05
ウォルドは困ったように眉間にしわを寄せ、一つ息をついてから説得を試みた。
「しかし、パリス様。わたしたちはもしフェローチェや城のほかであなた様を見つけたとき、必ず王子の下までお連れするように言いつけられているのです」
「ええ、存じております。だからお願いです、このままフェローチェに」
すがるような麗しい淡い碧の瞳に、ついにウォルドは折れた。再びレジェンたちに向き直り、このままフェローチェに行くと叫ぶ。ぐったりと馬の背にもたれていたレジェンは、その声に渋々体を起こした。顔を上げると、パリスが申し訳なさそうな目でこちらをじっと見つめていて、レジェンは無理やりに、ニッと笑ってみせた。
「もう少しだ、頑張れ」
ウォルドが声を張る。チェリファリネが背をつついて、二頭の馬は再び進み始めた。
フェローチェは華やかな建物がたくさん建ち並んだ、しかし寂しげに静まり返った町だった。すれ違うのはほとんどが騎士で、武装した者は周囲の見回りを、町の中にいる者はひとときの休息を貪っていた。
馬を降り町を歩く。すっかり夜闇に包まれた町を灯が柔らかに照らす。見上げた窓には薄いレースがひらひらと風に揺れ、子どもの泣き声と叱りつける女の声が遠くで響いた。
ふしぎな町だ。今までに見たどんな町よりも栄えているのに、どんな町より寂れている。
「みんな、もう疲れきっているのさ」
やりきれないといったふうにウォルドが呟く。人通りのわりにあまりに静かで、レジェンやチェリファリネには声を出すこともためらわれた。
パリスは、ずっと黙っている。
レジェンは自分より一歩前を歩く彼女を、じっと見つめた。この美女こそ、兄の恋人。今はその美しい髪も瞳も鼻も唇も頭から被ったマントに隠れてしまっているが、小さく震える華奢な肩はどこか物憂げに、なおも帰らぬ恋人を待ち続けている。年上の彼女に宛てるには不相応だろう。しかし、レジェンは彼女をいじらしく思った。
やがて四人は町の一等奥にある屋敷に着いた。周囲の家々よりもやや大きく、手入れの行き届いた庭園には小さな花が咲き乱れている。門の前に立つ二人の若い兵は、パリスの姿を認めるなりわっと駆け寄ってきた。
「お嬢様、お帰りなさいませ」
兵が恭しく礼をすると、パリスも無言で頭を下げた。それから兵は、彼女の背後に立つ三人に目をやる。その中に懐かしい、見慣れた顔を見つけると、叫ぶように声を上げた。
「ガウリス! ガウリスじゃないか!」
彼らは何度も自身の目を拭い、驚きにそれ以上の言葉もなくよろよろと見つめた相手に歩み寄る。しかしレジェンがうつむいて首を横に振ると、訝しげに顔をしかめた。パリスが悲しげにほほ笑む。
「彼はガウリスの弟よ」
途端、兵たちの顔ににわかに浮かんだ期待がかき消された。レジェンが改めて名乗り挨拶すると、彼らは、ガウリスによく似ているとほほ笑んだが、それきり黙りこんでしまった。
冷たいだけの風が吹く。
「さあ、わたしたちはそろそろ行きます」
いたたまれない沈黙を破ったのはウォルドだった。まるで事務的で無関心とも取れる声色は、レジェンを安堵させた。なにしろ、兄のことで気を遣われるのはかえって心苦しかった。
パリスは一緒に夕食でも、と誘ってくれたが、ウォルドは謹んで断った。見やればレジェンもチェリファリネも、パリス本人さえ疲れているのがよく見て取れる。また彼自身、早々に休みたかった。
「第一、わたしは王子の命に反しているのです。どうぞ今回は、あなた様がお一人で戻られたということになさってください」
