30
花嫁は、すでに諦めていた。
豪奢な白いドレス。金色の髪はきれいに整えられ、花が飾られた。窓外から響く音楽と民衆の声は明るく朗らかで、まるで壁を境に、世界が分かれているかのように思えた。
実際、そうだった。
もちろん城内にも、単純に終戦を喜ぶものたちは多かった。しかし、それと同時の王位交代と、新王ジェイファンの結婚式に、戸惑うものたちもいた。
つまり――戦がまだ終わらないことを、知っているものたちだ。
ただでさえ犠牲の多かった戦だ。戦いは終わっただけで、得るものはなかった。なにを祝うことがあろう――新王の結婚だなど、国民の目を喜びに向けさせるための、再び始まる悪夢のごまかしでしかない。
彼女とて事実を知っていたわけではない。だが城内にいては、それを知るも容易だった。ほんのわずか耳を澄ませれば、憂うものたちが声を潜めて交わす会話がよく聞こえる。
針子たちが退き、部屋に一人きりになって、パリスは祈りの言葉を心中で唱えた。
胸に、杯を抱く。
デライフの杯。今まで、ラドリアナ教を信仰する多くの乙女たちが、愛する男に捧げてきた。これからも、この風習は変わるまい。
しかし、それは彼女のものではなかった。刻まれた名前は彼女のものであるし、かつて彼女が持っていたそれと二つ並べねば違いもわかるまいが、偽物であった。
およそ初めてであろう。王家に嫁ぐものが、まさか偽りの誓いを用意するなどとは。
自嘲気味に口角を少しだけ上げて、ふわふわとしたスカートの上から太ももを撫でる。冷たい硬質の存在を確認して、覚悟の息をつく。
偽りが暴かれるようなことがあれば、自ら――。
「パリス?」
急に名前を呼ばれて、振り返る。伺うような、優しいけれど不安げな友の声に、パリスは、知らず強ばらせていた表情をゆるめた。
いつのまにいたのか。いいや、そういえば、先ほど扉を叩く音が聞こえた気がする。友人はいつものように、その身分に似合わぬ黒い胴衣を身につけていた。
「無事に出発したよ」
ロネウスが、潜めた声で言った。向けられる真剣なまなざしに、パリスは思わず目を逸らす。そう、と、息継ぎのような返事をして、窓の外を見やった。
彼とももう、会えぬだろう。そんな予感がした。
「もうすぐ兄上が来るけど、わたしも支度をしなくてはいけない。いいこと、パリス。どうか、心を強く持って」
「わかってる」
今一度、スカートを撫でる。逆の手で、杯をやや掲げる。いかに似ていようと、やはり偽物は、どうにも手に馴染もうとしない。
違和感に彼を思う。
「似合いだわ」
友人は、杯の真相を知っている。これを用意してくれたのは、ほかならぬロネウスだった。
同時に、乙女の言葉の真意も、よく理解していた。
「兄上は、たとえ偽りでも、あなたの愛を欲するでしょう」
「そうね」
たとえ、偽りでも――たとえ――ああ、なんとひどいことを考えていたか。
偽者でもよかった。
温もりが欲しかった。
あの人の面影が欲しかった。
一緒に、逃げたかった――身勝手なわがまま。だから、これは罰だ。
「わたしにはもう、愛を求める資格なんてないのだわ」
ぽつりと呟いたそれを、友人は聞き取れただろうか。聞き返す代わりに、ロネウスはさよならを告げた。
「たとえひとときでも、愛する人に愛された。あなたは果報者よ」
彼女は言うと、一度も振り返らずに部屋を去った。乙女は友人の言葉を反芻して、先ほどから握りしめていた杯を見つめた。
ゆっくりと窓に歩み寄る。見下ろすと、木立が小さく見えた。塀よりこちらに人影はない。この窓とあの塀が、静けさと騒がしさを隔てている。
ジェイファンが部屋を訪れたのは、それからまもなくだった。
