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 「だれもが兄とぼくとを間違えます」

 レジェンは慰めるように言った。

「ぼく自身、疲れているときなどは、鏡に映る自分の姿に、うっかり呼びかけてしまうのです。それから夢で、兄に出会うことがあります。とてもうれしい気持ちになるのですが、それはほんのいっときで、近づいてゆくと、兄だと思ったものが実は自分であることに気づくのです」

 兄と最後に別れたのは八年も前だ。当時、兄は十八歳だった。記憶のなかの兄は、彼自身よりずっと幼い。けれど兄を知る人々に似ていると繰り返し言われるたび、この姿こそ、今の兄のそれなのではないかと思うようになる。

 パリスが最後に見たであろう兄は、二十二歳だった。今のレジェンと同じだ。三年では人相などそう大きくも変わるまいが、少なくとも三年前のレジェンとガウリスとでなら、パリスは見まごうことはなかったろう。

 乙女のついたため息が、夜風に白く漂う。

「あなたのお兄さまは、サー・ウォルドにも劣らぬ勇気を持った刀鍛冶だったわ」

「‥‥あなたさまを襲った危機を兄が助けたことは、ウォルドから聞きました。とても誇らしく思います」

 同時に悔しくも思った。あの事件さえなければ、今ごろ二人は幸せにいただろう。互いに、別々の相手を選んで。パリスにおいては、迷いもなくジェイファンと結ばれ、いずれ王妃となったろう。

「わたしは、父の仕事を好いてはおりませんでした。戦いの道具を作るなど――いいえ、刀鍛冶を学ぶといいながら、隙を狙ってはわたしにまとわりつく。そんな輩が絶えず訪ねてくるのです。幼いころからです。わたしは、刀鍛冶とはなんと下賎なものたちなのだろうと疑っておりました」

 言葉はゆっくりと空に放たれる。美しいがゆえの、乙女の苦悩。

「もちろん、なかにはよい心を持ったものも多くいます。純粋に剣を打つことを志すものも多くいます。けれどわたしにはわからなかったのです。間違いに気づいたのは、あの事件だった」

 強い信念。屈さぬ心。真実の正義。いっそ気づかずにいればよかった。

 そっと見やる。乙女の閉じたまぶたの裏には、きっと兄の姿が映っていよう。ああ、なるほど。彼女が兄の心に焦がれるならば、見劣る容姿など気にもしまい。

 見目だけではない。なんと美しい恋を知る人か。

「――眠りましょう」

 そっと乙女の肩に触れる。金糸がゆるやかに流れた。やがて乙女は静かな寝息を立て始める。レジェンは長いあいだ、それを見つめていた。



 きっとこの夜見た夢を、彼は忘れはしないだろう。

 パリスとの離別だ。あれはだれだろう――彼自身か、はたまた兄か。わからない、よく似ている。

 黒髪の少年は、麗しき乙女に剣を差し出した。美しく鋭い短剣。乙女は慎重に受け取ると、輝く刀身に口づけをした。

 乙女は決意していた。なにを、かは定かではない。強いまなざしはどこまでもまっすぐ、ガウリスに向けられていた。そう感じた。

 ――いけません、お嬢様。この剣は、わたしが罪なき人を守るがために鍛えた剣です。

 事件のとき、ガウリスがパリスに言ったとされる言葉だ。

 ――もしこの剣であなたの命が絶たれたなら、わたしはもう師に、あなたのお父上に顔を合わせることも叶いますまい。

 ああ、あれは兄だ。ようやく、レジェンは理解する。パリスと向かい合い、短剣を差し出しているのは、疑いなく兄だ。

 彼は喜びに兄へ駆け寄る。しかしそのとき、遠くから蹄の音が響いてきた。振り返る。だれもいない。もう一度兄を見やると、そこにはもうパリスの姿しかなかった。

 蹄の音だけが響いている。徐々に近づいてくる。パリスは短剣をのど元に構え、姿なき敵を睨みつけている。目にはあふれそうに涙を湛えて。

 ――ああ!



 耳元でいななきを聞いて、レジェンは目を覚ました。眠りに落ちてから長くも経っていないことはすぐにわかった。月は出ているが、雲が隠している。

 夢か。いいや、それにしては妙だ。ほかはともかくとして、いななきだけは現実のようだった。しかしラセルはまだ眠っている。

 周囲を見渡す。と、やや離れたところに人影があるのに気づいた。こちらを見ている、歩み寄ってくる。もの盗りか、警戒しナイフを身構える。

 と、異変に気づいてか、ラセルが目を覚ましたようだった。それまで土に傾けていた首をひょいと上げ、レジェンを振り返る。肩に体を預ける乙女の髪を、包むように撫でた。

 影は近づいてきている。やがてわずかいでたちが見えるようになったとき――レジェンの心臓は凍てついた。

 白い。白い楯に、闇に溶ける黒いマント。

 ――悪党。

 レジェンが勢いよく立ち上がると、騎士は一瞬立ち止まる。そして――なにかに気づいたか。突然慌てだし、馬を引き寄せてひらりと跨った。手綱を強く引かれた馬は、前足を高く上げてから、今来た道を駆け出した。

 ――逃がしてはいけない。

 そんな気がして、レジェンも手綱を引いた。静かながらただならぬ騒ぎにパリスも目を覚ます。ラセルは素直に立ち上がり、パリスにはここで待つように告げると、レジェンは騎士のあとを追いかけた。

 強い風が月を隠す雲を押し流していく。

 騎士の馬が劣っていたわけではない。騎士の装備を考えれば、その重みに足は鈍くなる。対してレジェンの跨る馬は、老いてはいたが身軽であった。

 やがて差は半馬身ほどとなった。翻る黒いマントに、雲から逃れた月の光が影を作る。

 手綱を握る手のひらに、冷たい汗を感じた。

 ふしぎだ。妙だ。違和感――いいや、既視感がある。騎士の装いにではない、もちろん見覚えはあるが、彼じゃない。

 馬だ。この馬の駆ける姿を、どこかで見た。

 ――そんなわけ、あるはずがない。

 追うべきか。迷いが生まれる。もしこのまま追い続けては、なにか大切なものを失う気さえする。しかし諦めては、真実が逃げていく気がする。

 兄ならどうしたか。

 兄はいつでも、正義を貫いたろう。

 やがて疑いは確信を得る。

 考えずともわかることだ。馬に乗りながらにして馬を追ったことなど、ここ数日のことでしかない。その間、ほかのあとを追ったろうか?

 なぜ考えが及ばなかったか。白い楯を構え、黒いマントを羽織る。それだけで悪党に化けられる。

 追い抜く。騎士の馬は足を止めた。

 月光が――新月の近いそれは、か細い、わずかな輝きではあったけれど、それを認めるには十分な光が――騎士の姿を明らかにする。

 騎士は観念したようだった。

 問いかけようとして、のどの奥が痛む。鼻の奥が冷たくなる。眼球の裏側に、涙が用意される。

「――ウォルド」

 名を呼ぶだけで精一杯だった。それ以上、なにも続けることはできなかった。

 騎士はゆっくりと兜を脱いだ。

 金色の髪。整った顔立ちに、また伸びてきた似合わない無精ひげ。

 正義から背けた目だけは、今までに見たことがなかった。

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