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 花嫁は、すでに諦めていた。

 豪奢な白いドレス。金色の髪はきれいに整えられ、花が飾られた。窓外から響く音楽と民衆の声は明るく朗らかで、まるで壁を境に、世界が分かれているかのように思えた。

 実際、そうだった。

 もちろん城内にも、単純に終戦を喜ぶものたちは多かった。しかし、それと同時の王位交代と、新王ジェイファンの結婚式に、戸惑うものたちもいた。

 つまり――戦がまだ終わらないことを、知っているものたちだ。

 ただでさえ犠牲の多かった戦だ。戦いは終わっただけで、得るものはなかった。なにを祝うことがあろう――新王の結婚だなど、国民の目を喜びに向けさせるための、再び始まる悪夢のごまかしでしかない。

 彼女とて事実を知っていたわけではない。だが城内にいては、それを知るも容易だった。ほんのわずか耳を澄ませれば、憂うものたちが声を潜めて交わす会話がよく聞こえる。

 針子たちが退き、部屋に一人きりになって、パリスは祈りの言葉を心中で唱えた。

 胸に、杯を抱く。

 デライフの杯。今まで、ラドリアナ教を信仰する多くの乙女たちが、愛する男に捧げてきた。これからも、この風習は変わるまい。

 しかし、それは彼女のものではなかった。刻まれた名前は彼女のものであるし、かつて彼女が持っていたそれと二つ並べねば違いもわかるまいが、偽物であった。

 およそ初めてであろう。王家に嫁ぐものが、まさか偽りの誓いを用意するなどとは。

 自嘲気味に口角を少しだけ上げて、ふわふわとしたスカートの上から太ももを撫でる。冷たい硬質の存在を確認して、覚悟の息をつく。

 偽りが暴かれるようなことがあれば、自ら――。

「パリス?」

 急に名前を呼ばれて、振り返る。伺うような、優しいけれど不安げな友の声に、パリスは、知らず強ばらせていた表情をゆるめた。

 いつのまにいたのか。いいや、そういえば、先ほど扉を叩く音が聞こえた気がする。友人はいつものように、その身分に似合わぬ黒い胴衣を身につけていた。

「無事に出発したよ」

 ロネウスが、潜めた声で言った。向けられる真剣なまなざしに、パリスは思わず目を逸らす。そう、と、息継ぎのような返事をして、窓の外を見やった。

 彼とももう、会えぬだろう。そんな予感がした。

「もうすぐ兄上が来るけど、わたしも支度をしなくてはいけない。いいこと、パリス。どうか、心を強く持って」

「わかってる」

 今一度、スカートを撫でる。逆の手で、杯をやや掲げる。いかに似ていようと、やはり偽物は、どうにも手に馴染もうとしない。

 違和感に彼を思う。

「似合いだわ」

 友人は、杯の真相を知っている。これを用意してくれたのは、ほかならぬロネウスだった。

 同時に、乙女の言葉の真意も、よく理解していた。

「兄上は、たとえ偽りでも、あなたの愛を欲するでしょう」

「そうね」

 たとえ、偽りでも――たとえ――ああ、なんとひどいことを考えていたか。

 偽者でもよかった。

 温もりが欲しかった。

 あの人の面影が欲しかった。

 一緒に、逃げたかった――身勝手なわがまま。だから、これは罰だ。

「わたしにはもう、愛を求める資格なんてないのだわ」

 ぽつりと呟いたそれを、友人は聞き取れただろうか。聞き返す代わりに、ロネウスはさよならを告げた。

「たとえひとときでも、愛する人に愛された。あなたは果報者よ」

 彼女は言うと、一度も振り返らずに部屋を去った。乙女は友人の言葉を反芻して、先ほどから握りしめていた杯を見つめた。

 ゆっくりと窓に歩み寄る。見下ろすと、木立が小さく見えた。塀よりこちらに人影はない。この窓とあの塀が、静けさと騒がしさを隔てている。


 ジェイファンが部屋を訪れたのは、それからまもなくだった。

