31
叫びはファンファーレにかき消された。
尋ねてきた妹姫は、いるはずの友人を捜した。
兄は激しく声を上げるばかりだった。姫は兄の視線を追った。
知れず、膝に床の冷たさを覚える。
「――ああ」
細い指が口を覆う。
――ああ。
どうして神は、我らに愛を賜らぬか。
ポンポーソ港に二人の島人がついたのは、すっかり日が暮れた時分だった。一昼夜平原を駆けて、馬はすっかり疲れ果てている。乗り手もそれは同じだったが、彼らが休むわけにはいかなかった。
老いた馬から降り、たてがみをそっと撫でる。別れの言葉を告げると、ラセルは小さくいなないて、ゆっくりと歩き去っていった。
うしろ姿を惜しむ間もなく、島人たちは港を探した。これから島に向けて発つ船を見つけ出さなくてはならなかった。
「どの船かしら」
チェリファリネが呟く。
続く戦争がためか閑散とした港町は、食堂でさえひっそりとしている。明かりの乏しいなか、ぽつりぽつりと行き交う人々はみな、足早に通り過ぎていく。倉庫が建ち並ぶ一角にはだれの姿もない。
不安に襲われる。今夜出る船ならば、準備に当たる者があるはずだ。もしや、もう出てしまったのではないか。
かといってだれかに尋ねるわけにもいかない。月の昇るを見て、レジェンは歩みを速めていった。
手に汗が滲む。とそのとき、背後から抜き去る影があった。
「こっちだ」
頭からマントをかぶった、小柄な人物だった。顔は見えない。しかし、‥‥声に覚えがある。
「早く。今に船員どもが戻ってくる」
「魔女」
チェリファリネが言った。そう呼ばれて、彼女は小さく笑った。ヘオン島に渡ったのではなかったのか――わずか風になびいた白い髪は、まがうことはない。ラグリマの魔女、アンジェニだ。
レジェンたちはなにも訊かなかった。今はただ、無言で彼女のあとを追った。魔女はある一艘の前で止まると周囲を見渡し、だれも見るものがないと確かめてから、船に乗り込んだ。島人らも続いた。
船内にはだれもいなかった。アンジェニによれば食堂で最後の晩餐を楽しんでいるのだという。言うとおり、ようやく彼らが荷箱に身を潜ませた直後、何者かの足音に船が揺れた。
それからしばらく、騒がしくなった。忍び込んだ三人はじっと息を潜めていた。
船が出たのはおそらく、日付の変わるよりは前だった。
貨物室には妙な臭いが充満していた。人の息づく気配はなかった。彼らは慎重に顔を出し、やや体を伸ばした。
レジェンはアンジェニに指輪を差し出した。すなわち、三年前に彼女から預かり、もとの持ち主であるメリアンから、再び彼女に渡すよう託されたものだ。白髪の少女は驚いたようにそれを受け取ると、胸に抱いてそっと目を閉じた。
小さくこぼれた嗚咽に、二人の絆を見る。
魔女は以前そうしていたように、指輪を首飾りに通した。それから二人の島人に、かつて話した予知の続きを聞かせた。
ブリランテの地に踏み入れたからには、もはや兄に会うことは叶わないだろうということ。しかしそれこそが、戦を終わらせるためには必要だったこと。
そして、ウォルドが彼らに託した願いこそ、その要となろうことを。
「あんたたちには酷な運命だろうよ」
あざ笑うかのように、けれどうつむいて魔女は言った。レジェンたちはなにも言えずにいた。
魔女はそれ以上を語らなかった。チェリファリネが今にも泣き出しそうにしているのを見たからだ。
三人は食事を分け、三夜を過ごした。三年前に大陸に渡ったときと同じように、彼らはうまく忍んだ。けれど船は、島へは辿りつなかった。
船は夜中、島の家々の灯りが見えるあたりで止められた。なぜかは、そのときはわからなかった。
