32
魔女は自身のマントを脱ぐと、貨物室にある木箱を開けて、中身をこれに包むようにとチェリファリネにいいつけた。畏怖したのは船員たちで、彼らは一様に色をなくしている。
木箱の中身は、黒い粉だった。それがなんなのか、島人たちは知らなかった。
右手にたいまつを、左手には黒い粉を抱えて、魔女は島人を先導した。島人たちにはわからずとも、船員たちを退けるには十分なものらしい。
魔女が一歩進むと兵らは三歩下がる。そうして、彼らは階段を上がっていった。
ぎしぎしと軋む床を、たいまつの炎がおぼろに照らす。
「傷は痛むか、レジェン」
チェリファリネに支えられてようやく歩いている彼に、魔女が語りかける。痛まぬはずがない。簡単な手当てはしたが、出血もひどい。
しかし、弱音を吐くわけにはいかない。
「平気だ」
チェリファリネが泣きそうな顔をした。三年間の旅はいろんな苦難があったが、死を意識するような危険に出会ったことはなかった。
「甲板に出たら走れ。振り向くな。そして、海へ飛び込め」
魔女は小さな声で言った。
「できるだけ速く、遠くへ逃げろ。波も助けよう」
「今のレジェンに泳げだなんて」
チェリファリネが訴えようとして、レジェンが制する。魔女は振り返らず、言葉を続けた。
「灯りは夜中、海を照らそう。島まで泳げ」
灯り――なんのことだろうか。
これから満ちようとする月は、空を照らすことさえまだ足りない。夜明けまではまだいくらもある。
考えるうち、鼻先に冷たい風を感じた。顔を上げると、階段の先、開け放たれた扉から夜空が望めた。
魔女がしばし、立ち止まる。
「一年も経たぬうちに、新たな魔女が生まれよう。もし彼女に会うことがあれば、きっとさくら酒を振る舞ってやってくれ」
さくら酒。ハオン島の銘酒――かつて戦争が終わったあかつきには、アンジェニに振る舞うと約束した。
真実、これが最後なのだと予感した。
「きっと」
声を絞り出して、レジェンは応えた。魔女はわずかに笑って、再び歩き出した。
いよいよ甲板に出る。島人立ちは構えた。魔女が一歩、外に出た。
彼女の手にしていたマントが落下し、黒い粉がこぼれた。
白い髪が斜めに倒れていくのが、暗闇によく映えた。
チェリファリネが悲鳴を上げた。鼻息荒く、剣を赤く滲ませた騎士。その足元に倒れる魔女。チェリファリネはしかと、それを見た。心にとどめた。
レジェンは振り返らず、幼馴染の手を引いた。まっすぐに縁まで走ると、ためらうことなく海へを身を放った。
潮水が傷にしみた。先日、森で受けた傷もまだよくない。しかし泣き言を言ってるばあいでもない。二人は泳ぎ出した。魔女の言うとおり、波は彼らの進むべき方向へ流してくれた。
間もおかず、狂うような叫びが聞こえた。振り返ると、船から男たちが次々と飛び降りていた。
甲板が赤く燃えていた。火は見る間に大きくなり、空を、海を照らした。
「アンジェニは」
――考えるまでもなかった。
船は一晩中燃え続けた。
波は彼らを浅瀬まで誘い、灯りを背に、二人の旅人は歩いて島を目指すことができた。とはいえむろん楽なものではない。冷たい海水に体温は奪われ、ただでさえ健常でないレジェンは、地面に足をつけていることすら困難だった。
チェリファリネはよく彼を助けたが、やがてレジェンは意識を失った。チェリファリネはただひたすらに、幼馴染の肩を支えて歩き続けた。
海岸では騒ぎに島の住民たちが集っていた。そして、明るく灯る海上から人影が現れると武器を構え、しかしそれがかつて行方知れずとなった島の子だと見て取ると、驚いて海へと駆け込んだ。
懐かしい人々に迎え入れられたとき、チェリファリネは安堵して泣いた。
