08
ガウリスに頼れる当てなどなかった。宿もなく、ときどき食べるものを求めていくほかは、夜もダロンの邸宅の前に居座っていた。
数日もすると、さすがにダロンも気にし始めた。浮浪者が門前で寝泊りしているのをいつまでも許しておくのは評判もよくない。そこで彼は、親友でもある王、ロスダルニャに相談した。ロスダルニャはすぐに従騎士をよこし、ガウリスの説得に当たらせた。
その従騎士こそウォルドだった。
始めは意地を張っていたガウリスも、ウォルドが丁寧に挨拶し、やがて彼が自分と同じ年齢と知ると、説得を受け入れ始めた。そしてウォルドも、この一途な青年に興味を持った。
行く場所のないガウリスを、ウォルドは自身の家へと招いた。そしてしばらくこの家で暮らすうち、簡単な文字の読み書きや騎士の所作を覚えた。
もちろん鍛冶の夢を諦めたわけではない。ガウリスはその後も幾度となくダロンの家を訪ねたが、依然として弟子入りは認められなかった。というのも、ダロンにはすでに多くの弟子がいたからだ。ダロンも無下にはできず、すでに独立した弟子の下での修行を勧めた。ガウリスはダロンこそ大陸一の鍛冶職人と信じ彼に教わることを最上とはしていたものの、意地を張り続けるのは本末転倒とこれを受け入れ、晴れて鍛冶屋の見習いとなった。
そこで、彼は周囲を驚かせた。
彼はほかの弟子よりもずっと覚えが早かった。元来、ハオン島の民は器用だといわれているが、ガウリスの鍛冶への情熱も手伝って、またたくまに技術を身につけていった。そして弟子入りして一年後には、のちにも名剣として伝えられることになる一振りを生み出した。
ウォルドはそれを今も愛用している。すなわち、彼の腰に下がるムーティッヒトリルこそガウリスの処女作であり、あのトリル山の獣の冒険ではウォルドをよく助けた。まだ見習いだったガウリスの打ったそれは偶然の産物といわれたこともあったが、この剣があったからこそ今日の彼があるといっても過言ではないと、ウォルドは思っている。
やがて当時の師は彼に恐れを抱き始める。ガウリスを弟子として、果たして師としての役目が果たせるか。彼の師として、いつまで彼に教え続けられるだろうか。それにはまだ、経験が足りなすぎた。
そこで師は、ガウリスを改めてダロンに推薦した。ガウリスが大陸に渡ってきて一年と三月が過ぎたころだった。
「あなたもよくやるわね」
パリスが初めてガウリスに掛けた言葉は、とても冷ややかなものだった。金色の髪、白い肌、淡い碧の瞳の美しい乙女は、父の元に弟子入りしてきた小柄な青年を、今もって受け入れることができなかった。いいや、もとより、彼女は刀鍛冶の仕事に理解が少なかった。弟子のなかには王子の婚約者と承知の上で言い寄ってくるものもあり、当然そういう輩はすぐに去っていったが、彼女に嫌悪を与えるには十分だった。
この青年とて、腹の底でなにを考えているや知れない。
屋敷に初めてやって来た彼を、彼女はその言葉で遠ざけようとしたことは疑いない。
しかしガウリスとて、目下、熱中していたのは鍛冶のみだった。パリスがいかな美女とはいえ、彼の目には映っていなかったに違いない。彼女の言葉の意味も、彼はそう深くは考えなかった。
それきり、二人が直接言葉を交わすことはほとんどなかった。一日のうちに何度がすれ違ったりすることはあっても、ガウリスが鍛冶場へ入ったりパリスが城へ出かけていけば、顔を合わせることもない。なにしろパリスは鍛冶場には一切寄り付かなかったし、ガウリスとて城への出入りができるはずもなかった。
二人が触れ合うことはなかった。きっとそのあとも、本当ならそうだったに違いない。
まもなく戦争が始まるといううわさが囁かれながらも、当時はまだ、この国は平和だった。
ことが起こったのは、ガウリスがダロンの屋敷に来てから半年ほど経った新月の夜だった。
職人たちはその日の仕事を終え、無人になった鍛冶場にはダロンの一番弟子、ロトスが鍵をかけた。月の出ない夜には宴を催すことにしていたから、弟子たちは連れ立って食堂へ出向き、なかにはガウリスの姿もあった。兄弟子たちは酒をあおっていたが、ガウリスはまだ十九歳。呑めない代わりに、実家の酒蔵のことを話しては宴を盛り上げていた。
途中で城から帰ってきたダロンも加わった。それまでは実に楽しい宴だったと、のちにロトスは思い返している。
報せを持ってきたのは、ダロンの屋敷に仕える女中だった。白髪の混じる老いた女中は、息を切らせて食堂へ駆け込んでくると、主であるダロンを探して叫んだ。
「お嬢様がお帰りにならないのです」
今にも泣きそうな顔で経緯を話し出す。そもそも、パリスも今日は城へ出かけていたのだが、ロスダルニャ王がダロンと二人で話をしたいからと、彼女を先に帰らせたのだ。もう二時間も前になる。
食堂内は騒然となった。ダロンや弟子たちはすぐさまその場をあとにして、街中へ飛び出していった。が、およそ半分はすでに酔いが回りきっていて、ところどころ道の傍らで休んだり倒れたりしていた。
ダロンの話を聞けば、パリスのことは数年来の信頼ある抱えの従者に任せ、馬車を見送ったという。しかし女中の話では、馬車は屋敷に帰ってきていない。
馬車が襲われたのだろうか。いいや、まさか。城から屋敷までを繋ぐ道はほとんど街中を通っている、騒ぎにならないはずがない。もし襲われたとするなら城の近くだろうが、二時間前は明るすぎる。遮るもののない視界で、距離はあるが城からも街が見渡せることをガウリスはダロンから聞いていた。城では当然、見張りの兵が城壁の上に常にいる。
だとすれば。
ガウリスは考えたのち、まずまっ先にダロンの屋敷へと戻った。庭内を走り、厩を確認する。もちろん馬車はない。
違和を感じ、敷地内をパリスの名を呼びながら彷徨う。屋敷内も騒然としていて何人もの下回りに出くわしたが、みな一様に不安に顔を歪ませていた。
屋敷内にはいまい。きっとだれもがそう思っていた。
――いや、ここだ。
みなが否定するほど、ガウリスは確信した。そして敷地内でありながら彼女が唯一立ち入らない場所へと走る。
嫌な予感がしていた。
恋愛に関しては、きっと屋敷の、いいや、この街のだれより、ガウリスは疎かったに違いない。実際に故郷で何年と彼に想いを寄せ続けた幼馴染のことも、彼はこのあと、永劫知ることはないのだから。
けれど彼女に関しては。この麗しい乙女に対する男たちのまなざしに関しては、きっとだれより純粋だった。彼は気づいていた。だれもが彼女に恋の瞳を向けるなか、ただ一人、異質な愛情で彼女を見つめる視線に。
庭園の片隅に建てられた鍛冶場に辿りつくと、彼は扉を調べる。
鍵はかかっている。が、だれもいないはずだのに、なかから物音がする――間違いない。
あの従者ならば、ここの鍵も持っていたはずだ。