彼に気づくと、花嫁は礼儀に習い、立ち上がって丁寧に挨拶を述べた。
「よい、あなたは今日から、わたしの妻になるのだから」
ジェイファンは優しく笑んで、彼女の肩を抱き寄せた。美しい金糸を手ですくう。はらはらとこぼれる様は、どんな財宝よりも尊いと、彼は思った。
乙女はというと、驚くほどに冷静に、相手を観察していた。
戦いで身につける重いものではなく、華やかに飾り付けた鎧をまとい、鮮やかに赤いマントは彼が一歩進むごとにひらりとなびく。剣の代わりにまっ白な花を腰に下げ、それはまさしく花婿の装いだった。
ああ、これがガウリスだったら――と考えて、いや、と改める。彼はこんな習わしを知らないだろう。
ジェイファンは、まるで壊れものを扱うようにおそるおそる、彼女の頬を撫でた。
「さあパリス、行こう。国中のみんなが、わたしたちを待っている」
「いいえ」
手を引くと、乙女は拒んだ。そして、強く振り払う。思いがけない返事に、ジェイファンはまなじりを決した。
「わたしは、あなたと結婚できません」
厳かな口調でパリスは告げる。
柔らかな唇は覚悟に震え、大きな瞳はまっすぐに彼に向けられている。なぜと問うこともできないうちに、彼女は続ける。
「許してくださいなどとは、申しません」
太ももを撫でる。ドレスは、乱れている。
「わたしはもう、杯を持っていないのです。わたしの誓いは、デライフの杯は、今、わたしが心から愛する人の手にあるのです」
震えは徐々に消え、語気が強まる。
「あなたに誓う愛は――ありません」
きっぱりと言い切ると、室内は再び静かになった。
ぎゅっと拳を握る。ジェイファンは瞬きも忘れて彼女を見つめている。互いに逸らすこともできぬまま黙している。
城内をだれかが駆ける音が響いた。
「ならば、パリス」
風は冷たい。
「あなたは今、あなたの杯を持っている男を愛するというのか」
――頷いたのは、そうだと信じていたからに他ならない。
パリスは血相を変えた。なぜなら、ジェイファンがそれを差し出したからだ。
ジェイファンの口許はほほ笑んでいた。しかし、瞳は違った。ひどく悲しげに、自分の卑しさを蔑んでいた。
そうまでして彼女が欲しいか。
彼女を悲しませてまで、陥れてまで、彼女が欲しいか。
そうは思えど、歪みは口許からこぼれて止まらない。
「知っていたとも、パリス。わたしの知らぬところで、あなたがあの男――ガウリスと愛し合っていたことは。けれどわたしは、知らぬふりをした」
七年間抱いてきた憎しみに、愛が決壊する。
「知らぬふりをして彼を取り立てた。知らぬふりをして島へ連れ出した。島へ――戦場へ」
乙女の顔が、強ばる。
「帰ったらすぐにも、あなたと結婚しようと思っていた。なのにあなたには会えなかった」
意味を理解することは、難しくない。
「それから三年も経ってから、あなたの杯はガウリスの弟が持ち去ったと知った!」
思い当たることはいくつもあった。――が、気づかなかった。
ああ、もはや。
パリスは窓際に立ち、おもむろにドレスの裾を引き寄せた。
「今はわたしの手のなかにある。さあ、パリス」
「近寄らないで」
伸ばした手の先に鋭い痛みを感じて、ジェイファンは顔をしかめた。
血が滲んでいる。見ると、パリスはナイフを構えていた。
見覚えがある。
「それは、ガウリスの――」
「彼は言いました。この剣は、罪なき人を守るためのものだと」
扉の外から足音が響く。だんだん近づいてきているようだ。
「ああ、あなたは、わたしの罪のために罪人になった」
ナイフをのど元に据える。
足音が扉を開く。
窓と塀のあいだには、偽りと真実が投げ捨てられていた。