兵にも口裏を合わせるように言いつけると、ウォルドは二人を連れて屋敷をあとにした。レジェンが振り返るとパリスが深々と礼をしているのが見えたが、やがて兵に連れられて奥へと姿を消した。
三人は道を少し引き返し、細い道へと入っていった。奥へと進んでいくとやや広さのある土地に出て、古い木造の家がひっそりと建っていた。わきには厩があり、一頭の雌馬が休んでいる。
ウォルドは慣れた手つきで二頭の馬を厩に入れると、二人を家へと案内した。
「ここがおれの家だ。パリス様のお屋敷に比べたら狭いが、我慢してくれな」
苦笑する彼に、二人は首を横に振る。それから興味深そうに建物を眺めた。たしかに先ほど見たばかりの屋敷より小さくはあるが、周囲の建物よりは大きい。付け加え、がっしりした柱や梁には花の彫刻が施され、玄関の扉に掛けられた木製の剣には飾り文字が彫られている――が、ウォルドは見るなり裏返し、文字が読めないようにした。
「今は裏返しておくように言ってるのに」
やや苛立ちながら扉を開き、大声で帰宅を告げる。と、奥から弱々しい声が響き、しばらくして老いた女性が現れた。彼女はウォルドの背後に立つ二人の子どもの姿を見て取ると、ふしぎそうに目を丸くした。
「母さんだ。二人暮らしでね」
それから母親にも友人を紹介する。母親は丁寧に礼をして、お部屋の用意をしないとね、と慌しく奥へと駆けていった。そのあいだ、ウォルドは二人を居間に通した。
居間には大きめの柔らかい椅子がいくつかあり、ウォルドはそこで待つように言うとどこかに行ってしまった。しばらくして戻ってきたのは彼の母親で、彼女は温かいハーブティーを客人に勧めた。
ウォルドの母親もまた、美しい人だった。柔らかい黒髪は団子にまとめられ、すっと通った鼻筋とややつり上がった目はウォルドに似ている。年齢は四十後半といったところか。
ただ、やはり長引く戦がためなのだろう、こけた頬は美貌を曇らせる。
レジェンたちは礼を言って、カップを手に取った。木を削ってこしらえたそれは使い込まれていたが、最近になってさらに削った跡があった。前面に彫られた花の紋様もその部分だけ平らになっていて、レジェンは惜しそうに観察した。
そんな彼を、母親はなにか言いたげに、じっと見つめていた。ガウリスはウォルドにとって親友だったと聞くから、彼女にとっても顔見知りだったのかもしれない。しかし彼女は、なにも訊こうとはしなかった。
やがてウォルドが帰ってきた。彼はまとっていた装備をすっかりほどき、長い髪を緩く結わえている。綿の肌着に羊毛の織物はとても暖かそうに見える。まるで少し上級の商人のようなかっこうの彼は、いつもより少しだけ年老けて見えた。
ウォルドが戻ると、母親はすぐに食卓の準備を始めた。急な客人がため料理を増やさなくてはならず、申し訳なく思ったチェリファリネが手伝いを申し出たが、母親は礼を言いながら断った。
「あの子がお友だちを連れてくるなんて三年ぶりだわ」
上機嫌に鼻歌を歌いながら調理場に向かう彼女は、真実楽しそうに見えた。そんな母親のうしろ姿を見やりながら、ウォルドはため息をつく。そして彼にも出されたお茶のカップを手にとって、しばし無言で眺めた。
やがて、口もつけずに卓に戻す。コトン、という音を最後に、居間は静まり返った。ウォルドが再びついた深いため息は、彼の疲労をよく表している。
チェリファリネがそっと彼に寄り添い、金色の髪を撫でる。
「大丈夫?」
不安げな優しい声に、彼は黙って頷く。まっすぐに卓のカップへと注がれていた視線がふっと閉じられ、小さく首を横に振る。それから肘掛に添えられたチェリファリネの手にそっと触れ、呟くように言った。
「つい、くせでね」