04
聞き違いかとも思った。しかし、彼女の瞳はレジェンから逸らされることなく、先ほどまで震えていたか細い腕が彼を抱きしめた。そしてまた、彼女は叫ぶ。
「ガウリス――信じていたわ、きっと生きていると!」
精一杯の力で女性は彼にしがみついていた。レジェンにとって振りほどくことは容易いが、できなかった。思考がしばし、停止する。
女性は何度もその名を呼んだ。彼のものではない、けれど彼にとっても求めていた人物――兄の名を。やがて声には涙が混じり、次第に力なく消えていく。美しい顔を彼の肩に乗せ、女性はぎゅっと彼の衣服を握りしめる。身の丈のあまり変わらない二人はまるで姉と弟にも見えるが、実際は互いに初めて会う相手だ。
店内を再び、沈黙が包む。レジェンは自分に身を預ける女性をどうすべきかわからずに、新しい客とて突然の瞬間に注目しているらしいことは、その静けさから想像に易い。老いた女主人も驚きのあまり、目を見開いて立ち尽くすだけだった。
誤解を解かなくてはいけない――レジェンは焦っていた。それから、彼女が何者なのか知らなくてはなるまい。さあ、果たして、どう切り出したものか。
考えるうち、最初に口を開いたのは、今しがた訪れたばかりの客だった。問いは女性に向けられ、声は驚いているようだった。
「どうしてあなたがここに?」
気づいて声の主を見やったのは女性だけではなかった。これまで背を向けていて気づかなかったが、そこにいたのはレジェンの幼馴染のチェリファリネと、友人のサー・ウォルドだった。
ウォルドは周囲を見回してから、続けて問う。
「また、お一人で? ‥‥パリス様」
――パリス。レジェンとチェリファリネは驚き、女性に目をやった。覚えがある。その名こそ、かつて兄が愛したであろう女性のもの。
兄が置いていった杯に刻まれた女性の名。
美しい女性は人差し指でそっと目元を拭ってからウォルドへと向き直り、それが恋人の親友だと見て取るとうれしそうにほほ笑んだ。
「ああ、サー・ウォルド! あなたが彼を見つけてくれたのね」
「パリス様、まずお答えいただきたい」
厳しい声色で問い質す。彼女は眉間にしわを寄せ、けれど無邪気な弾む声で返した。
「ええ、ごめんなさい。でもわたし、信じていたわ。ガウリスは絶対無事だと」
言い切ってから傍らを見やる。けれど彼の優れぬ顔色に、パリスは怪訝そうに顔をしかめた。
ウォルドが一つ、大きく息をつく。
「彼はガウリスではありません。弟のレジェンです」
途端、パリスの顔から笑みが消えた。視線を何度もレジェンとウォルドを往復させて、レジェンがゆっくりと頷くと、そっと彼から手を放した。よろよろと後退し、崩れるように椅子に掛ける。
チェリファリネがレジェンに歩み寄る。緊張した面持ちで、呆然とうつむくパリスを見下ろす――この人が、自分の愛する人が愛した人。
身長だけ見ればチェリファリネより大きな人だ。けれど空虚を見つめ涙ぐむ姿は儚げで小さい。だから、チェリファリネはなにも言えなくなった。だれがガウリスを陥れたのか。それはなぜなのか。すべてこの美貌の乙女のためだと、レジェンもチェリファリネも確信していた。それでも、今の彼女を責めることなどできない。
レジェンは屈んで彼女の目を覗きこんだ。滲んだ碧の瞳が大粒の雫を落とす。彼は彼女の髪を優しく撫でた。
「ぼくたちもこの三年間、兄を探して旅をして参りました。だからこそ申し上げましょう、兄は生きています――きっと」
根拠はない。ただかつて、魔女が言った言葉を信じるなら、今もなお生きているはずだ。だからせめて、きっぱりと、力強く言い切った。
パリスはきゅっと唇を結んだ。それからしばらく考えたのち、コクリと一つ、頷いた。
結局、パリスはその宿に停まり、翌日にはレジェンたちとともに城下へ向かうことになった。
夜が明けるとレジェンが迎えに行き、四人で朝食をとった。馬は二頭しかないので大きいほうにはウォルドとパリスが、小さなほうにレジェンとチェリファリネが跨った。これにウォルドはもの惜しそうにしていたが、レジェンしか気づかなかった。
「仕方ないだろ、ぼくの手綱でそんな大事な人を乗せられない」
「わかってるさ――けれど、レジェン。おまえこそ、‥‥」
言いかけて、やめる。気恥ずかしそうに耳まで赤らめて、さあ、と彼は馬を進めた。レジェンの後ろに跨るチェリファリネがふしぎそうに首を傾げたが、意味は理解できていないようだった。
「そうよね、彼女、ガウリスの恋人の前に王子のフィアンセですものね」
ぽつりと呟いた彼女に、レジェンは頷く。聞いてはいたけれど想像以上の美女に、あれならば兄が愛するのもわかると彼は思った。が、なぜ彼女が兄を愛したのか、それがレジェンにはふしぎだった。
鍛冶の腕がどれほどだったかは知らない。けれど兄は騎士でもないし地位もない、それに島の民だ。見目だって、大陸の民にいくらも劣るだろう。事実、この旅でチェリファリネは何度か男どもに言い寄られたが、レジェンは子ども扱いされて終わりだ。そのおかげで商いが巧くいったことも何度かあるが、大陸の女性にとって島の男性など、恋愛対象にならない。
それなのにこの美女は、なぜ兄を選んだろう。それも比べるは王子、ジェイファン。彼のことはよく知っている、このウォルドよりも背が高く美しい顔立ちの男。剣の腕だってこの若さでは群を抜く。
なのに、なぜ。
「ガウリスだって、島では女の子に興味なんかちっとも示さなかったわ」
頬を背にぴたりと寄せ、チェリファリネが言う。後ろから回した両腕はしっかりとレジェンの体を捕らえている。もとより馬に慣れぬ彼女だ、それも昨日まではウォルドの馬だったのに、今日はレジェンの馬となれば、不安は拭えない。
「レジェン、もう少し急ぐぞ」
振り返ってウォルドが叫ぶ。少し苛立っているようにも取れた。
昼過ぎに、地平線の向こうに城が見えた。遠くに霞むそこに辿りついたのは夕方前で、荘厳な城壁のあちこちにたいまつを灯し始めていた。どこかひっそりとした感があるのは、やはり思わしくない戦況がためか。
城の少し手前で、ウォルドが止まった。遅れて来るレジェンたちを待ち、しばらく待っているようにと告げた。
「パリス様を城へお送りしてくる。いいか、くれぐれもここから動くなよ」
「待って、サー・ウォルド」
と、慌ててパリスが口を挟んだ。それから眉間にしわを寄せ、乞うようにウォルドに訴える。
「お願い、城には行かないで。彼――ジェイファン王子に会いたくないの」