上階から足音がよく響いた。震動が、徐々に降りてくるのを感じた。いち早く危険を察したのは、魔女だった。
「出ろ」
声は焦りにかすれていた。尋常でないようすに、島人は従った。かといって、ここを出ては隠れる場所などない。探す明かりもなかった。
足音が近づいてくる。
三人はなるべく扉に近い場所で、再び身を潜めた。幸か不幸か、武器はたくさんある。それぞれ、短刀を構えた。
果たして、扉は開かれた。灯り持ちが扉の外に立ち、赤い光で室内を照らす。それとは別の、二つの人影が部屋に入ってきた。剣を構えている。
美しく光を跳ねるそれは、もしやガウリスのものではあるまいか。真実はわからねど、そうでなければいいとレジェンは思った。
心臓が跳ね上がる。
二人の男は笑い合いながら、荷箱を順に開け始めた。灯り持ちの男ものんびりと会話を聞いている。侵入者である三人は、気が気でなかった。
話から察するに、島に上陸する時間は深夜でなければならなかった。まだ島民の眠らぬ今であれば、だれかに見つかる恐れがある。時間潰しに、荷物改めを――気に入りの武器があれば我がものにしようとの企みらしい。
「ガウリスの最後の剣が入ってるって話だぜ」
灯り持ちの男が言った。見覚えがある。ああ、あの宴の夜、最後まで残っていた男だ。応えたのはいかにも屈強そうな体躯の男で、興奮気味に笑った。
その手も、ある荷箱で止まる。先ほどまで、島人らが潜んでいた場所だ。
「空だ」
怪訝そうに顔をしかめ、彼らは丁寧に箱を調べた。
――まずい。
傍らにうずくまるチェリファリネの体が強く震えていた。手で口をふさいでいなければ、悲鳴が漏れてしまいそうだった。光の向こう側にいるアンジェニも、目を見開いて怯えていた。
「だれかいるな」
――失態。
男が見つけたのは、本来ならあるはずのないパンのかけらだった。
もう一方の男に上官への報告を言いつけて、屈強な男は慎重に剣を振った。切っ先に触れた荷物が鈍い音を響かせる。
徐々に男は扉へと、彼らへと近づく。遠くから、より多くの足音が近づいてくる。
見つかれば助かるまい。いや、それよりも。
――ウォルドの願いを果たせなければ、なんのための旅だったか。
魔女の言葉を信じれば、それこそが我らが運命の要。ならばここで、どうして命を惜しもうか。
意を決す。
男が灯り持ちの男の横に並んだとき、レジェンは単身、飛び出した。
背中と左腕の傷が痛んだ。構ってる暇はなかった。すぐに、右肩に新たな痛みを覚えた。
手が赤くまみれた。武器は持てど鎧をまとっていないこの騎士は、心臓を一突きにされて、わずかにもだえたものの息絶えた。
驚きに声を上げたのは灯り持ちの男だった。レジェンはすぐさま体勢を整えて彼に飛びついた。灯り持ちの男は、武器を持ってはいなかった。
たいまつが木床に転がる。慌てたのは先ほど出て行った男だった。その背後には多くの兵がいる。
「火を消せ! 水だ、水を持ってこい!」
情けないかすれた声に、後続の数人が急いで引き返す。騒ぎのうちにアンジェニが部屋から出てきて、たいまつを拾い上げた。
木床は焦げあとを残したのみだった。
どうやら火が広がらずに済んだと見るや、船員たちは一つ安堵し、急に勇んで、侵入者たちに歩み寄った。しかしアンジェニが貨物室に火を投げ入れる素振りをすると、怯えて二歩三歩と退いた。
ウォルドは、火には注意しろ、と言った。
「レジェン、忘れるでないよ」
チェリファリネがレジェンに歩み寄り、肩の傷を押さえるのを見守って、アンジェニが悲しげに言った。
「あんたたちのみが、真実に触れることを許される」
言いながら魔女は首飾りを握りしめた。
「それはつまり、あんたたちは真実を知らなくてはならないということだ」