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彼の姿を認めるなり、幼馴染は緊張に強ばる顔を泣きそうにゆがめた。無言のまま彼女の前まで進む。チェリファリネの伸ばした両手が、レジェンの肩を抱きかかえた。
美しい金色の髪を撫でる。小さく震え、静かに泣き出す乙女に、なんと声をかければいいのか、レジェンにはわからなかった。ただ、ごめん、と呟くように言う。
「さあ、早くラセルに」
ウォルドが促して、二人の島人はラセルに跨った。老いた馬は、まるでなにもかもを悟ったかのように、優しく彼らを受け入れた。
ロネウスが用心深く、周囲を見渡す。高くそびえる塔の向こうからは、なにやら騒がしい声が響く。食堂あたりだろうか。それと比べて、裏口はふしぎなほど静まり返っている。
風が吹く。草花の揺れる音にさえ、過敏に睨みつける。
「明日の夜、ポンポーソ港から船が出る。その船の貨物に紛れて、島へ渡れ」
「貨物に?」
「多くの武器が積み込まれる。いくつか大きな木箱も含まれるから、そのうち一つに隠れればいい――中身は捨てろ」
ウォルドが淡々と説明する。まなざしは真剣で、声色は重い。それから騎士は、大きな袋をレジェンに手渡した。彼は軽々と持っていたが、受け取ると予想以上に重かった。
「島に着くまでに三日はかかるだろう」
中身を確認する。食料と、水の瓶が入っていた。重いはずだ、七日分はある。
「ありがとう」
「おれは謝らなくてはいけない」
感謝に、ウォルドはすぐさま首を横に振った。
いたたまれなかった。互いに、後ろめたいことがあった。ウォルドは彼らを裏切ったし、レジェンもウォルドの忠告を無視した。無事に島まで送り届けてくれるはずの約束が深夜の船、それも貨物に忍び込むという方法になってしまったのも、それが原因だとレジェンは考える。
レジェンは今や、王子の婚約者をさらった悪党だ。いかに約束があるとはいえ、みすみす反逆者を逃すなど、まして助けるなど叶うはずもない。
しかし、気になることがある。
「‥‥どうして、武器が?」
戦争は終わったはずだ。なのになぜ、武器をハオン島に運ぶのか。
ウォルドが口をつぐむ。思案しているようだった。やがてゆっくりと、慎重に言葉を選びながら、短く言った。
「王子はハオン島を欲しがっている」
意味は一つだ。
「勘違いしないで、兄上の本当の意思じゃない」
ロネウスが訴えるように付け加えた。レジェンはすこし考えて、小さく頷く。ジェイファンはパリスにはひどく執着しているが、ハオン島について発言しているところは見たことがない。
思い出すのは、城での宴会の夜――中庭でなにかを話していた、王と王子の姿だ。親子でありながら、ジェイファンの父親に対する態度は、他の国民が王に対するそれとなんら変わりなかったように思う。
たとえ親子でも、王にとって彼は騎士のうちの一人でしかないのか。
「王はたしかに今日で退位し、王子が即位する。王はたしかにハオン島から手を引くが――」
「王子は引かない、ってことか」
同時に、和解したのはコモードとだけ、ともいえる。
なんと幼稚な言い逃れか。ロネウスが辛そうにうつむいた。
あのときレジェンたちを退かせなかったのは、話を聞かせ、彼らに安心させるためだったのだろうか。油断させるためだったのだろうか。もしくは彼らに限らず、翌日に会議へ出発した騎士たちのほかに、終戦の真実を知らせたくはなかったか。あの場には給仕の乙女たちも出入りできたし、レジェンたちはウォルドの出発後も、彼の母親とともにフェローチェで待つことになる。もし真意を知った島人が逃げてしまってはブリランテには不利であるし、逆にもし終戦の報せを島に送っていたなら、国には有利に働く。
「その企てが王の口から説明されたのは、会議のあとだった」
曖昧だった推測が、明確になる。レジェンの説も決して遠くはなかったが、狙いは違った。
「あの宴で試されたのは、酒の席でも秘密を守れるか否かだった」
誘惑に酔い、他言されては敵わぬ。だからこそあらかじめ騎士を選定し、出先で命を出す。
では――では。
「昨日、ウォルドが森にいたのは――」
「王の命には逆らえなかった」
声が震えている。
ロネウスが歩み寄り、騎士の肩にそっと触れる。彼女の顔もまた、悲しみに曇っていた。
と、食堂のほうから大きな歓声が響いた。四人は一斉に振り返り、チェリファリネは幼馴染の背中を強く抱きしめた。拳に力が入る。
「兵は来ない?」
「おれが見張ると言ってある」
ウォルドが向き直る。そして手をレジェンに伸べる。応えて握った彼の手の中に、なにか小さなものがある。手は繋がれたまま、騎士は彼に、願いを告げた。
牢獄のなかで、レジェンにしか頼めないと言った、あれだ。
「島に着いたら、一緒に運ばれた武器をできるだけ早く処分してほしい。とくに木箱に積まれたものは海にでも捨ててくれ。だが、火には十分気をつけろ」
「火?」
おうむ返しの問いに騎士は頷く。が、それ以上説明を乞うことはできなかった。
遠くから美しい、華やかな合唱が響いてきた。ロネウスが泣きそうなため息をつく。
「もう行かなくちゃ」
ウォルドが頷く。そうか、戴冠式か――レジェンはそう思ったが、違った。
「結婚式だそうよ」
チェリファリネの言葉に、レジェンは驚いて振り返る。結婚式。だれの、とは訊かなかった。
「杯は?」
持っていないことがわかれば、パリスは。恐ろしい結末の予想に、体が強ばる。とたん、ウォルドの手に力がこめられる。
「レジェン――」
城内に戻ろうと歩き出したロネウスが、騎士の漏らした嗚咽に振り返った。騎士はうつむいて、握った友人の手を、もう片方の手で覆った。
賛美歌が終わり、拍手が鳴る。どこか、遠くの音のようだった。
「すまなかった」
太鼓の音が響き、ラセルが驚いたようにいなないた。同時にウォルドの手がするりとほどかれる。
行け、というウォルドの声に、ラセルが駆け出す。自分の役割も、どこへ行くべきかも、すべてわかっているかのように。
「チェリファリネ!」
背後から、彼の声が響く。がらがらと苦しそうな涙声だった。幼馴染が振り返ったのが体温の動きで伝わってくる。
「おれは、ずっと――‥‥」
道なき道を、馬は駆けた。緩やかに起伏を繰り返す草原で、方位を知れるのは太陽だけだった。地図こそ持ってはいないが、ポンポーソが城から南東にあることは覚えている。
「なんて言ってたのかしら、ウォルド」
騎士が叫んだ言葉の最後は、彼らには聞き取れなかった。もしくは言わなかったのかもしれない。けれど、レジェンにはわかった。
「さあね」
言いはしなかった。知ったとて、また彼に会うことはあるだろうか。叶うだろうか。
もし、そのときが来たら――来てほしい。そのためには、戦争を終わらせなくてはならない。
ぎゅっと、握りしめたままだった手を、ゆっくりと開く。なぜウォルドは最後まで、別れる間際まで手を放さなかったのか。
友人の言葉を恐れたのだ。
三日月を二つ重ねた紋章が彫られ、中央に青い石が埋め込まれた幅の広い銀色のそれは、かつて白髪の魔女アンジェニから預かった、コモード王子メリアンの指輪だった。