07
彼の姿を見て、チェリファリネは思わずレジェンの背に隠れた。白い肌を紅潮させたジェイファンの姿は鬼にも見える。
彼女は思い返した。三年前、ガウリスが行方知れずになったときに訪ねてきたジェイファンは、とても誠実そうだった。我が子に降りかかった危難にさぞ不安だったろうガウリスの両親に見せた気遣いに、当時、チェリファリネは感謝していた。
けれど蓋を開けてみれば。彼こそ、ことの元凶だった。
チェリファリネは怒りに拳を震わせる。ふと見れば、レジェンも首筋に汗を伝わせている。いつも穏やかなレジェンが、睨みつけるように目の前の身分高き男を見据えている。
その視線に気づき、ジェイファンが彼の姿を認める。小さな背、肩まで伸びた黒い髪、同色の目。
「‥‥ガウリス、生きていたのか」
だれもが兄と見まがう弟を、ジェイファンも兄の名で呼んだ。レジェンは答えない。
ジェイファンはつかつかと彼に歩み寄り、その胸倉を掴んだ。
「王子、おやめください」
慌ててウォルドが止めに入るものの間に合わず、ジェイファンはレジェンを押し倒す。レジェンも抵抗はしたが、この身長差では無意味も同然だった。背後にいたチェリファリネが短く悲鳴を上げてわきに転げる。階段に倒れこんだレジェンは、段の角に背中を強く打ちつけて唸った。
「災いめ、よくも我がブリランテの土を踏めたものだ。おまえがため、パリスはすっかり狂ってしまった。おまえを探してこの三年、ほとんど家にも戻らないではないか!」
ひどい剣幕で捲くし立てながら乱暴に叩きつける。小さなレジェンの体は壊れそうなほどに上下し、両手はジェイファンの手を強く掴みながらも、振り払うことはできなかった。
ウォルドが止めようとジェイファンを後ろから抑え、チェリファリネは傍らで身を震わせている。なにか叫んでいるが、レジェンには聞き取れなかった。
「なぜ生きている? おまえは――」
言いかけて、ジェイファンは我に返る。その続きはきっと、だれにも知られてはいけない。取り分け、彼の背後の騎士には。
一瞬のためらいを見逃さず、レジェンはようやくその手から逃れた。激しく咳き込みながら後退し、けれど鋭いまなざしはそのままにジェイファンを睨みつける。そして息も整わぬうち、彼は怒鳴った。
「それでも兄さんは生きている」
はっきりと、声はよく響いた。
今にもジェイファンに飛びかかっていきそうな雰囲気に怖じいて、チェリファリネがレジェンに寄り添う。きっとウォルドさえいなければ、ジェイファンもレジェンも、互いに本性をさらけ出して抑止が利かなくなっていたに違いない。身分も体格差も省みず。チェリファリネにはそれが恐ろしく思えた。
すがるように幼馴染にしがみつく。彼の体はいつもより熱く、速い鼓動が強く伝わってきた。
「王子、彼はレジェンです。ガウリスの弟の。王子も三年前、島で何度か会っているはずです」
「‥‥ああ」
ウォルドが説明すると、ようやく少し冷静さを取り戻したジェイファンが力なく頷いた。肩で息をしながら、気まずそうに顔をしかめる。
静けさがあたりを包む。
「すまない」
短く言って、よろよろと立ち上がる。顔はまっ青になり、そこに一国の王子たる風格も威厳も見いだせなかった。
案じてウォルドが支えようとすると、首を振り片手で払った。うなだれ、ゆっくりと玄関へと引き返していく。レジェンたちは黙って見送っていたが、ジェイファンは数歩歩いたところで立ち止まると、振り返って呟いた。
「ガウリスが生きている、と?」
ピンと張り詰める。早朝の冷たい空気が重く落ちてくる。問いに、しばらく答えはなかった。
やがて無言で、レジェンが強く頷く。ぎろりと彼を捉えた視線が逸らされぬまま、ジェイファンの反応を待っていた。
「‥‥そうか」
やはり、呟くような声で。それきり、ジェイファンは振り返らずに家をあとにした。外から騎士らが声を上げ、行進していく足音が響いてきた。
彼らがすっかり見えなくなってから、ウォルドはドアを閉め、深くため息をついた。緊張の糸が切れ、チェリファリネが崩れるようにレジェンにもたれる。小さな肩が小刻みに震えていた。
レジェンはまだ、玄関のドアを見つめていた。
「レジェン、大丈夫?」
チェリファリネがそっと尋ねる。
「‥‥大丈夫」
歩み寄ってきたウォルドに手を差し出され、立ち上がる。と、今になってようやく背中に痛みを感じた。気を張っていたからか、さっきまではさほど気にならなかった。
「町を通り抜けるあいだに見ただれかが勘違いしたんだろうな。本当におまえはガウリスによく似ている」
くしゃくしゃとレジェンの髪を撫でながらウォルドが悲しげに笑う。
「昼になったら、改めて城に挨拶に行こう」
でなきゃまた誤解するやつが出てくるだろうから、とウォルドは言ったが、レジェンには気が重かった。
まさかジェイファンの口から直接あんな言葉を聞くとは思わなかった。真実にも近いその意味をきっとウォルドは知るまい。知るべきではない。
言ってはいけない。言葉を、両の拳でぎゅっと握り潰した。
しばらくの沈黙のうちにそれぞれが思案する。やがてウォルドが口を開くと、レジェンとチェリファリネはうつろな瞳で彼を見やった。
「もう気づいてると思うけど、この際だからはっきりと話しておきたい」
そう前置きして始めたのは、レジェンの兄ガウリスと、美女パリスのことだった。
そもそもなぜ一国の王子であるジェイファンが庶民でしかないパリスと婚約したのかといえば、彼女の美しさが彼の心を射止めたことに他ならない。もとより父親ダロンは腕利きの鍛冶屋として城にも出入りしていたが、この契りは王とダロンの友情をいっそう深めさせた。
しかし当の本人、パリスにとっては受け入れがたかった。というのもそれはもう十四年も前のことで、当時彼女は、まだ十三歳の少女。愛だ恋だという言葉を知ってはいても、正確に意味を知りえはしなかった。
理解したのはガウリスに出会ってからだった。
鍛冶を学びたいと大陸に渡ってきたガウリスを、初めはだれもが相手になどしなかった。子どものような小柄な体に、文字の読み書きもできない田舎者。鍛冶に憧れてきたというものの、争いのない島で育ったガウリスは、剣も斧も数度しか見たことがなかった。
ダロンは気にも留めなかったし、ほかの弟子も彼を嘲笑した。パリスとて、いつまでも門前で粘り続ける彼に、当初は嫌悪さえ抱いていた。
奇遇にも同い年だった二人は当時、十七歳。結果を思えば、この出会いはあまりにも遅すぎた。あと三年、いいや、それ以上早く二人が出会っていれば、なにか変わったかもしれない。
普通の恋人ならば、決して遅い出会いではなかったのに。