09
鍵といっても簡素なもので、あの一本で屋敷のほとんどの鍵が開いてしまう。だから持ち主は慎重に選ばれなければならなかったし、つまりガウリスは鍵を持ってはいなかった。それを思えばなおさらガウリスは悲しんだ。ああ、師にはなんという裏切りか。鍵も娘も預けるほどに信頼した男から、こんな辱めを受けようとは。
扉に耳をつけてなかのようすを伺う。か細い悲鳴と、いやらしく怒鳴りつける男の声が聞こえた。助けなくては。しかし、どうしてなかに入ったものか。扉を押し開けようとしても内側から押さえられているらしく、がたがたと揺れるだけで叶わない。重ねて悪いことに、音に悪党が気づいたらしく、大きな怒鳴り声となにかが倒れる派手な金属音が聞こえた。
頭の先端から血の気が引いていく。ここは鍛冶場だ、なかにはたくさんの剣や斧がある。今のはそれに違いない。愛に狂った気違いがあの鋭い刃を見て、果たしてなにを思うだろうか。
とにかく、一刻も早く彼女を助けなくてはいけない。ガウリスはあたりを見渡した。
入れる場所。窓はあるが彼の身長の倍も高い位置で、小屋はぐるりを背の高い木々に囲まれてはいるがいずれも離れすぎている。規則正しく積まれた石造りの壁は指を掛ける隙もなく、見上げども登れそうにない。
けれど猶予もない。
と、彼は思い当たる。そうだ、馬車だ。厩にはなかったのだ、もしかしたら近くにあるかもしれない。馬車が戻らないという女中の言葉を思い出せば賭けに等しかったが、小屋を一周すると、それは見つかった。
ガウリスは急いで馬を窓の下まで引いた。しかし車に飛び乗ろうとして馬が暴れたため、手間ではあったが自由にしてやった。そうして安定した天井で両腕を伸ばせばなんとか窓に届き、縁に登ることができた。
その高さから屋内を見渡す。散らかった剣が鈍く光る。埃が舞い、暗がりに影が二つ、壁によってもがいているのが見えた。疑いない、パリスとあの従者だ。
二人も窓の影に気づいたらしく、まずパリスが叫んで手を伸ばした。それを従者は乱暴に掴んで殴り、乙女は勢いよく地面に頭を打った。嫌な音が響く。金色の髪が徐々に色を変えていく。痛みを両腕で抱え、パリスは華奢な体を丸めて静かに震えた。
震えていたのは彼女だけではない。哀れな乙女を目の当たりにして、ガウリスはまなじりを決し咆哮した。知らず拳を握り、怒りが身を震わせる。
彼が窓から飛び降りると、従者はすぐさま傍らにあった斧を手に取った。血走った目が夜闇にぎろりと光る。ガウリスも怖じることなしに剣を取り、一歩、また一歩と悪党に歩み寄った。敵の足元に横たわるのが乙女となれば、慎重になさねばならない。
しかし従者は相手がガウリスと知るや、これぞ好機と小さく笑んだ。自分より頭一つも小柄な田舎者になにを恐れるものか。ましておのれの半分も生きない幼子ぞ、さあ、なにを恐れようものか。
従者は斧を振り上げて襲い掛かってきた。ガウリスがひらりとかわすとその背を目で追い、すぐに体勢を整えて次には横に振る。またもガウリスが避けると、斧の重みは男の体を一回転させた。
隙をガウリスは見逃さない。すぐさま従者の背を蹴り飛ばすと倒れ伏す乙女に駆け寄った。彼女は恐怖と痛みに色を失っていたが、彼の呼びかけには頷いて答えることができた。まずは一つ安堵して、ガウリスはまた悪党に向き直る。
従者はふらふらと立ち上がると、また斧を振り上げた。興奮から顔を真っ赤にし、肩で息をしている。焦点の定まらない視点は、もはや尋常ではなかった。男が雄叫びを上げると、パリスがヒッと身を強ばらせる。
ああ。この小屋で、いや、城からずっとこの男といて、さぞ恐ろしかったろう。ガウリスは乙女を哀れに思った。固く握った拳には小さな傷がいくつも見られ、彼女が抗ったあとが見受けられる。
大丈夫。そう言おうとして彼女の髪をそっと撫でたとき、悪党の怒声が響いた。
「汚らわしい手で触るんじゃあない」
とたん、いくつもの鋭い銀色が彼に降りかかった。窓から差し込む星の光を銀色がきらきらと返す。正体を認めるなり彼は畏怖し、しかし避けはしなかった。
今、彼の使命は乙女を守ることにある。
従者は見境なしに、足元に散らかる剣や斧を彼に向かって投げた。幸いに距離があったがため斧は届かずに落ちたが、剣や槍はガウリスの体を容赦なく傷つけた。それでもここを動けない。なぜなら、彼が動けばその刃先は、力なき乙女を襲うだろうから。
むろんこのままではいけない。さて、どうしたものか。
考えるうちに次の不運が起こる。鉄の雨に動けぬガウリスの左肩を一本の槍が貫いた。思わず声を漏らす。染まっていく衣服を見て、パリスの目から一つ、涙がこぼれた。
痛みにうなだれる。思考は白く停止し、死の覚悟をもした。この窮地を脱する方法が、あといくつ残っているだろうか。
いいや、悪事は必ずうまくはいかない。
直後、雨が静まった。ほんのわずかな瞬間だ。従者のもとに、もう投げるものは残っていなかった。それでも悪党はやめようとせず、届かずに落ちた斧を拾おうと三歩進む。
させるものか。
ガウリスは振り返ると、傷の痛みもいとわずに敵に駆け寄った。そして彼より先に斧を拾い上げると左から右へと大きく振り回した。悪党は恐れおののいて、後退しようとして尻もちをついた。
だがやはり、左の肩の自由が利かない。振り下ろした斧は力なく逸れ、この上にも悪党に好機を与える。
斧をガウリスの手から奪い取ると、従者は彼の肩から槍をも引き抜いた。堪えていた激痛にガウリスはうめき声を上げる。とめどなく流れる温かい赤を感じながら、体が急速に冷えていくのを覚えた。
悪党の足が彼の胸を蹴り飛ばす。倒れるわけにはいかない、けれど遠ざかる意識のなかで、もはや抗う術はなかった。仰向けに倒れ天井を見上げ、胸になにか重いものが跨る。下賎な笑い声、忌々しい眼光が彼に向けられる。ぼんやりと見えるものは、ああ、師の手がけた剣だ。
死ぬのか。いいや、だめだ。なぜならば、今彼が死んで、では乙女はどうなろうか。
助けが欲しい。叫ぼうとしたとき、突然、どこかを見つめる悪党の目の色が変わった。
「ああ、その少年を放しなさい。さもなくば」
小さな、愛らしくも弱々しい声が響く。
「さもなくばこの命、ただ今をもって絶たれましょうぞ」
震えていた。声だけではない、ガウリスを捕らえる悪党の手すら、がたがたと震えている。しかしその言葉の意味を、ガウリスには考えることができなかった。
ゆっくりと顔を傾け、悪党の視線を追う。彼が見ていたのは、一人の乙女。麗しい金髪の乙女が、自らののど元に、一振りの短剣を突き立てていた。
――いけない。