そして、私のいる場所からは見えない庭の奥の方に目線をやってから、「あ」、と呟く。
執事さんの行動の意味がわからず首を傾げていると、私の元に足早に戻ってきた執事さんがハンカチを私に渡しながらすぐに部屋へ行くように言う。
別にここにいたいわけではないけれど、何だか慌てている様子に益々首を傾げる。
「俺はライラちゃんと遊びたかったのに、つまらないことすんなよ」
すると、庭の奥からにゅっと人が現れた。
褐色の肌に真っ赤な瞳。瞳と同じ燃えるように赤い髪の毛をたなびかせて現れたのは……ご主人様の古いご友人のレイ様だ。おでこの真ん中から立派なツノがにょきりと生えている。ご主人様も頭の横にくるくる羊のようなツノが生えているから、お揃いで羨ましい。無意識に自分の頭を触ってしまう。何もない。
執事さんはレイ様を見て「あぁ……」と嘆く。どうしたのだろう。
「お久しぶりです」
私がお辞儀をすると、レイ様は近寄ってきて私の頭をわしゃわしゃとかき混ぜるように撫でる。
「おー。ライラちゃんはまだ外に出してもらえないのか。せっかくハンカチ飛ばしてやったんだからこっそり出ればよかったのに」
なんと、ハンカチを飛ばしたのはレイ様だったのか。風の魔法かしら。
「レイ様、ご主人様を怒らせるようなことはなさらないでください。以前もライラ嬢に変な言葉を教えてご主人様を怒らせたことを忘れたのですか」
「なんだよ。ちょっとした悪戯じゃないか。それにここの庭なら安全だろう。全く過保護すぎるんだよ」
そういえば以前レイ様に「これを言えばあいつが喜ぶから」って言われた言葉をご主人様に言ったら、ご主人様が固まってしまったことがあった。一体なんだっただろうか。ご主人様に忘れるように言われたから忘れてしまった。
「ご主人様がお部屋でお待ちです」
「全く、主人が主人なら眷属も眷属だな。遊び心ってもんがねぇ。そうだ、ライラちゃん部屋まで案内してくれよ」
「レイ様!! ライラ嬢は洗濯物を運んでいるのですから邪魔しないでください」
「そんなんお前が代わりに持ってけばいいだろ。いいじゃねぇか別になんもしねぇよ」
そう言ってレイ様は私が持っていた洗濯物をひょいと奪って執事さんに押し付けた。
「じゃ、ライラちゃん案内してくれや」
制止する執事さんを無視して私の背をぐいぐいと押してくる。どうしていいかわからず執事さんの方に目を向けると、目があった執事さんが首を横にふるふると振ってからご主人様の部屋のある方を指差す。
案内しなさいってことかしら。
私は了承を伝えるように頷いて、レイ様をご主人様の部屋まで連れて行く。というか、多分レイ様ならお一人でも行けるはずなのだけれど。
ご主人様の部屋の前まで行き、いつものようにノックをする。すると、中からいつもより低い声で「入れ」と聞こえる。どうしたのだろう、今日はあまり機嫌がよくないのかしら。
今朝はそんなことなかったのに、と思いながら扉を開けると、ソファに腰掛けたご主人様がこちらに振り向く。そして私と目が合って固まる。
「…………ライラ? 執事はどうした」
「レイ様が私に案内するようにおっしゃったので……」
私がそう言うと、扉の陰に隠れていたレイ様がひょこりと部屋へ顔を出す。
「よぉ。久しぶりだなぁ」
レイ様の顔を見たご主人様は、眉間にシワを寄せてからはぁ、とため息を吐く。
「本当にお前は……ライラ、もうよい。部屋へ戻れ。茶なら別の眷属に頼んでいるから」
私は「はい」、と言って下がろうとしたが、その前にレイ様が私の肩に手を回したため身動きが取れなくなる。
「せっかくだから三人でいいじゃねぇか。お前と二人じゃつまんねぇからさ」
