26
「だれもが兄とぼくとを間違えます」
レジェンは慰めるように言った。
「ぼく自身、疲れているときなどは、鏡に映る自分の姿に、うっかり呼びかけてしまうのです。それから夢で、兄に出会うことがあります。とてもうれしい気持ちになるのですが、それはほんのいっときで、近づいてゆくと、兄だと思ったものが実は自分であることに気づくのです」
兄と最後に別れたのは八年も前だ。当時、兄は十八歳だった。記憶のなかの兄は、彼自身よりずっと幼い。けれど兄を知る人々に似ていると繰り返し言われるたび、この姿こそ、今の兄のそれなのではないかと思うようになる。
パリスが最後に見たであろう兄は、二十二歳だった。今のレジェンと同じだ。三年では人相などそう大きくも変わるまいが、少なくとも三年前のレジェンとガウリスとでなら、パリスは見まごうことはなかったろう。
乙女のついたため息が、夜風に白く漂う。
「あなたのお兄さまは、サー・ウォルドにも劣らぬ勇気を持った刀鍛冶だったわ」
「‥‥あなたさまを襲った危機を兄が助けたことは、ウォルドから聞きました。とても誇らしく思います」
同時に悔しくも思った。あの事件さえなければ、今ごろ二人は幸せにいただろう。互いに、別々の相手を選んで。パリスにおいては、迷いもなくジェイファンと結ばれ、いずれ王妃となったろう。
「わたしは、父の仕事を好いてはおりませんでした。戦いの道具を作るなど――いいえ、刀鍛冶を学ぶといいながら、隙を狙ってはわたしにまとわりつく。そんな輩が絶えず訪ねてくるのです。幼いころからです。わたしは、刀鍛冶とはなんと下賎なものたちなのだろうと疑っておりました」
言葉はゆっくりと空に放たれる。美しいがゆえの、乙女の苦悩。
「もちろん、なかにはよい心を持ったものも多くいます。純粋に剣を打つことを志すものも多くいます。けれどわたしにはわからなかったのです。間違いに気づいたのは、あの事件だった」
強い信念。屈さぬ心。真実の正義。いっそ気づかずにいればよかった。
そっと見やる。乙女の閉じたまぶたの裏には、きっと兄の姿が映っていよう。ああ、なるほど。彼女が兄の心に焦がれるならば、見劣る容姿など気にもしまい。
見目だけではない。なんと美しい恋を知る人か。
「――眠りましょう」
そっと乙女の肩に触れる。金糸がゆるやかに流れた。やがて乙女は静かな寝息を立て始める。レジェンは長いあいだ、それを見つめていた。
きっとこの夜見た夢を、彼は忘れはしないだろう。
パリスとの離別だ。あれはだれだろう――彼自身か、はたまた兄か。わからない、よく似ている。
黒髪の少年は、麗しき乙女に剣を差し出した。美しく鋭い短剣。乙女は慎重に受け取ると、輝く刀身に口づけをした。
乙女は決意していた。なにを、かは定かではない。強いまなざしはどこまでもまっすぐ、ガウリスに向けられていた。そう感じた。
――いけません、お嬢様。この剣は、わたしが罪なき人を守るがために鍛えた剣です。
事件のとき、ガウリスがパリスに言ったとされる言葉だ。
――もしこの剣であなたの命が絶たれたなら、わたしはもう師に、あなたのお父上に顔を合わせることも叶いますまい。
ああ、あれは兄だ。ようやく、レジェンは理解する。パリスと向かい合い、短剣を差し出しているのは、疑いなく兄だ。
彼は喜びに兄へ駆け寄る。しかしそのとき、遠くから蹄の音が響いてきた。振り返る。だれもいない。もう一度兄を見やると、そこにはもうパリスの姿しかなかった。
蹄の音だけが響いている。徐々に近づいてくる。パリスは短剣をのど元に構え、姿なき敵を睨みつけている。目にはあふれそうに涙を湛えて。
――ああ!
耳元でいななきを聞いて、レジェンは目を覚ました。眠りに落ちてから長くも経っていないことはすぐにわかった。月は出ているが、雲が隠している。
夢か。いいや、それにしては妙だ。ほかはともかくとして、いななきだけは現実のようだった。しかしラセルはまだ眠っている。
周囲を見渡す。と、やや離れたところに人影があるのに気づいた。こちらを見ている、歩み寄ってくる。もの盗りか、警戒しナイフを身構える。
と、異変に気づいてか、ラセルが目を覚ましたようだった。それまで土に傾けていた首をひょいと上げ、レジェンを振り返る。肩に体を預ける乙女の髪を、包むように撫でた。
影は近づいてきている。やがてわずかいでたちが見えるようになったとき――レジェンの心臓は凍てついた。
白い。白い楯に、闇に溶ける黒いマント。
――悪党。
レジェンが勢いよく立ち上がると、騎士は一瞬立ち止まる。そして――なにかに気づいたか。突然慌てだし、馬を引き寄せてひらりと跨った。手綱を強く引かれた馬は、前足を高く上げてから、今来た道を駆け出した。
――逃がしてはいけない。
そんな気がして、レジェンも手綱を引いた。静かながらただならぬ騒ぎにパリスも目を覚ます。ラセルは素直に立ち上がり、パリスにはここで待つように告げると、レジェンは騎士のあとを追いかけた。
強い風が月を隠す雲を押し流していく。
騎士の馬が劣っていたわけではない。騎士の装備を考えれば、その重みに足は鈍くなる。対してレジェンの跨る馬は、老いてはいたが身軽であった。
やがて差は半馬身ほどとなった。翻る黒いマントに、雲から逃れた月の光が影を作る。
手綱を握る手のひらに、冷たい汗を感じた。
ふしぎだ。妙だ。違和感――いいや、既視感がある。騎士の装いにではない、もちろん見覚えはあるが、彼じゃない。
馬だ。この馬の駆ける姿を、どこかで見た。
――そんなわけ、あるはずがない。
追うべきか。迷いが生まれる。もしこのまま追い続けては、なにか大切なものを失う気さえする。しかし諦めては、真実が逃げていく気がする。
兄ならどうしたか。
兄はいつでも、正義を貫いたろう。
やがて疑いは確信を得る。
考えずともわかることだ。馬に乗りながらにして馬を追ったことなど、ここ数日のことでしかない。その間、ほかのあとを追ったろうか?
なぜ考えが及ばなかったか。白い楯を構え、黒いマントを羽織る。それだけで悪党に化けられる。
追い抜く。騎士の馬は足を止めた。
月光が――新月の近いそれは、か細い、わずかな輝きではあったけれど、それを認めるには十分な光が――騎士の姿を明らかにする。
騎士は観念したようだった。
問いかけようとして、のどの奥が痛む。鼻の奥が冷たくなる。眼球の裏側に、涙が用意される。
「――ウォルド」
名を呼ぶだけで精一杯だった。それ以上、なにも続けることはできなかった。
騎士はゆっくりと兜を脱いだ。
金色の髪。整った顔立ちに、また伸びてきた似合わない無精ひげ。
正義から背けた目だけは、今までに見たことがなかった。