06
静かすぎるように思えた。
奥の台所から食欲をそそる匂いが漂ってくる。鍋の煮え立つ音、包丁がまな板を叩く音に混じって、近くの川の水音が聞こえる。暗くて気づかなかったが、この家の裏に大きな川が流れているらしい。
「今は死者の川さ」
ウォルドが呟いた。
「こんな状態だろう。いくら信者でも、ブリランテの民はフィーネ双山にも行けやしないのさ」
だから川に流される。それが聖地を失ったブリランテのラドリアナ教徒の末路だ。というのも、ラドリアナ教の聖地――すなわちフィーネ双山はコモードにある。
ラドリアナ教徒はその命を全うすると、儀式にのっとり、フィーネ双山へ埋葬されるのが常だ。レジェンやチェリファリネも、かつて双山へ向かう葬列を見送ったことがある。三年も前だ、あのとき助けれくれた商人アウクは、今は見れたものじゃあないと言っていた。長引く戦、増える一方の死者。絶えぬ葬列に、山はもとの美しさを失っている。
コモードは不幸だと、彼らは思っていた。しかしブリランテ側に来てみれば、コモードのほうがまだ恵まれていたのだと知る。この世に生を受けてからずっと信じてきた教え。最後の場所と信じていた聖地に、ブリランテ国民は行くことができないのだから。そこで眠ることができないのだから。
レジェンたちに信仰はない。しかし、兄、ガウリスのことを思えば胸が痛くなった。島民にとっては島で命を終えることこそ、安らかな永久ではないだろうか。
兄は果たして、帰ってこれるのだろうか。いいや、自分たちは魔女の予言に反した。すがるものはもうなにもない。
ウォルドがまたカップを眺める。彼の顔を覗きこみ、チェリファリネは思い起こして首を傾げた。
かつて、島にいたとき。あのときの彼は、こんな顔をしていただろうか。思案に暮れたこんな顔を、傷つき飛べなくなった鳥のような哀愁を、あのときの彼は持っていただろうか。
思い当たることは一つもない。
「平和こそ望まれた人の生業ぞ、って彫ってあったんだよ」
チェリファリネの視線に気づいてウォルドが微笑する。
「玄関の木剣には〝剣を敵に捧げよ〟――どちらも聖書の一節だ。でも今そんなことを主張してみろ、非国民だと言われて、どんな目に合うか」
削られたカップの面を指でなぞる。もともときれいだった手は今や傷だらけで、彼の戦いを記録していた。
しかし、なにもカップまで削らなくても、と思って、レジェンは気づく。ウォルドは若いながらも腕の立つ騎士だ。この三年のあいだに彼の勇名を何度も耳にした、ブリランテでも一、二を争うといわれるまでの騎士へと成長していた。彼を慕う者も多くいるはずだ。いいやしかし、先ほど彼の母は、友人が来るのは三年ぶりだと言っていた。
ならばだれがこの家を訪ねるのだろう?
「‥‥ジェイファン王子は、よくここに来るの?」
問うとウォルドは驚いて目を見開いた。
「なんでわかった?」
「きみに反戦を唱えられて一番具合が悪いのは彼だろう」
彼、という呼びかたに、ウォルドがやや顔をしかめた。だがレジェンの読みは正しい、ウォルドは静かに頷く。
「王子は今、まったく落ち着きをなくされている――というのはこのあいだも言ったか。ささいなことにもひどく気を立てるようになられた」
ため息を一つ漏らし、ウォルドは額を押さえた。ああ、そうか。この心労が彼にこんな顔をさせるのか、と、チェリファリネは不憫に思った。
レジェンもまた彼を哀れに思った。同時に、あの麗しい乙女のことを思う。彼女は、パリスは今なおガウリスを愛し続けているのに、いずれジェイファン王子の隣に座する宿命を持っている。ガウリスを求めるパリスと、パリスを求めるジェイファン。彼は自分で自分の首を絞めたのだ、けれどこの国のだれもが、まだそれを知らないのだ。
そう、パリスでさえ。彼女の運命は狂愛の手のひらの上で弄ばれ続けている。
やがてウォルドの母親が料理を運んできた。パンや肉など、この時勢には貴重なものが豪勢に並ぶ。レジェンたちはありがたく思ったけれど、迷惑ではなかったかと不安にもなった。
「いいんだよ、おれが無理やり連れて来たんだから。それにパンも肉も配給されるんだ、これでも騎士だからな」
笑い声には自嘲が混じる。レジェンたちは合わせてほほ笑み、追求は避けた。彼の痛みはもう嫌と思うほどわかった。
「しばらくここにいるといい。あと数日したら、島民との談合のためにハオン島へ渡るんだ。そのときに一緒に船に乗れ」
「わかった、ありがとう」
素直に受け入れるとウォルドは安堵してほほ笑んだ。それから少し考えて、
「ああ、でもしかし、話し合いを有利にするためじゃあないぞ、おれは純粋に‥‥」
「わかってるよ」
思わず苦笑する。なるほど、たしかに島民を大陸で助けたといえばブリランテにもやりやすくなるだろう、けれどウォルドが友人を利用することを好まないなど、だれもが承知していた。たとえ王子が命じようとも、ほかのなにを譲っても彼は二人を守るに違いない。
夕食を終えると、ウォルドは二人を部屋に案内した。階段を上がり、四つ並ぶ扉のうち、レジェンが一番右手の、チェリファリネがその隣の部屋を選んだ。
「おれの部屋はこっち、一番左だ。ここは母さんの部屋だから、チェリファリネ、なにか困ったことがあったらなんでも言うといい」
言いながら左から二番目の扉を示す。女性には女性の、という彼なりの配慮だろう、チェリファリネも頷いた。
部屋はいずれも、一人で使うにはやや広さがあった。だいたいがレジェンたちは小柄だが、大陸で今まで立ち寄った宿のどこよりも広い。さらに普段、彼らは予算の都合で二人で一つの部屋に寝泊りしていたから、なおさら広く感じられるのだろう。
それをチェリファリネが呟くとウォルドがぎろりとレジェンを睨んだ。が、言った本人はまるで気づいていないのは、もはや常と思える。
夜明けも早くに彼らを起こしたのは城からの客人だった。
玄関の扉を何度も叩き、挙句に打ち破って駆け込んできた。なにごとかとウォルドが飛び起きると、激しい怒声が響いた。
「ガウリスがいるとは本当か!」
階下の声は若い男のものだ。ただよほど慌てて来たのか、息切れしているのが声だけでもよくわかった。ぜえぜえという息継ぎまで二階に届く。
降りていったウォルドが声をなだめる。レジェンやチェリファリネもそれぞれの部屋で目を覚まし、上着を羽織って階段を下りていった。
見れば玄関は開け放たれたままだった。扉の向こうに、数人の騎士が待機しているのが見える。家に上がりこんできたのは一人だけのようだ。
と、その人物を見て、レジェンたちはまなじりを決する。
風に乱れた栗色の長い髪、切れ長の藍色の目は焦りに血走っている。ウォルドを見下ろす長身は――疑いない。
ブリランテ王子、ジェイファンその人だ。