 彼に気づくと、花嫁は礼儀に習い、立ち上がって丁寧に挨拶を述べた。

「よい、あなたは今日から、わたしの妻になるのだから」

 ジェイファンは優しく笑んで、彼女の肩を抱き寄せた。美しい金糸を手ですくう。はらはらとこぼれる様は、どんな財宝よりも尊いと、彼は思った。

 乙女はというと、驚くほどに冷静に、相手を観察していた。

 戦いで身につける重いものではなく、華やかに飾り付けた鎧をまとい、鮮やかに赤いマントは彼が一歩進むごとにひらりとなびく。剣の代わりにまっ白な花を腰に下げ、それはまさしく花婿の装いだった。

 ああ、これがガウリスだったら――と考えて、いや、と改める。彼はこんな習わしを知らないだろう。

 ジェイファンは、まるで壊れものを扱うようにおそるおそる、彼女の頬を撫でた。

「さあパリス、行こう。国中のみんなが、わたしたちを待っている」

「いいえ」

 手を引くと、乙女は拒んだ。そして、強く振り払う。思いがけない返事に、ジェイファンはまなじりを決した。

「わたしは、あなたと結婚できません」

 厳かな口調でパリスは告げる。

 柔らかな唇は覚悟に震え、大きな瞳はまっすぐに彼に向けられている。なぜと問うこともできないうちに、彼女は続ける。

「許してくださいなどとは、申しません」

 太ももを撫でる。ドレスは、乱れている。

「わたしはもう、杯を持っていないのです。わたしの誓いは、デライフの杯は、今、わたしが心から愛する人の手にあるのです」

 震えは徐々に消え、語気が強まる。

「あなたに誓う愛は――ありません」

 きっぱりと言い切ると、室内は再び静かになった。

 ぎゅっと拳を握る。ジェイファンは瞬きも忘れて彼女を見つめている。互いに逸らすこともできぬまま黙している。

 城内をだれかが駆ける音が響いた。

「ならば、パリス」

 風は冷たい。

「あなたは今、あなたの杯を持っている男を愛するというのか」

 ――頷いたのは、そうだと信じていたからに他ならない。

 パリスは血相を変えた。なぜなら、ジェイファンがそれを差し出したからだ。

 ジェイファンの口許はほほ笑んでいた。しかし、瞳は違った。ひどく悲しげに、自分の卑しさを蔑んでいた。

 そうまでして彼女が欲しいか。

 彼女を悲しませてまで、陥れてまで、彼女が欲しいか。

 そうは思えど、歪みは口許からこぼれて止まらない。

「知っていたとも、パリス。わたしの知らぬところで、あなたがあの男――ガウリスと愛し合っていたことは。けれどわたしは、知らぬふりをした」

 七年間抱いてきた憎しみに、愛が決壊する。

「知らぬふりをして彼を取り立てた。知らぬふりをして島へ連れ出した。島へ――戦場へ」

 乙女の顔が、強ばる。

「帰ったらすぐにも、あなたと結婚しようと思っていた。なのにあなたには会えなかった」

 意味を理解することは、難しくない。

「それから三年も経ってから、あなたの杯はガウリスの弟が持ち去ったと知った!」

 思い当たることはいくつもあった。――が、気づかなかった。

 ああ、もはや。

 パリスは窓際に立ち、おもむろにドレスの裾を引き寄せた。

「今はわたしの手のなかにある。さあ、パリス」

「近寄らないで」

 伸ばした手の先に鋭い痛みを感じて、ジェイファンは顔をしかめた。

 血が滲んでいる。見ると、パリスはナイフを構えていた。

 見覚えがある。

「それは、ガウリスの――」

「彼は言いました。この剣は、罪なき人を守るためのものだと」

 扉の外から足音が響く。だんだん近づいてきているようだ。

「ああ、あなたは、わたしの罪のために罪人になった」

 ナイフをのど元に据える。

 足音が扉を開く。


 窓と塀のあいだには、偽りと真実が投げ捨てられていた。

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