夜が明けてブリランテの企てが明るみに出ると、コモードは一挙にハオン島へ兵を寄せた。島人の抵抗がため上陸は許されなかったが、コモードの船が島を囲うと、ブリランテも引くしかできなかった。
いいや、ブリランテにはもはや、戦意がなかった。
ロスダルニャはこだわったろう。しかし彼はもう王ではない。代わって王位に就いたジェイファンは、そのとき、乱心の絶頂にあった。
しばらくして、コモード王、マリアンがハオン島を訪ねてきた。島人たちはなおも拒んだが、レジェンらが彼への恩義から熱心に説得し、いよいよコモード軍はハオン島へと上陸した。
レジェンたちはすぐにマリアンを訪ねた。マリアンは二人の無事を喜んでくれたが、レジェンたちはマリアンの変わりぶりに絶句し、悲嘆した。マリアンの美しかった顔には傷の跡が残り、目は光を失っていた。
マリアンのそばにはサー・キャロスと、美しい乙女がいた。
レジェンは王に、メリアンから預かった指輪は間違いなく魔女に届けたと伝えた。マリアンは静かに頷き、乙女が泣いた。魔女がどうなったかは、島人は告げなかった。
ブリランテからロネウス王女がやってきたのはそれから五日ほど経ってからだった。島人らはやはり、彼女を拒んだ。そこでロネウスは、船を直接島へはつけず、また兵をだれも連れずに、ただ一人で陸へ上がった。このとき、チェリファリネが彼女に付き添った。
大陸で別れて一月も経っていないというのに、彼女はひどくやつれ細っていた。腕や首筋にいくつもアザがあり、チェリファリネが尋ねると、兄が暴れるのだと姫は答えた。
このとき初めて二人の旅人は、パリスが自害したことを知った。そしてその遺体はフィーネ双山ではなく、小舟に流されていったと聞かされた。
「彼女はこの島に来たかったのでしょう。彼女の部屋に残された手記に、海へ流すよう遺されていたのです」
愛する人の生まれた土地に。むろん、その船がここに着くことはないのだが。
結局、この戦はなんだったのか。
ハオン島を欲したロスダルニャ王。パリスを欲したジェイファン王子。
そしてコモードも、欲したものは手に入らなかった。
「アウクという闇商人を知っているか」
モソに置かれたコモードの宿所に呼ばれて、レジェンたちはそう尋ねられた。懐かしい名前に思わず声を上げ、三年前に大陸に渡った際、助けてくれた商人こそ彼だと、レジェンは答えた。するとマリアンは、残念そうに眉尻を下げた。
「亡くなった。ほかの闇商人の仕業だ」
マリアンが言うには、今回の戦争の裏で、新しい武器が取引されていたらしい。その口封じだろう。
魔女の刃、と呼ばれる。
「闇商人たちはコモードとブリランテ、それぞれに魔女の刃を売りつけていた。もちろん秘密裏に――その一部が、きみたちが乗っていたあの船に積まれていた。あの火災は、それに火がついたものだろう」
よく無事に逃げた、と、マリアンは再び彼らの強運を祝福した。ほかならぬ魔女の犠牲があったことを思えば、喜ぶわけにはいかなかった。
闇商人らは魔女の刃を地位ある者に勧め、戦争を誘発した。ブリランテの王にはハオン島が手に入るとそそのかし、かつてコモードの司令官を務めていた男にも北の大国――すなわちエネルジコが落ちると、商品を売りつけた。
すべては金のためだったというわけだ。
コモードはエネルジコを侵略するつもりはない、とマリアンは添えた。
「ロスダルニャ王はもっと誠実な人だと思っていたのだがな」
言いながら肩を落とす。そして、地位あるものがすべて強欲なのではないと、島人らに訴えた。
「今度の戦いで使われることはなかったが、いずれまた戦争が始まれば、次には免れまい」
「ならば、始めないまでです」
「そうとも」
レジェンの言葉に王子はほほ笑む。彼らの心に、同じ誓いが刻まれた。
ハオン島戦争はこうして終わった。