「何がせっかくなのかわからんが……つまらないなら来なければいいだろう」
「いやいやそりゃねぇぜ。お前の数少ない友人なんだから大事にしたほうがいいんじゃねぇか」
私はそのままレイ様に引き摺られるようにして部屋の中に入る。ご主人様には退出するように言われているので戸惑う。どうしよう、ご主人様は私に部屋を出るように言ったのに、これでは命令に反している。
ご主人のすぐ近くまで来た私は、ご主人様を困惑の目で見る。
「……わかった。ライラ、余の隣に座れ」
私はほっとして、レイ様が向かいに座ったのを確認してからご主人様の隣へ腰掛ける。
「今回のライラちゃんはここへ来てもう何年だ?」
「十年だ」
「あっという間だなぁ」
二人が会話をしているとノックの音がして、お茶を用意してきた眷属のメイドさんが入ってくる。二人だと思っていたところに三人いて驚いたのか、ピシリと固まって背中の小さな羽を迷うように動かしている。
「ああ、レイは茶などいらぬよな?」
「いやいやなんでだよ。カップくらいすぐ出せるだろ」
ご主人様は嘆息してから指を鳴らしてワゴンにもう1セット、カップを増やす。
「すぐご用意いたします」
メイドさんは恭しくお辞儀をした後、無駄のない動きでお茶の準備をする。
「で、さっきの話の続きだけどよ」
「……続いていたのか」
「もうそろそろ庭くらい出してあげてもいいんじゃねぇか。前回のライラちゃんはあれだろ? 外に買い物に行った時に」
「レイ」
低い声でご主人様がレイ様を呼ぶと、突然部屋の空気が重くなる。ビリビリと肌に恐怖が纏わり付き、呼吸が苦しくなる。ご主人様がレイ様に魔力で圧をかけているのだ。私に向けられたものではないのに、足まで震えてくる。
「ライラのことは、余が決める」
ご主人様が静かに言い放つと、レイ様は一瞬苦しげな顔をした後にはあーと大きくため息をつく。
「わかったよ。余計なこと言って悪かったな」
途端、空気がふっと軽くなった。私がぜえぜえ胸を上下させていると、横から伸びてきたご主人様の手が労わるように私の頭を撫でてきた。私は撫でられる度に呼吸が楽になるのを感じた。
メイドさんは何もなかったかのようにお茶を用意している。眷属にはきっと影響がないのだろう。何せご主人様の魔力から生まれたものなのだから。
私には二人の会話がよくわからなかったけれど、チャンスかもしれないと思って前々から思っていたことを言うことにした。
「あの、私……庭に出てみたいです」
「…………ライラ?」
再び部屋が剣呑な空気に包まれる。私はビクリと肩を震わせた。
どうしよう、怒らせてしまった。
私が固まっていると、レイ様が助け舟を出してくれた。
「ライラちゃんはどうして庭に出たいんだ?」
ご主人様がレイ様を睨み、レイ様は肩を竦めた。答えていいかわからず二人の顔を交互に見ていると、ご主人様が嘆息し、「答えていい」と言った。
「あの、以前読んだ絵本で、外で食事をする場面があって……ご主人様と一緒に庭で食事できたらなって」
私がそう言うと、ご主人様は少し目を丸くしてから微笑む。部屋の空気は穏やかなものになった。
「……それなら、余と共になら許そう。一人で出ることは許さぬ」
「いやぁ、ライラちゃんなかなかあざとく育ったなぁ」
レイ様が手を伸ばして私の頭を撫でると、その手をご主人様がパシリとはたき落とす。
「レイ、お前は先ほどから馴れ馴れしい。それと、ライラは純粋に思ったことを言っただけだ」
ご主人様とレイ様は再びやいのやいのと言い合いを始めたが、私はご主人様から庭へ出る許可をもらったことで頭がいっぱいで何も耳に入らなかった。
生まれて十年、私の世界は今日少しだけ広がったのだ。